第二章 花の想い話
十 綻び
「敏町長!」
今朝、一人の女の悲鳴で二人の目が覚めて布団から飛び起きる。
(何かあったのか?)
眉を顰める唐秀英は固唾を飲んで先に出た。続けて宁麗文も彼のあとを追うように歩幅を広くしていく。
民家の前には起き抜けの住民全員が心配そうに集まっていて、今しがた着いた二人は彼女たちの分け目を通って中に入る。昨夜からちょうど滞在していた医師が敏の腕の脈を測っていて、唐秀英を見るやいなや首を横に振った。
「ご愁傷さまです」
「……そうか……」
唐秀英は顔を顰めながら俯いた。宁麗文も心の中にぽっかりと穴が空いたような喪失感を抱いてしまい、その場で瞼を伏せることしかできなかった。
その日は仕事を一切やらずに簡単な葬式をした。白い服を身にまとった住民たちは桂城唐氏が持ってきてくれた爆竹や銅鑼を鳴らす。数人は泣いてはいたものの、それでも敏が少しでもあの世でいつものように暮らせるようにと動いていた。無論、宁麗文と唐秀英も|紙銭《しせん》【紙で|象《かたど》った金】を持って歩きながらばらまいていく。埋葬先は住民たちの要望である町の外れだった。最後の一人が献花をして埋めて、そして葬式を終えた。
その後、空から涙を流したかのような雨が降る。この自然の恵みにより畑の実は喜びを示すだろうが、宁麗文たちは憂いを残していたままだった
「……紅花さんに、伝えましょう」
唐秀英は空を見上げながら呟く。宁麗文も同じく空を見上げ、そして頷いた。
紅花だけが住んでいる民家へ訪問した二人は彼女と卓を囲む。紅花の目の下は赤く腫れていて、相当泣いてしまっていたのだろう。少しうたた寝をしながら話をしていたもので、二人は彼女を寝かすことしかできなかった。
雨が止んで雲は晴れないままの頃に彼女の家から出ようと戸に手を掛けたところ、先に外から開けられ可馨の顔が見えた。
「可馨さん」
「宁公子? それに、唐公子も。何か紅花にご用だったんですか?」
可馨の言葉に唐秀英が首を横に振る。
「いえ、大した用は。今は寝ていますので、何かありましたら起きてからの方がいいかと」
可馨は微笑んでから頭を振り、「大丈夫です」とだけ答える。
「ちょっと、紅花といたいだけなんです」
二人は可馨の顔をよく見た。彼女もまた目を腫らしていて、頬には泣き跡が強く残っている。涙を流しすぎて乾燥してしまっているのか、何度も瞬きを繰り返していた。
「そうなんですね。それじゃ、私たちはここで」
「はい。おやすみなさい」
可馨は紅花の家の中に、二人は家の外へと向かった。
次の日になればまた日常は来て、宁麗文は治りかけている腰を痛めないようにと甘草と芍薬の煎じた茶を飲んでから大通りへ向かう。その日は紅花がいて、可馨は畑へ向かったようだった。
「昨日はごめんなさい。あたし、相当泣いちゃってたみたいで、まともに話ができてませんでした」
紅花はボロボロになった布を片付けながら眉を下げる。二人は使えなくなった布を回収してまとめて火に焚べるために籠に入れていた。
「こちらこそ、急にお邪魔してすみませんでした」
紅花は微苦笑を浮かべながら視線を布の切れ端に向けて、ほつれた箇所を指で撫でる。
「それで、なんのお話でしたっけ?」
「あと数日ほどでこの町から出ようかと。誘拐された方たちがいる町の特定が終わりましたので、そちらへ受け渡しに参るつもりです」
紅花は目を見開く。すぐに眦に涙を溜めて安堵した表情を浮かべた。
「よかった……やっと会えるんですね。長かった……」
「はい。本当によかったです」
紅花の指が眦を拭って拳を作る。希望が見えたところでやる気が出たのだろう。布をかき集めて不要な籠に敷き詰めていった。突然速くなった手の動きに着いていけなくなった宁麗文は、次々と籠に詰め込んでいく彼女に目をぐるぐると回した。
「紅花さん、速すぎます!」
そのあとは何事もなかったかのように皆は働き、手伝いをしなくてもいいと言われた少女二人は阿晴と三人で鬼ごっこやかくれんぼといった、外で充分に遊べることをしていた。この日に採れる野菜は全て採って、空いたところにまた種を入れて水をやる。昨日の敏の死から立ち直れてはいないが、それでも自分たちの生きるためならと脚で力強く踏み出した。宁麗文は彼女たちの生き様を見守るだけだったが、それでもまだ希望は失われていないと確信していた。
