第一章 始まりの君
一 宁麗文という男
この世界にはかつて様々な世家が存在していて、その数三百ほどだった。しかし、彼らは幾度の戦争や紛争によって次々と滅亡していった。
それでも民を取りまとめ、各々の生活の保護の確立を果たしたから世家たちがあった。その実、十世家。その中でも全ての世家を強くまとめている、中心となる世家が『|江陵宁氏《こうりょうニン》氏』と呼ばれている。
この世家の初代はただの放浪者でありながらも、六芸に|秀《ひい》で剣技も弓技も学も右に出る者はいないといった、まさに天下一品を手にした男だった。そして彼は人一倍情に満ちた人間でもあり、どんな依頼をも引き受け、どんな依頼をも成し遂げるような男でもあった。
そうして様々な依頼の回数を重ねに重ねたある日、男は気付いた。
──なぜ、身体が弱らない?
男はしばらく疑問に満ちたまま様々な道を歩いた。様々な依頼を引き受け、成し遂げた。様々な困難に立ち向かい、そして、気付いた。
男は、|金丹《きんたん》【体内の|丹田《たんでん》と呼ばれる部位に気を養ってできたもの】を手にしていたのだ。
彼は腑に落ちた顔つきで、それも穏やかな顔で日々を過ごしていた。気が付けば男の周りに人が集まっていた。最初はするつもりもなかったが、次第に|門弟《もんてい》を取り始めた。そうしてついに、|江陵《こうりょう》の場で『|宁《ニン》氏』として宗主を務めたのだ。
彼は更なる修練を積むために、最愛の妻へ|閉関《へいかん》をすると告げた。彼女はそれをよしとはしなかったが、男が強い思いを抱いていることを知っていたために何も言わないで見送った。男は離れる前に強く妻を抱きしめ、そして|閉関《へいかん》を始めるために静かな山の洞窟に籠った。その実百年も経っていた。
|閉関《へいかん》を終え修練も高くなった男は邸宅へ戻る。しかし、そこにはかつての|門弟《もんてい》も|家僕《かぼく》も、そして妻すらもいなかった。
男は途方に暮れた。
──まさか、自分が|閉関《へいかん》している間に|江陵宁氏《こうりょうニンし》は滅びてしまったのか?
──なぜ、誰もいないのか?
男は死にたくなった。
──なぜ自分は|閉関《へいかん》をしてしまったのか。
──修練を高めるべきではなかった。
──妻の傍にいるだけでよかった。
絶望に打ちひしがれ酷く死にそうな顔をした男は邸宅の門に手をつける。すると、中から麗しい女が顔を見せた。その女は気品が溢れ、佇まいも上品だった。その様子はかつての妻を想起させた。
女は男を見て唇を震わせる。
「あなたは──初代の、宗主ですか?」
男は目を見開く。
「私を知っているのか?」
女は薄い茶の瞳を潤ませて頷く。それに皺ひとつもない肌を持つ男は焦って続けた。
「頼む、教えてくれ。私には最愛の妻がいる。あなたみたいに綺麗で、お淑やかで、私をいつも心配してくれていた女性なのだ」
女は彼に静かに右手を上にして|拱手《きょうしゅ》をして腰を軽く折った。姿勢を正して何度も瞬かせながらまっすぐと男を見る。
「あなたの言う妻は、私の曾祖母にあたります」
彼女の|眦《まなじり》から流れる一筋に男の薄い茶に陰が宿る。
自分が|閉関《へいかん》した期間は、とても長く、そして短い。それを彼は知らず、妻は知っていた。たったそれだけだったが、彼はそれに気付けなかったのだ。
「──ならば、もう、妻は……」
女は瞼を閉じて首を横に振る。男は息を吐いて頭を振った。
──最愛の者がいなければ、生きる意味などない。私は生きる術を喪ってしまった。だからこれは私への罰だ。
男は薄茶の陰を取ることもせずに女に向けて左手を上にして|拱手《きょうしゅ》をした。一つ瞬いた女は涙を拭うこともせずに背を向けようとする彼に声を掛ける。
「彼女はあなたをずっと、亡くなられてしまうその時までお待ちしておりました。いつ開関するのか、戻ってきたらどう歓迎しようか、早く会いたいと。……祖父も父も、そして私もずっとあなたを待っていました。曾お祖母様は──もし、自分が亡くなったらと私たちに聞かせてくださいました」
男は目を見開いて彼女を見上げる。自分の曾孫は涙を一粒一粒と流している。その姿はかつての、|閉関《へいかん》をする話をした時に涙を流していた妻に似ていて、絶望と共に懐古の念をも感じた。
「それは、何と?」
女はにこりと笑いかける。
「『あなたの子供たちは、この地を大切に受け継ぎます。私はこの子たちを見守るだけ。修士であり、宗主でもあるあなたは、子供たちに大切なものを教えてあげてください』──と」
男の|眦《まなじり》から一筋の涙が流れた。
男にとって生涯、大切で最愛の妻は、最愛の子供たちを自分に託したのだ。
男は涙を拭い、絶望のその眼に光を取り戻す。そして、踵を返して女がいる|江陵宁氏《こうりょうニンし》の門を通った。
男は心の中で決めた。
──この子たちは正義で溢れ、民にも天にも優しくあるべきだ、と。
「これが私たち|宁《ニン》氏の歴史よ」
ひとりの少年が寝台の上で、寝台に腰掛けている女の話を聞いていた。彼の肌は透き通っている真珠のように白く、穢れを知らず光を宿らせている薄茶色の瞳は理解ができずに彼女を見上げている。
「分からないです」
「ふふ、|阿麗《アーレイ》には分かりづらかったみたい」
「他に何か面白い話はないんですか?」
「残念ながらこれしかないのよ。ごめんなさいね」
|阿麗《アーレイ》と呼ばれた少年は不満げに頬を膨らませた。次に言おうと息を吸ったところで酷く咳き込んでしまう。女は眉を顰めて彼の背中を擦る。
「|阿麗《アーレイ》、大丈夫?」
「けほっけほっ」
いくらか摩り、|阿麗《アーレイ》は少しずつ小さい息を吸って吐く。先程より弱々しくなる声に彼は酷く悲しげな表情を浮かべる。
「ごめんなさい、母上」
「構わないわ。それじゃ、今日はここまでにしましょう。明日は先生が来るから早く寝なさい」
「はい」
女は|阿麗《アーレイ》の部屋から立ち去って、そして彼はひとりになった。彼はまた咳をして、それを抑えながら寝台の上で横になり、そして瞼を閉じる。
──民にも天にも優しくあれ。
──正義を貫け。
自分の一族の歴史は難解で理解できなくとも、家訓だけは理解していた。
(僕も、そんな人になれるのかな)
少年の意識は次第に暗転へと誘われた。