宁麗文は改めて敏という男の生き様を知ろうと思った。しかし葬式をしたばかりなのに不謹慎なことを聞いては失礼だとも思った。可馨や紅花に聞いてもいいがそれも失礼だし、美朱や芽衣に聞こうともしたが、それもやめた。では一体誰から聞けばいいのかと腕を組みながら思い悩んでいた。
「どうされたのですか?」
顰めっ面が続いていたからであろう、苑が宁麗文の元へ寄る。
「あ、苑さん。いや、あの……ちょっと気になっていたことがあって」
「気になっていたこと?」
苑は瞬きをして彼の言葉を繰り返す。宁麗文はもごもごと口の中を動かして視線をあちこちと巡らせてから小さい声を出すしかなかった。
「あの、敏さんの、ことを……」
「ああ、町長のこと?」
意外にも平然とした態度で答える彼女に目を丸くする。このまま突っ立ってしまっては住民たちの仕事の妨げになると考えて、二人はその場から離れてやや近くにあった石段に座った。
「町長はずっと昔から、おそらく二十年近くほど前にこの町に越してきたのです」
「越してきた? 彼は元からここの住民ではないんですか?」
苑は頷く。
「最初の町長は奥さんと仲が良くて、私たちにも優しかったんです。……だけど、何年前かしら……そこまで覚えてはいないんだけど、奥さんを病気で亡くしてから変わってしまったんです。そんなに違いは分からないんだけれど、どこか、怖いような……」
宁麗文は最初に会った敏の姿を思い起こす。苑の言っているような態度ではなく、むしろ優しいと思った。謙虚であり彼を地面に座らせたくないと主張をしていた。だが、苑が言うには『恐怖』という感情が敏から出ているのだという。
「確か紅花さんの父親は彼の補佐をしていたんですよね? 敏さんと紅花さんの父親との関係はどうだったんですか?」
「……それがね、良くなかったみたい。もちろん最初は以心伝心しているように感じられました。だけど、奥さんを亡くしてからは、町長は紅花ちゃんのお父さんに強く当たるようになったみたいで……あの子が何度もうちを訪ねることもあったし、可馨ちゃんと寝る日も多かったみたいです」
「そうですか……」
(これは……聞いちゃいけなかったかな……)
宁麗文は敏に関する話を聞いていて少しばかりの後悔を感じた。話している苑の顔に陰りが見えて、今にも辛さに押し潰されてしまいそうな表情を浮かべていたのだ。
「お辛いことを言わせて、……ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼に目を丸くした苑は首を横に振る。
「いいんですよ。宁公子も唐公子もこの町にとても良くしていただきました。この話は他の人には内緒にしてくださいますか。もちろん唐公子には伝えても構いません」
「……分かりました」
宁麗文は少し頬を引き攣らせて笑った。
とっぷりと暮れた夜。唐秀英も寝静まった夜に静かに外へ出てみる。日中は青天だったからか、空には細かい砂のような星が散らばっていた。少し頭を回して見ると三日月より太い月が彼を見下ろしている。宁麗文はあの日、肖子涵と埜湖森の前で見上げた空を思い出した。
(こんなに綺麗な空を見ただけで、また肖寧のことを思い出しちゃった)
彼は今、どうしているだろう。同じ空を見ているだろうか。飯は食べているか、自分のことを思い出してはくれているだろうか。宁麗文は彼が考えてもいなさそうなことまでも考えてしまって顔を俯かせながら落ち込む。
(私にとっての最初の友人は肖寧だけど、肖寧にとっての最初の友人は私じゃないだろうし、私より仲の良い友人だっているだろうな。あんまり自惚れちゃダメだ)
宁麗文は頭を振って胸元を拳で叩く。小さく息をついてまた空を見上げた。
「綺麗だ」
それだけ呟いて、空に向かって笑いかけた。
そして最終日。宁麗文の腰はまあまあ良くなりつつあり、最後の茶を飲んで畑仕事へ向かう。鋤を持って固い土を解してから新しい種を植える。水やりは他の住民に任せてまた土を起こす。それを二時辰ほどしてから汗を拭い、遠くから唐秀英が来るのを見た。