|宁《ニン》氏は|阿麗《アーレイ》の父親である|宁浩然《ニンハオラン》で十二代目だ。彼より何代か前には|邪祟《じゃすい》との大きな戦争があり、その中心には|宁《ニン》氏がいて、当時の宗主は戦争を終わらせるために『|世長会《せちょうかい》』を開いた。彼らは同盟の誓いを結ぶと同時に『|怨詛浄化《えんそじょうか》』──つまり|邪祟《じゃすい》の退治に重点を置いた。|世長会《せちょうかい》は|邪祟《じゃすい》をこの世からなくすために情報収集と退治方法を考え、それが何代も続き、現在へと続いていった。
|宁《ニン》氏は中心の地であるため、|世長会《せちょうかい》は江陵|宁《ニン》氏の邸宅の中で一番広い客間で行われる。そこにその他九世家も参加し、|宁《ニン》氏だけは一族直系のみの出席となる。|宁浩然《ニンハオラン》は当然の如く、彼の妻である|深緑《シェンリュ》と長男の|宁雲嵐《ニンウンラン》も参加している。
──さて、ここで疑問が浮かび上がるだろう。先程の『|阿麗《アーレイ》』と呼ばれた少年である。彼は|宁巴《ニンバー》、字は|麗文《レイウェン》と呼ぶ。彼は不幸にも産まれてから身体が弱く、毎日のように何かしらの病に罹っていた。それを見かねた|宁浩然《ニンハオラン》が彼のみ不参加を決定づけたのだ。
だが、|宁麗文《ニンレイウェン》は十、十一、十二と成長していく毎に身体が丈夫になっていき、遂には病に|罹《かか》ることさえなくなった。これは彼の一族皆の誰もが歓喜すべき出来事だろう。|宁浩然《ニンハオラン》が再び|世長会《せちょうかい》への参加を問い、|宁麗文《ニンレイウェン》はそれに応えたことで、ようやく|宁《ニン》氏は全員の出席となったのだ。
それまで|宁麗文《ニンレイウェン》が出ていなかった|世長会《せちょうかい》では「誰なのか」「どこの世家の者なのか」「なぜ|宁《ニン》氏の席に座っているのか」などと小さく話をしていたが、|宁浩然《ニンハオラン》が正式に発表したことでその場は更に騒然とした。
「まさか次男もいたとは」
「それならなぜ、今までの|世長会《せちょうかい》に出席しなかったのだ」
「これは彼に対する侮辱なのではないか?」
次々と各宗主から出る言葉に|宁麗文《ニンレイウェン》は苦笑するしかなかった。
(侮辱って。元々身体が弱くて出席しなかっただけなのに、なんでそこまで言われなきゃいけないかな)
|宁浩然《ニンハオラン》は口元に拳を寄せて一つ咳払いをして辺りを見回す。彼の咳払いを聴いた宗主たちは一斉に口を閉じた。
「今回は私の息子の話のために集まってもらったわけではない。本題を忘れないように」
それまで騒然としていた客間は一瞬にして静寂を保ち、|宁浩然《ニンハオラン》は手元にあった木簡を取り出す。最初の木の板が机に当たった音を始めに客間の中心で静かに机に置かれていく。
最後の板が音を立てた頃に|宁浩然《ニンハオラン》が息を吸った。
「近頃、とうの昔に絶滅したと思われた|凶鶏《キョンチー》の目撃情報が多発している」
また客間の中が騒がしくなる。|宁浩然《ニンハオラン》は「静粛に」とただ一言のみ放って低く場を制した。
「最初の目撃情報は半年前。ここから数里離れた、百五十人程の村で耕作している村人からの情報だ。しかし、影は一瞬のもので本当に|凶鶏《キョンチー》であるかは不明。村人たちは熊やイノシシだろうと決めつけていて特に気にしてはいないらしいが、安全のために現在は|江陵宁《こうりょうニン》氏が警備をしている」
──|邪祟《じゃすい》には三つの分類にまとめられている。第一に『|魔《ま》』、第二に『|妖《よう》』、そして第三に『|獄《ごく》』だ。|妖《よう》は|魔《ま》より強く、|獄《ごく》は|妖《よう》に強い。ただ、今の時点で|獄《ごく》に関する話題はなく、ほとんどは|魔《ま》であって|妖《よう》の報告はたまに出る頻度だ。
今回の話題の中心になっている|凶鶏《キョンチー》という|邪祟《じゃすい》は|魔《ま》にあたり、いわゆる低級|邪祟《じゃすい》だ。それは知識に飢えた怨念が集合し、知識を得るために鶏の姿へと変化した。そして、珍しく繁殖する|邪祟《じゃすい》であり、人目につかない渓谷で生活をする。今回の村で発見されたのは、まだ見ぬ渓谷からのものだろう。
|凶鶏《キョンチー》は全身が黒く、目玉は紫色だ。雛鳥の時点の体長は成人男性の平均的身長とほぼ同じで、成鳥はその二、三倍もなる大きさになる。もし村で影を見かけたというのなら、それは雛鳥だ。仮に親だとすると規格外の大きさなのですぐに気付くだろう。
「これに関しての|世長会《せちょうかい》を開いた理由は五つ目の報告に当たる」
これに|神呉湯《しんごタン》氏の宗主である|湯連杰《タンリェンチェ》が口を開く。
「なぜ五つ目の報告で動くことになったんだ?」
「それは報告が全て終わってからだ。質問は後ほどまとめて答えるので、今は報告に集中するように」
|宁浩然《ニンハオラン》は質問者の彼に向けて威圧のある、冷たい言葉を吐き捨てて巻物に目を向ける。|湯連杰《タンリェンチェ》は決まりの悪い顔をして腕を組んで顔を顰めた。
(父上……珍しく不機嫌だな……)
|宁麗文《ニンレイウェン》は|江陵宁《こうりょうニン》氏の座席でまだ苦笑を浮かべる。その隣にいる|宁雲嵐《ニンウンラン》は彼を横目で見て、組んだ腕の肘で弟の二の腕を小突いた。
「なんて顔してるんだ」
「だって父上があんな顔してるの初めてだからさ」
「いつもああいう顔してるぞ。俺たちの前ではあんな顔しない」
「そうなの?」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は腕を組みながら頷いて顎で弟を前に向かせた。|宁麗文《ニンレイウェン》も肩をおどけるように小さく上げてから下げて仕方なく前を向く。|宁浩然《ニンハオラン》の眉間に皺を寄せた横顔を見ながら目撃情報について頭の中で整理をしていた。
「三つ目の目撃情報では、犠牲者が数人多発している。場所は|埜湖森《やごもり》で頭部がない遺体があった。|凶鶏《キョンチー》は知識の吸収を行う目的で頭部を捕食する習性がある。それにより調査結果は|凶鶏《キョンチー》と判明した。しかし、足跡はなく行方は分からないので、こちらも併せて調査中である」
「四つ目の目撃情報では狩人と狩猟犬が行方不明となり、彼の親族が|楠塔森《なんとうもり》にて遺体を発見した。その際に捕食していた雛鳥も発見したため、すぐに森を出てこちらへ報告した。雛鳥は森から出ていないので現在は立ち入り禁止区域として|楠塔森《なんとうもり》を封鎖している」