「宁公子」
「唐公子? どうかしましたか?」
唐秀英は胸元で片手で拳を作って口元を上げる。
「明日から町を出ます。そのためにはそろそろ準備をしないと」
宁麗文は彼の言葉に小さく声を漏らす。ここでの復興活動は粗方終わっている。まだ細かい作業までは至らなかったが、残りの仕事は全て彼女たちが続いて動くだろう。であれば、この二人は次なる任務に向かわなければならない。
「分かりました!」
彼の返事に頷いた唐秀英が先に空き家へ戻って、残された宁麗文はある程度の仕事を済ませる。空き家へ戻れば唐秀英は既にどこかへ行ってしまったようで、中には整理整頓のされた箪笥の引き出しが開いていた。宁麗文は箪笥の引き出しを閉じようとして自身の服装について思い出して土埃だらけで元の白に戻らなくなった服を少し伸ばして見た。
(半年間見ないふりしてたから、今改めて見るとすっごく汚いな……あんまり箪笥を触るのも良くない気がする。でも今は一張羅だから他のは持ってきてない。このまま他の町に行っても何か言われるだけだ)
服を掴みながらうんうんと唸っていれば、いつの間にか戻ってきていたのか、唐秀英が宁麗文の後ろから声を掛ける。
「宁公子? もしかして服ですか?」
宁麗文は眉を下げながら振り返って弱々しく笑う。
「はい。この服しか持ってきてなかったので……」
「ご家族に伝達術を使って持ってきてもらいましょう」
宁麗文は彼の言葉に思い出した。修士の持つ技には伝達術という立派なものがあるではないか。宁麗文は外の世界に触れる際の経験があまりないので、術に関することなど頭になかった。
袖口や懐に入れていた荷物は空き家の奥に置いてあった箪笥に仕舞っている。畑仕事で着いてきてしまった泥がついてしまうと心配したが唾を飲んで心を鬼にして手を突っ込んで中身を探る。見つけた一枚の札を手に取って瞼を閉じて宁雲嵐宛に要件を頼んだ。
半時辰ほど経った頃だ。からりとよく晴れた空から御剣している宁雲嵐を見つけた。先に自宅から替えの服を持ち、桂城唐氏の邸宅へ寄って祓邪を取りに行ったのだろう。
「兄上! こっちだ」
宁麗文が手を振って彼を呼ぶ。弟を見つけた宁雲嵐は地面へと降下して豪静から降り、剣訣で剣を仕舞う。そしてボロボロになってどこもかしこも土だらけになっている彼を見て眉を顰めた。
「お前なあ……服と剣を持ってこいって言うからなんだと思ったら……どうしてそうなったんだよ」
「これには訳があるんだ。詳しくは唐公子に聞いてくれ。それで服は持ってきてくれた?」
「当たり前だ。ちゃんと嚢に包んである。着る前に沐浴しろよ」
「分かってるよ。ありがとう」
宁麗文は彼から服が入っている嚢を受け取る。空き家へ戻ろうと踵を返すと、一歩踏み出したところで宁雲嵐が弟の後ろ襟を掴んだ。
「え、なんだよ。なんで襟を掴むんだ?」
「今なんの任務やってるんだ? 唐秀英殿もいるなんて聞いてないぞ。お前ら二人だけ世長会に出てないから、父上はどう説明しようか悩んでるし唐宗主は何も言わない。しっっっかり説明してもらえるか?」
宁雲嵐の声色に宁麗文は身を硬くする。この声の調子に身に覚えがあった。
宁雲嵐はいつも頭にきている時はいつもよりも声の調子を落として、顔もいつもの自信げのある勇敢な顔つきから感情が分からない全く無の表情になり、そして何も言わずに相手の言い分を聞く。その時の状況といえば、第三者からしてみれば気まずく、また彼の前にするとどんな言い訳も通じないと背中が小さくなるような気分になるのだ。宁麗文はこれまで幾度も経験していて、その度に宁雲嵐から逃げようともがいても結局は捕まって泣きながらつらつらと言い訳を述べて反省する。「もうそんな顔はこりごりだ!」と言い訳を流しながら心の中で思っていたことも何度あっただろう。とにかく、この宁雲嵐という男は何がなんでも怒らせてはならないのだ。
しかし今、何も言わなかった弟の宁麗文に対して怒りを込めている。
(ちょっと待って。これは……怒られてるのか? いや、そうだ、絶対そうだ。怒られてる! うわ! 最悪だ!)
宁麗文は後ろ襟を掴まれながら顔を青ざめ、そして世長会の存在を完全に忘れていたことにも気付いた。おそらく唐秀英も完全に忘れているだろう。
いつまで経っても宁麗文が来ないと気付いたからか、彼と同じように土まみれになって汚くなっている唐秀英が町の入口へ戻る。宁雲嵐と彼に後ろ襟を掴まれている宁麗文を見た唐秀英は「何が起こっているんだ」と言わんばかりの唖然とした表情を浮かべている。
「唐秀英殿。久しぶりだな」
宁雲嵐からの声に我に返り、慌てて拱手をする。その顔はまだ困惑に満ちたままだった。
「宁雲嵐さん。ご無沙汰しております。……えっと、なぜ宁麗文さんの襟を掴んでいらっしゃるんですか……?」
「ちょっとお二人に話を伺おうと思ってな。あんたもこっちに来てくれや」
宁雲嵐のにっこりとした笑顔に唐秀英も小さく震え上がりながら顔を青ざめる。ぎこちない動きで後ろ襟を掴まれている宁麗文に目配せをすると、彼もまた唐秀英に向けて首を横に振った。
宁麗文と唐秀英は掃除をして多少まともになった空き家に宁雲嵐を招いてその場で正座をする。どう説明しようか迷っていても、彼は腕を組みながら二人を見つめていた。宁麗文と唐秀英は冷や汗を流し、半泣きになりながら事の経緯を全て話す。所々入り組んだ話もして、宁雲嵐は眉間を揉みながら呆れていた。
「つまり、お前らは唐宗主からの任務に追われていて、家に帰る暇さえなかったわけだ。それで二つの件に今から手をつけると」
「そうだよ……だから服と剣を持ってきてもらったんだ……」
「お前また泣いてんのか」
「泣いてないし……」
呆れる宁雲嵐を前にして、宁麗文は囊を両手で抱き締めながらぼそぼそと俯く。
「ていうか、もう着替えさせてくれよ……今から町を出るところなんだ」
「待て。どこに行くんだ?」
その問いに今度は唐秀英の口が開く。
「ここの住民だった男性たちが誘拐された町です。もう特定済みなので、早く向かって彼らを救出しに行かなければなりません。一刻を争うのです、宁雲嵐さん、どうかお願いします」
唐秀英はこの半年で汚れに汚れきった服を気にせず、その場で床に額を押しつける。宁兄弟は彼の行動に目を丸くして慌てて顔を上がらせる。
「……あのな、唐秀英殿」
宁雲嵐は頭を掻きながら苦い顔を浮かべる。
「別にあんたのやることに文句を言うわけじゃない。だけどな、救出も大事だが餓蝗って奴はどうするんだ? 人が増えてもまた襲来されたら元も子もない。彼女たちだって今を生きるのに必死なんだ。せっかく積み上げてきた生活をまた壊すつもりか?」
「あ……」
確かに、と唐秀英は思った。先を急かしすぎて男たちの連れ戻しを優先し、彼女たちの現在の生活は彼女たちに任せるという、なんとも体たらくで甘んじた行動だろう。宁雲嵐の言う通り、自分たちがいなくなったあとに彼女たちへまた餓蝗が襲撃してしまう恐れがある。まだ未熟な青年にはそこまで考えられる余裕はなかったと言えど、あまりにも目先に足を向きすぎてしまっていたようだ。
「そう、ですね……僕としたことが。確かに宁雲嵐さんの言う通りです。先に彼女たちの安全を完全に確保してから彼らを救出する。餓蝗はまたいつ襲ってくるか分からない。まずは根本的な問題から解決しなければならない。こんな大事なことを忘れていたなんて、僕は……僕は……」
「唐公子? あの……」
宁麗文は身体をわなわなと震わせる唐秀英を見て、次に兄に苦い顔を向ける。
「あのな、兄上。唐公子はこう見えて繊細なんだから、言い方に気をつけて……」
「いえ、宁麗文さん。これは完全に僕の落ち度なんです。ちゃんとできてなかったなんて……やっぱり僕は父みたいにはなれないんだ……」