|宁浩然《ニンハオラン》は一息ついて再び口を開く。
「そして最後の目撃情報だが──」
「失礼」
声を高らかに上げて起立した男を、|宁浩然《ニンハオラン》を含め全員が彼に顔を向けた。
その男は全身黒づくめであり、所々に金や臙脂が見える。髪を臙脂色の厚い髪紐で高く結い上げており、全体的に凛々しく見える。|宁麗文《ニンレイウェン》は彼のそのまっすぐな姿勢に見とれていたと同時に、感じるはずのない既視と郷愁に心を包まれた。
(父上が言うには|世長会《せちょうかい》では若者のみの出席はない……じゃあ、あの人はどこかの宗主なのか? 結構若そうに見えるな)
「なんだ。まだ報告は済んでいない」
男は|宁浩然《ニンハオラン》の言葉に|拱手《きょうしゅ》をする。
「話の腰を折るようで申し訳ありません。私は|洛陽《らくよう》の三男、姓は|肖《シャオ》、名は|寧《ニン》、|字《あざな》は|子涵《ズーハン》です。その最後の情報提供については私めから発言してもよろしいでしょうか」
(三男だって!?[#「!?」は縦中横])
|宁麗文《ニンレイウェン》を含めた他の宗主やその子供たちがどよめく。
|世長会《せちょうかい》では基本的には宗主と次期宗主となる、その長男を連れて出席するものだ。|宁麗文《ニンレイウェン》も参加するにあたって予め|宁浩然《ニンハオラン》からそう聞かされた。しかし、この男──|肖子涵《シャオズーハン》は例外だった。
|洛陽肖《らくようシャオ》氏からの出席者は珍しく宗主である|肖関羽《シャオカンウ》はおらず、彼の三人目の息子の|肖子涵《シャオズーハン》しかいない。彼はその戸惑いと困惑の渦の中心にいながらも、平然とした涼しい顔をして|宁浩然《ニンハオラン》をまっすぐと見つめていた。
|宁浩然《ニンハオラン》は瞼を閉じて木簡を片付ける。目を開いて席を立って|肖子涵《シャオズーハン》に|拱手《きょうしゅ》した。
「それもそうだ。最後の報告はそちら、|洛陽肖《らくようシャオ》氏が担当したもの。申しなさい」
「ありがとうございます。では本題に入らせていただきます」
|肖子涵《シャオズーハン》は自分の席から離れて|宁浩然《ニンハオラン》の前──客間の中心に立つ。|宁麗文《ニンレイウェン》は彼のその立ち振る舞いをただ見つめるだけだった。彼は客間の中心に立った直後に|宁麗文《ニンレイウェン》に顔を向け、|宁麗文《ニンレイウェン》は驚いて咄嗟に顔を背けて愛用している扇子で隠した。
(なんで急にこっちを向いたんだ!?[#「!?」は縦中横])
扇子から少しだけ目を彼に向けると、|肖子涵《シャオズーハン》は|宁浩然《ニンハオラン》の方に向き直していた。|宁麗文《ニンレイウェン》は安堵の息をついて傾けかけた扇子を閉じる。急に扇子を広げた様子に他の宗主たちは怪訝な顔をしていないかと確認すると、誰もが|肖子涵《シャオズーハン》に夢中になっているようで胸を撫で下ろした。
「最後の目撃者は|洛陽《らくよう》に住む者でした。彼女は商品のために|天河《てんか》へ仕入れをする際に、|凶鶏《キョンチー》が魚を捕食していたところを目撃しました。それを私たち|肖《シャオ》氏に報告を届け、現場へ出向かうと百を超えた魚の頭のみ捕食された状態で見つかりました。彼女曰く体長は約一里であり、黒い羽毛に紫眼、そして|人《﹅》|の《﹅》|声《﹅》|を《﹅》|真《﹅》|似《﹅》|て《﹅》|い《﹅》|た《﹅》と」
「人の声!?[#「!?」は縦中横]」
|宁麗文《ニンレイウェン》の上げた声に宗主らの次の興味が今回が初めての出席になる彼に向けられた。
(やば……)
心の中で青ざめる|宁麗文《ニンレイウェン》の表情は苦虫を噛み潰したようで、再び扇子で目元までを隠す。
「はい。人の声です」
|肖子涵《シャオズーハン》はそれを気にも留めない様子で返答する。|宁麗文《ニンレイウェン》は瞬きをして、こちらを見る黒の|双眸《そうぼう》から目を逸らせなかった。
(……ずっと見つめられると恥ずかしいな……)
隣から来ている兄の視線にすぐに我に返った|宁麗文《ニンレイウェン》は、気まずい面持ちのまま扇子を閉じて軽く咳払いをする。
「……本来、|凶鶏《キョンチー》はものを真似る習性はなかったはずです。それは過去の、それこそ絶滅した直前も前例はありませんでした。これまでの目撃情報に関しても一言も人を真似る声を聴いた者がいないということは、その女性は嘘をついている可能性はありませんか?」
「おい、|麗文《レイウェン》」
思わぬ弟の言動に苦い顔をする|宁雲嵐《ニンウンラン》の肘がまた彼の二の腕を突いて、頭を後ろから押し倒して二人で頭を下げる。
「すまない、俺の弟が失礼なもの言いを申した」
|宁麗文《ニンレイウェン》は後ろから襲われる彼の手に頭にきながらも下げられ、二人して顔を上げる。|肖子涵《シャオズーハン》はそれに小さく返事をして首を横に振った。
「確かにどの書物を照合してもそのような事例は全くありませんでした。彼女のうわ言の可能性もありえますが、問題はそこからです」
「というと?」
「|天河《てんか》を捜索している際に弟子のひとりが声を聴いたと報告をしました」
その事実に客間はどよめいた。何度もどよめくのは|世長会《せちょうかい》では珍しいのだろう、|宁浩然《ニンハオラン》はいくら場を制してもしきれていない己の情けなさで指で眉間を揉んでいる。|宁麗文《ニンレイウェン》と|肖子涵《シャオズーハン》の二人だけは周りを気にせずに淡々と問答を進めていた。
「それはなんと?」
「『助けて』と『殺さないでくれ』です。この二つの言葉が何度も繰り返し叫ぶように鳴いていました。私も聴いて確かめたところ、|戌《いぬ》の方角から聴こえたので、恐らく|天河《てんか》の近くの|瑚雀森《こじゃくもり》に親がいるのだと思われます。この件は続けて|洛陽肖《らくようシャオ》氏が担当いたします」
「助けて、殺さないでくれ……」
(これはきっと、今まで被害に遭った彼らの遺言だろう)
|宁麗文《ニンレイウェン》は閉じた扇子で顎を軽く擦って|宁浩然《ニンハオラン》に声を掛ける。彼も声を掛けた息子に顔を向けた。
「私も彼と調査の同行をします」
「は」
|宁麗文《ニンレイウェン》の父、兄、母は皆、口を開けて唖然とした表情で彼を見た。|肖子涵《シャオズーハン》と他の宗主らは彼らのその行動と表情に理解が追いつかず、客間はしばしの静寂が訪れた。
(あれ?)
|宁麗文《ニンレイウェン》は家族の予想外の表情をそれぞれ見て、そして客間の真ん中に立っている黒づくめの男を見た。|肖子涵《シャオズーハン》は首を少し傾げながら彼を見つめ返す。
(……なんか、やな予感がするんだけど)
これから起こってしまいそうな、なんとも面倒な予感に、|宁麗文《ニンレイウェン》は口元をひくつかせながらそう思った。
そして悲しいかな、その予感は的の中心へと刺さってしまった。
|世長会《せちょうかい》が終わった|夕餉《ゆうげ》はとても静かだった。本来は|家僕《かぼく》も弟子も含めて江陵での世間話や少しの議題を持ち込んでは賑やかに食卓を囲むのだが、この日は全くそうではなかった。いや、そうせざるを得なかったというべきだろう。先程の|世長会《せちょうかい》で起こってしまった、たった一つの問題によってこうなってしまったのだ。
(きっ……気まずい……!)
|宁麗文《ニンレイウェン》は肉団子を乗せた|湯匙《タンチー》【レンゲ】を口元に運びながら背中に冷や汗をかいていた。|宁浩然《ニンハオラン》も|深緑《シェンリュ》も|宁雲嵐《ニンウンラン》も誰ひとり何も言わない。|家僕《かぼく》と|門弟《もんてい》、そして養子である|青鈴《チンリン》は何も知らずに一族の空気を読みながら無言で食べている。しかし、|世長会《せちょうかい》に参加もしておらず何が起こったのか理解ができない彼女は黒の二つに輪に結んだ髪を揺らしながらそれぞれの顔を見て、怪訝そうに眉を顰めながら隣の席の|宁麗文《ニンレイウェン》にこっそりと身体を寄せる。
「ねえ|麗文《レイウェン》。なんかあった?」
「い、いや……あの……」
冷や汗をたらたらと流しながら回答に困り果てている|宁麗文《ニンレイウェン》に|深緑《シェンリュ》が呼ぶ。
「本当に行くつもりなの?」
「行く?」
|青鈴《チンリン》は一、二回瞬いて首を傾げる。それに|宁雲嵐《ニンウンラン》が息を吐いてから頷いた。
「こいつ、あの|洛陽肖《らくようシャオ》氏の三男と|凶鶏《キョンチー》の調査に行きたいんだと」
|青鈴《チンリン》は|深緑《シェンリュ》の、|宁麗文《ニンレイウェン》に呼びかけた『行く』の意味に慌てて席を立つ。彼女の膝が卓の下の端にぶつかって小さく悲鳴を上げ様々な椀やら皿やらの音を立てる。この時顔を青ざめた|宁麗文《ニンレイウェン》の心の中では「最悪だ!![#「!!」は縦中横]」と頭をもみくちゃに掻き乱すことしかできなかった。
「あああああんた、|麗文《レイウェン》、本気で言ってるの!?[#「!?」は縦中横] 家から一歩も出たことすらないのに調査に!?[#「!?」は縦中横]」
「あ、|阿鈴《アーリン》。落ち着いて座りなさい」
声を裏返しながら|狼狽《うろた》える|青鈴《チンリン》を|深緑《シェンリュ》も慌てて落ち着かせる。すぐに我に返ったものの、それでも尚、彼女は顔を青くしながら隣の男からやや離れて食べ進めていく。|宁麗文《ニンレイウェン》もまたいたたまれない気持ちで食べ進めていて、食事が終わっていても顔を中々上げる勇気がなかった。
「|阿麗《アーレイ》。本当に|凶鶏《キョンチー》の調査に行くつもりなのか」
「……はい」
父の息が深く吐かれる。
「お前はまだ修練の一つもしていない。病に罹りづらくなったとはいえ、危険な目に遭わせるわけにはいかない。|阿雲《アーウン》が出向かうからお前はここにいなさい」
|宁浩然《ニンハオラン》は|家僕《かぼく》に食器を下げられるのを見ながら次男に重い釘を刺す。|宁麗文《ニンレイウェン》は親と言えど、上から目線の言い方に眉間に皺を寄せた。
「お言葉ですが。私はもう十七の身です。親なら子の無事を祈って送り出すのは当たり前なのでは? それに兄上が私の代わりに調査に向かうことは聞いていません」
「|阿雲《アーウン》が自ら申した」
|宁麗文《ニンレイウェン》は兄に顔を向ける。|宁雲嵐《ニンウンラン》は彼の目を見て顔を逆側に背ける。背ける前に見た弟の表情には目元を歪ませていて、薄茶の奥から苛立ちが見えていた。
「兄上、本当に行くつもりで?」
「……」
「どうしてでも私を外に出さないつもりですか?」
「|阿麗《アーレイ》」
「嫌です」
|深緑《シェンリュ》が彼に声を掛けたと同時に|宁麗文《ニンレイウェン》が席を立つ。強く立ったからか彼を乗せていた椅子が音を立てて転がり落ちた。彼以外の誰もがその行動に面食らう。|宁麗文《ニンレイウェン》はその目を一切見ることもせずに身を翻してその場を去った。
彼が食間を出ていった頃の家族と|青鈴《チンリン》は互いに顔を見合わせてから項垂れたり、手で顔を覆ったり、溜息をついたりと呆れを表に出す。弟子や|家僕《かぼく》も戸惑っていて、それがより一族と養子を疲弊させた。
「分かっていたけれど……あの子は怒るとすぐに違う場所に向かうわね」
|深緑《シェンリュ》は小さく呟いてから食後に出されていた茶を啜る。|宁浩然《ニンハオラン》も彼女に同意するように頷いた。|宁雲嵐《ニンウンラン》も腕を組んで一向に前を向かない。|青鈴《チンリン》は彼らを前にして俯いて視線をあちらこちらへと動かす。そして思い切り頭を上げて|宁浩然《ニンハオラン》に顔を向ける。
「あたし、|麗文《レイウェン》のところに行ってきます」
「場所は分かるのか?」
|宁浩然《ニンハオラン》からの問いに|青鈴《チンリン》は大きく頷く。
「行ってきます」
席を立って、三人の元へ離れて食間から去った。
ひとりになった|宁麗文《ニンレイウェン》は少し薄暗い邸宅の裏庭で一本の緑の|生《な》る大樹の下で座り込んでいた。ここは昔からの彼のお気に入りの場所で、嫌なことから逃げたり、ひとりになりたい時に訪れて、下で身を隠すように顔を膝に埋めて座るのだ。
(なんで皆、私を外に出してくれないんだ? もう風邪だってひいてない。薬なんて飲む必要なんてなくなった。まだ大人じゃないけど、いい年なんだから出したっていいだろ)
下唇を噛みながら眉を顰めて何度も瞬く。埋めていた顔を更に埋めて額を膝に痛めつけるようにぐりぐりと押しつける。
(絶対ここにいるより楽しいことが見つかるのに。……ここに、ずっといるのは……苦しい……)
しばらくの間、自分を外に出さない皆に対する恨み言を頭の中で何回も呟いていく。何度も何度もどこもかしこも吐き散らかして目頭が熱くなった頃に聞き慣れた、少女の軽い声が聞こえた。
「やっぱりいた。いつもそこにいるわね」
「|青鈴《チンリン》……」
|宁麗文《ニンレイウェン》は顔を上げて瞬きをしながら涙を引っ込める。|青鈴《チンリン》は眉を上げてから彼の隣に座った。
「……慰めにきたの。それか説教?」
「どっちも不正解。探しにきたのは合ってるよ」
「なんだそれ」と|宁麗文《ニンレイウェン》は心の中で少しの悪態をつく。しかし彼女の肩が自分の肩に触れた時の温もりに引っ込めていたはずの涙が表に出そうになった。
「……ねえ、|青鈴《チンリン》」
「ん?」
「なんで、私だけ外に出るのはダメなのかな」
疑問を一音ずつ声に出す毎に一瞬冷めた目頭がまた熱くなっていく。慌てて瞼を閉じて自身の膝に額を擦りつけた。
「私だって、外に出たい。本だけの世界じゃもの足りないよ。皆からは身体はまだ弱いって思われてる。それがすごく、すごく……辛いし苦しい。本当は、本当にもう一回も風邪も何もひいてないんだ。だから……だから、少しだけでも家から離れて……外の景色を見てみたい。家で食べたもの以外のいろんな食べものも食べたい。たとえ行く途中で何かがあったとしても……私の行く道なんだから、誰にも止めてほしくない。そういうのはわがままなのか? 私だけ願っちゃダメなのかよ。このまま一生家の中で生きて死んでほしいのかよ……」
|青鈴《チンリン》は何も言わずに彼の言葉に耳を傾ける。彼女の視線は目の前にある草花を向いて彼を見なかった。|宁麗文《ニンレイウェン》は次第に涙を零していって嗚咽を漏らしながら小さく恨み言を呟く。そしてその恨み言が更に小さくなっていった頃に鼻をすすりながら頭を上げた。
「|青鈴《チンリン》」
「何?」
「君は……わた、私を外に出し、……っず、てくれる?」
|青鈴《チンリン》は眉を上げながら|宁麗文《ニンレイウェン》に顔を向ける。すぐに顔を身体の向く方に正して首を傾げた。
「さあ。どうだろうね」
「君も皆み、……たいなことを、言うのか?」
「あたしの気分次第よ。あたしがいじわるなの、|麗文《レイウェン》は知ってるでしょ」
「……うん。母上たちっ、の前では、猫被ってる」
「ちょっと! そんな嫌なこと言わないでよ。心外なんだけど」
|青鈴《チンリン》は肩を揺らして彼を小突く。|宁麗文《ニンレイウェン》は肩を揺らされて一度鼻をすすった。
「事実だろ。それに、先生に嘘をついて、屋根の上で昼寝もしてた」
「いつの話よ! あれはいつもより早く授業が終わって暇だったから昼寝してただけ! あんただって嫌になったらここに来るくせに。……いや、今来てるんだった」
|青鈴《チンリン》は暗い空を見上げて息を吐く。|宁麗文《ニンレイウェン》も彼女を見ては続けて空を仰ぐ。視界の端には大樹の葉も映っていて暗がりでもあるのに緑が見えた。|宁麗文《ニンレイウェン》は赤くなった鼻で息を思いきり吸って口で吐く。緑を見上げていた|青鈴《チンリン》が彼に顔を向ける。
「落ち着いた?」
「うん」
|青鈴《チンリン》は口角を上げ、目を細めながら「そっか」とだけ呟いて肩をまた揺らして小突く。何度も小突かれた|宁麗文《ニンレイウェン》は口をへの字にしながらも彼女と同じ行動を起こした。
「でも、あたしも|麗文《レイウェン》が外に出られたらいいなって思ってる。うん、出て、いろんな景色とか、ここじゃ味わえない美味しいご飯とか。……|麗文《レイウェン》が気に入るような、そんなものがあるといいな」
|青鈴《チンリン》は視線を遠い邸宅に向けながら風に願いを浮かべる。|宁麗文《ニンレイウェン》も一緒に邸宅を見つめた。
「……さっき、皆みたいにケチつけてなかった?」
「してた。けど、よくよく考えたら自分の思いは人に押しつけちゃダメだって分かったの。ダメよね、そういうの。ごめんね」
|宁麗文《ニンレイウェン》は首を横に振る。|青鈴《チンリン》は彼を覗き込むように見て、一つ瞬いてから気の抜けたような笑みを浮かべて前を向いた。
彼らより少し離れた邸宅は柔らかい灯りを暗闇の中で所々に浮かべている。昔から見慣れているその灯りは決して途絶えることのない、永遠を結ぶ術だ。それに|宁麗文《ニンレイウェン》は昔は尊敬はしていたものの、今はある一種の呪いだと思ってしまっていた。それは『自分を家から出させないため』の術だと、『彼をここへ縛りつける』術だと感じてしまったからだ。
「|麗文《レイウェン》はさ。ここから出たら何をしたいの?」
「私は……」
|青鈴《チンリン》の言葉を紡ぐように口を開いた瞬間、一つの水滴が彼の頬に当たる。二人で空を見上げるとその水滴はやがて多くなって雨が降り始めた。二人は慌ててその場から離れて邸宅の中へ入る。
雨に打たれ湿った地面を走って廊下へ戻る。|宁麗文《ニンレイウェン》と|青鈴《チンリン》の白い靴にはくっきりと濃い茶の泥が付いてしまっていてそれに苦笑う。丁度通りがかった女の|家僕《かぼく》が彼らを見てすぐに踵を返し、戻ってきた頃にはひとり分の大きい布を二枚畳んだ状態で持ってきていた。二人は互いに顔を見合わせて瞬き、小さく噴き出してから彼女から布を貰って肩に掛けて歩き出す。
二人並んで歩く彼らは何も言葉を発さない。しかしどちらも前を向いている。|宁麗文《ニンレイウェン》は足音だけが聴こえる廊下でぼうっともの思いにふけていた。
そして|宁麗文《ニンレイウェン》の部屋──『|無名《むめい》』に着き、|青鈴《チンリン》が彼の背中を軽く叩く。
「いつか出られるわよ。あたしも手伝う」
肩に大きな布を羽織った彼女は目を細め、|宁麗文《ニンレイウェン》に言葉を投げる。彼も息を深く吸い、浅く吐いてから頷いた。
「ありがとう」
「お礼はいいわ」
彼女の小さい手は|宁麗文《ニンレイウェン》の頬を優しく撫でる。手を離してから彼に背を向けて歩いていく。|宁麗文《ニンレイウェン》も|無名《むめい》の戸を開けて入ろうとした時にふと視線を彼女に向けた。
|青鈴《チンリン》は背中を向けたまま|浅葱《あさぎ》色の布を頭まですっぽりと被っている。頭も濡れているので当然だが、|宁麗文《ニンレイウェン》はそれに可愛らしさを感じて目と口を弧にする。そのまま彼女を廊下の曲がり角まで見送ってから視線をつま先の向く方へ見上げて中に入った。
──翌日の朝。|宁麗文《ニンレイウェン》は|銅鑼《どら》のような|轟音《ごうおん》で目が覚めて飛び上がる。寝台から転げ落ちてほふく前進をして戸に手をかけて少しだけ開けた。
普段は鳥の|囀《さえず》りが彼を起こすが、今日に限って目がはっきりと|醒《さ》めるような音が彼を起こした。かなり心臓に悪いもので、|轟音《ごうおん》の衝撃で三半規管が揺れ脳内が少しぐらついていながらも、|宁麗文《ニンレイウェン》はその音の正体を確かめる。
戸を細く開けたその奥、晴れた太陽の下にいたのは彼の兄の|宁雲嵐《ニンウンラン》で、なぜか石と|灯篭《とうろう》のある中庭で鍛錬をしていた。
(兄上? なんで兄上がここで鍛錬なんかしてるんだ?)
|宁麗文《ニンレイウェン》と顔つきがよく似ている|宁雲嵐《ニンウンラン》は|宁《ニン》氏の中でも霊力も武力も高い。それもあって邸宅から離れた場所にある草原で鍛錬をしている。それは周りに迷惑を掛けないように、そして万が一何かを壊した際の破片や|瓦礫《がれき》が飛ばないようにと配慮をしているのだ。
本来なら代々受け継がれている修練場はあるが、歴代の修士とは段違いの能力を持っている彼の|体躯《たいく》ではもの足りず、そして過去に一部破損をした形跡を残した事例があったのでわざわざ草原で鍛錬をしているのだ。
それが今は、どういうわけか中庭で鍛錬をしている。当然の如く霊力も使っているので、棟と棟を繋ぐ廊下も一部破損していて、たまたまその場にいた、眠そうに目を擦っていた|門弟《もんてい》が腰を抜かして元凶を起こした師兄へ顔を向けている。|宁麗文《ニンレイウェン》は長く呆れた息を吐いて顔を片手で覆い、立ち上がって戸を開けて外へ一歩踏んだ。
「兄上」
弟に名前を呼ばれた|宁雲嵐《ニンウンラン》は額に流れる汗を腕で拭いながら顔を上げる。
「おお、|麗文《レイウェン》。おはよう。どうした?」
「どうしたじゃないよ。なんでここで鍛錬してるんだ?」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は笑いながら鞘に納めた自身の剣──『|豪静《ごうせい》』を肩に掛ける。|宁麗文《ニンレイウェン》は|無名《むめい》の戸にもたれて腕を組む。
「別に、ここでやりたいと思ったから」
顎で破損した、腰を抜かして起き上がれない|門弟《もんてい》がいる廊下を指す。|宁雲嵐《ニンウンラン》も弟の指す方向に顔を向けて、ようやく起き上げれた|門弟《もんてい》に笑顔で手を振った。
「……そこ、壊れてるの見える?」
「ははっ、見えるな」
|宁麗文《ニンレイウェン》はげんなりとした顔つきで頭を振って寝直そうと|無名《むめい》に入る。|宁雲嵐《ニンウンラン》に名前を呼ばれまた振り返れば今度は真剣な眼で彼を見ていた。
「本当に行きたいのか」
その言葉に|宁麗文《ニンレイウェン》は息を吐いて嫌そうな顔をする。
「……行かせてくれないんだろ、どうせ」
「行かせてやるよ、どうせ」
「えっ?」
|宁麗文《ニンレイウェン》は呆気に取られ、我に返って慌ただしく中庭へ足を踏み入れ、一歩階段を踏み外して尻から着地した。尻へ伝わる痛さに呻き声を上げ顔を顰めていても、思ってもみなかった発言に顔を輝かせる。
「ほん、っ本当に!?[#「!?」は縦中横]」
「ああ。父上にはもう言った。というか説得した」
「説得って」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は彼の腕を引っ張って起こす。|宁麗文《ニンレイウェン》は中庭の砂利を払って寝間着を正す。
どういうわけか、昨夜のうちに|宁雲嵐《ニンウンラン》は|宁浩然《ニンハオラン》に一言つけ加えたようだった。「自分が調査に向かうのはいいが、一目だけでも|宁麗文《ニンレイウェン》に外の世界に触れさせてはどうか」やら「それは今後の|世長会《せちょうかい》にも繋がることでもあるし、彼自身の経験の|糧《かて》にもなる」と、そういった旨の理由を言葉巧みに話し、最初は頑なに譲らなかった|宁浩然《ニンハオラン》がとうとう折れたのだという。|深緑《シェンリュ》にも話をつけたが、それまでに|紆余曲折《うよきょくせつ》を経たようだ。
「母上にはなんて?」
「『それでもし|阿麗《アーレイ》の身に何かがあったらどうするの。それこそ、遠い場所に行って戻ることも叶わなかったらあなたはどう責任を取れるの?』だってさ。いい加減自分たちがお前の首を絞めてるって気付いてくれなきゃ、お前の気が狂うだろ。それに……俺が責任を持たなきゃいけないって。人ひとりの命を守るのがどれだけ荷が重いのかって分かんねえかな……」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は息を吐いて|豪静《ごうせい》の鞘先を地面に落とす。|宁麗文《ニンレイウェン》もそれに苦笑った。
「本当にね」
「おう。そんなわけだから、今日からお前を鍛える。場所は……修練場がいいんだが、俺がまた壊しちまったら面倒だからな。いつものところでやるぞ」
「うん、分かった。けど、剣をもらってから全く磨いてないから……まずはそこからかも」
「磨いてないぃ?」
|宁麗文《ニンレイウェン》の言葉に|宁雲嵐《ニンウンラン》は眉を顰める。
修士たるもの、剣を磨くことは必須であり、それ即ち修士としての志を心に留めていないという証拠になる。いざという時に刃が脆くなっては戦えることすら極めて困難なのだ。なので日頃から最低でもたった|一盞茶《いっさんちゃ》【約十五分】程度は磨かなければならない。|宁麗文《ニンレイウェン》はそれを理解をしているが、どうにも両親から押しつけられた他のことで中々手がつけられずにいて、そのまま数週間も放ったらかしにしてしまっていたのだ。
「流石にダメだよな。磨きたくても母上と父上が鍛錬をさせたがらないから……」
「言い訳はなしだ。今から剣を持ってこい」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は彼の肩を持ち、そのまま背中を向けさせて突き放すように押す。それに|宁麗文《ニンレイウェン》はまたよろけてしまい、今度は膝から転んでしまった。
再び中庭に戻ってきた|宁麗文《ニンレイウェン》は動きやすいようにと服装を簡素なものにしておき、|宁雲嵐《ニンウンラン》とよく似た剣──『|祓邪《ふつじゃ》』を片手に持っていた。|宁雲嵐《ニンウンラン》は磨く用の布を彼に押しつけ、そのまま邸宅から離れた草原に連れて行く。
|宁雲嵐《ニンウンラン》は懐に忍ばせた黄色の札を取り出して霊力を込める。するとその札は瞬く間に二人とその周りを半円状にして包み上げた。
「──兄上。これは?」
初めて目の当たりにする術に困惑している弟に|宁雲嵐《ニンウンラン》が呆れ混じりに息を吐く。
「壁を作ったんだよ。万が一、何かが起こった時に被害が出ないようにな」
「そりゃそっか」
「前に授業で学んだだろ。なんで覚えてないんだよ」
「……」
|宁麗文《ニンレイウェン》はその場で座って|祓邪《ふつじゃ》を布で磨き始める。|宁雲嵐《ニンウンラン》はそれを気にせずに素振りを始めた。半|時辰《じしん》【約一時間】した、|宁雲嵐《ニンウンラン》の額に汗が薄らと滲むぐらいに進んだ頃の|宁麗文《ニンレイウェン》がようやく磨き終えた剣を持って兄に声を掛ける。腕で汗を拭った|宁雲嵐《ニンウンラン》は掌から霊力を出して草花に近づける。それに青白い光が宿ればたちまち草花から人が現れた──いや、人型の修士が的確だろう。|宁麗文《ニンレイウェン》はその光景に息を呑む。
(これは……『|擬人術《ぎじんじゅつ》』か!?[#「!?」は縦中横] いつ完成したんだ?)
『|擬人術《ぎじんじゅつ》』──|宁雲嵐《ニンウンラン》自身が生み出した術で、万が一自分に危機が及んだ時に使われるものだ。近くにある土や草など、敵から攻撃を阻むためならなんでも使えるものだ。しかし、編み出した当の本人の場合は自身の鍛錬のために使い実戦で使うことはほぼない。それは生み出すための霊力を沢山費やさなければならないので、生と死の狭間に立たされている状況では使用が困難なのだ。
しかもこの術は他の修士に教えていない。それは教えた中に悪用する者が現れるかもしれないからだ。
「|麗文《レイウェン》。何を突っ立ってる。もう始まってるぞ」
「は、え!?[#「!?」は縦中横]」
|宁麗文《ニンレイウェン》は慌てながら両手で|祓邪《ふつじゃ》を構えて迫りくる疑似修士の剣先を見つめる。それはまっすぐに彼を突くように突進し、|宁麗文《ニンレイウェン》は掠めた息を飲んで咄嗟に火花を散らしながら受け止めた。幸いにも受け止められたが、緊迫した表情で疑似修士の力に押し負けないように踏ん張っている。顔が間近にある状況で、|宁麗文《ニンレイウェン》は身体中になる動悸を感じていた。
(普通、型から入るはずだろ!?[#「!?」は縦中横] なんでいきなり実戦から始まるんだよ……っ!)
目に戸惑いを浮かべながらその攻撃を下に受け流し、先程の衝撃でよろめく身体に危機を覚えたからか、彼はそのまま前のめりに倒れてしまう。次の攻撃が来ないまま、情けなくうつ伏せになっていると足で草花を掻き分ける音が聞こえた。
「おい」
頭上から垂れたのは兄の声で、それには呆れが含まれていた。
「なんで一撃目からへばってるんだ」
「仕方ないだろ!?[#「!?」は縦中横] 普通は実戦から入んないよ!」
|宁麗文《ニンレイウェン》は勢いよく顔を上げて抗議する。その顔には昨夜の雨で湿っていたからか水でわずかに浮いた泥もついていた。手に力を込めて先に上半身を、そして片膝を立ててそれに手を置いて脚を立たせる。ついてしまった泥を袖で拭い身体についたものも払う。草の上に落ちた|祓邪《ふつじゃ》を拾って水で湿った剣先を軽く振って払った。
「そうだったか?」
「そうだよ。覚えてないの?」
「覚えてない。父上に教わったのも随分前だからな」
|宁麗文《ニンレイウェン》の心の中はほとほと呆れ果て、空を見上げながら長い溜息を吐く。その弟を前にした|宁雲嵐《ニンウンラン》は指を鳴らして疑似修士を崩し、|豪静《ごうせい》を鞘から引き抜いて上に飛ばす。すると彼らを包んでいた結界が瞬く間に破れ、それまで聞こえなかった自然の音が一気に|耳孔《じこう》に飛び込んだ。
「父上のところに行こう。俺と一戦交えるより基礎を学んでからにするか」
「最初からそうすればよかっただろ……」
そして二人は|宁浩然《ニンハオラン》のいる書室へ向かって父を訪ねる。|宁雲嵐《ニンウンラン》はまた彼に説得を仕掛けると、最初は嫌な顔をしていた|宁浩然《ニンハオラン》だったが、段々と諦めがついたようで翌日から自ら基礎を|宁麗文《ニンレイウェン》に説いた。意外なことに|江陵宁氏《こうりょうニンし》の型は至って簡単なものであり、また、|宁麗文《ニンレイウェン》は元より飲み込みが早かった。まだ不慣れではあるが彼の腕は確実に上達していくものに時間は掛からず、|宁雲嵐《ニンウンラン》の疑人術で呼び寄せた人型の疑似修士と刃を交えることも早かった。|宁雲嵐《ニンウンラン》は「これぐらいしてくれないと俺の弟じゃない」などと得意げに発言し、|宁麗文《ニンレイウェン》は兄のその様子を見て呆れ笑いながら鍛錬していた。
また、同時に仙術の修練も始め、これについては以前|江陵宁《こうりょうニン》氏に仕えていた術師に頼み込んで再度修得した。その間は当然の如く調査に出向かうことは叶わないので、彼がある程度の能力を修め即戦力になった頃に参加すると約束をつけた。|宁麗文《ニンレイウェン》は兄と同じ気質を持っていたようで、わずか三ヶ月後に|金丹《きんたん》を修めることとなった。しかしながら、通常よりありえない速度で、兄の|宁雲嵐《ニンウンラン》よりも速い|結丹《けつたん》だったので、ある人にはいささか不思議なこともあるものだと首を傾げている者もいた。だが、これには両親は顔を手で覆うほどの落胆を見せてはいたが、当の本人と|宁雲嵐《ニンウンラン》、|青鈴《チンリン》は大いに喜んで夜に|江陵宁《こうりょうニン》氏の子供たちで小さな宴を始めるほどだった。
「やっとだね、|麗文《レイウェン》」
|青鈴《チンリン》は片手に彼女が作った肉団子の汁物を卓に置いて席に座る。|宁麗文《ニンレイウェン》も頷いて「やっとだ」と嬉しそうに微笑む。
「皆より遅くなったけど、でもちゃんと|結丹《けつたん》できた。二人には感謝してもしきれないよ」
「何を言ってるんだ? 俺たちは何もしてないぞ」
|宁雲嵐《ニンウンラン》と|青鈴《チンリン》は互いに目を見合わせて瞬きをする。|宁麗文《ニンレイウェン》はその様子に小さく噴き出した。
「ううん、見守ってくれたじゃないか。兄上は擬似修士で私を鍛えてくれたし、|青鈴《チンリン》は私が術式に詰んだ時に作ってくれた杏仁豆腐で励ましてくれただろ。二人がいなかったら三ヶ月で|結丹《けつたん》できなかったんだ。この上ない感謝だ」
彼の笑う姿に|宁雲嵐《ニンウンラン》と|青鈴《チンリン》の二人は口を噤んで視線をあちらこちらに流したり、彼からそっぽ向いて頭を搔いている。そのどちらもが気恥ずかしさからだったが、|宁麗文《ニンレイウェン》が|結丹《けつたん》をしたという事実には心底喜びを隠しきれていない。
掻いていた頭から手を離した|宁雲嵐《ニンウンラン》は肉団子の汁物を|宁麗文《ニンレイウェン》の椀によそって彼の前に置く。|宁麗文《ニンレイウェン》は兄を見ると、彼は口角を上げたまま顎で椀を指した。
「いらないのか?」
よそわれて具いっぱいになった椀と彼の目を交互に見て、我に返ってから椀と|湯匙《タンチー》を手に取って口に頬張る。まだ汁が熱すぎたからか何度かむせて涙目になってしまったが、それでも口に入れ続けた。
「焦んなよ。まだ沢山あるんだぞ」
「うん、うん……」
「さ、あたしたちも食べよ。まだまだご飯は用意してあるわよ、覚悟しなさい」
|青鈴《チンリン》も綻ばせた口で箸を手に取ってよく蒸したもち米を食べていく。|宁雲嵐《ニンウンラン》も汁物とは違う、鹿肉の塩焼きを豪快にかじった。
そうして三人は会話を繰り広げながら酒を飲み、飯を食らい、大人たちが怒ろうと怒れない小さな宴を楽しんだ。それが始まったのが|戌《いぬ》の刻【十九時から二十一時】からであり、刻一刻と時間を気にしなかったため、気付けば既に|子《ね》の刻【二十三時から一時】を回っていた。|青鈴《チンリン》は空の椀を前にして卓に頭を突っ伏して寝ており、|宁雲嵐《ニンウンラン》はまだ残っている酒の瓶の口を指で摘まんだまま盃を呷る。|宁麗文《ニンレイウェン》は彼らのその姿を見て、|宁雲嵐《ニンウンラン》からもらった盃の中に視線を移す。まだごくわずかしか飲んでいない、やや辛口の酒に自分の姿が浮かんでいる。|宁麗文《ニンレイウェン》はこれまで酒を飲んだことがなく、|如何《いか》なる|家宴《かえん》に出席することは叶わず、歳を過ぎて出席しても酒の一滴すらも恵まれなかった。それが今、手元にあることが彼の喜ばしいことであり、またなくなってしまうもったいなさが彼の中に入っていた。
「どーした、|麗文《レイウェン》。飲まないのかぁ?」
いつもより多く飲んで顔を赤らめている|宁雲嵐《ニンウンラン》が中々飲まない彼に気付いて催促をする。|宁麗文《ニンレイウェン》は首を小さく横に振って「そうじゃないんだ」と口を開く。
「今まで願っても叶わなかったものがここにあるのが……嬉しくて。この楽しみをなくしたくないんだ。もうちょっとこのままでもいさせてくれないか」
「……いいよ」
盃に最後の一滴まで注いで空になった酒瓶を音もなく置く。|宁雲嵐《ニンウンラン》は肘をついて弟の盃に自分の盃を軽く当てる。かつんと音の鳴った二杯の小さな盃の中は波立って二人の姿を揺らした。
「記念だからな。たまにはいいだろ、どうせ父上と母上は何も言わないさ」
「言わないっていうか言えない、だよね」
「間違いない」
二人は笑い合い、また互いに盃を合わせて心ゆくまで晩酌を楽しんだ。