言えば言うほど自責の念に駆られていく彼は両手で自身の顔を覆う。そしてまた、今度は完全に籠りきった猫のように頭を下げ続けていて口からは後悔の念の独り言が流れている。彼の髪の結び目を見ている宁兄弟は互いに顔を見合せ、宁麗文は渋い表情を浮かべ、宁雲嵐は首を傾げた。
「唐秀英殿はこんなに気が弱いのか?」
「兄上! 言い方に気をつけろ! ちょっと繊細なだけだ!![#「!!」は縦中横]」
「お前も言い方に気をつけろよ。同じこと言ってるぞ」
「そんなわけないだろ!![#「!!」は縦中横] なんでそんなこと言うんだよ!?[#「!?」は縦中横]」
宁麗文は嚢を顔に押しつけながら兄に対する恨み言を垂れ流す。宁雲嵐の前には顔を床に押しつけながら後悔を垂れ流し、嚢を顔に押しつけながら恨み言を垂れ流している土まみれの二人がいた。
服を着替える前に沐浴をしろだの汚いだのと宁雲嵐から散々なことを言われたので、宁麗文は頭にきながら嚢を持って外へ出る。人がいないかとうろうろしながら大通りを巡っていくと、ちょうどもう少しで再建が終わりそうな店に手をつけている可馨を見つけた。しばらく聞こうか躊躇っていたが、時間がないので勇気を出して彼女に声を掛ける。可馨はこめかみに流れる汗を手の甲で拭きながら宁麗文に顔を向けた。
「宁公子? どうかなされましたか?」
「この辺りに……その、沐浴ができそうな場所はありますか?」
「ああ、あの山の中にあります。よろしければ中まで案内しましょうか?」
宁麗文は顔を明るく輝かせる。
「ありがとうございます、お願いします」
「ふふ、お礼なんていいですよ」
目を弧に描く可馨が先へ歩いて、宁麗文も彼女の隣に立つように着いていく。
これまでの半年もの間、宁麗文は畑や民家の修復に追われていた。もちろんこの場所に住んでいる民たちが彼よりも重労働なのには間違いないが、彼女たちがまともに動けるまでは宁麗文と唐秀英の二人がせっせと動いていたのだ。唐秀英が度々桂城唐氏へ連絡をして物資を取りに行く間、宁麗文は住民たちと修復などの復興作業に勤しむ。繰り返し繰り返しと過ごしていれば彼だけがより土や埃まみれになってしまい、貴重な水を使わせては申し訳ないと心の中で思いながら日々を過ごしていたのだ。結局は身体を拭くための布に含ませる水と洗顔のための水をもらうことになったが、それでも彼の心の中は申し訳なさでいっぱいだった。住民や同じように汚い格好になりきってしまっている唐秀英はとうの前に鼻が慣れきってしまい、宁麗文も汗だくで働く彼女たちの臭いにも鼻が慣れきっている。復興というやむを得ない状況でも致しがたないものではあるが、これを他の町の住民が見たらどう思うだろう。
宁雲嵐が来た時には宁麗文は汗やら土やらと様々な臭いを身体から発していて、とても良い気分ではなかった。しかし、弟のいる手前で鼻を摘む行為は死にたくなるほど臭い、という印象を与えかねなかったので敢えて摘まなかったのだ。そのお陰なのか宁麗文は自分がどれだけ臭いのかも分からずに過ごしていた。
宁麗文は可馨に連れられて山の中に入る。人里とは違う澄んだ自然の空気を吸い込んで深く吐いた。
「ここは綺麗ですね。空気も澄んでいてすっきりします」
「はい。ここは本当に昔から綺麗な場所なんです。子供の頃からずっとここに行ってばっかりで。恥ずかしい話ですけど、紅花と喧嘩した時にここに来ては木を殴ったりして……」
自分の黒歴史に眉を顰めながら顔を赤らめる。俯きかけた顔を思いきり上げて彼を見上げながら、胸の前で両手を横に振った。
「い、今はしてないですよ? 昔のことですし、もう木なんて殴ってないです。そこまで子供じゃないので!」
また顔を背けて両手で自分の顔を覆う。しばらく取れない赤らみに苦戦していて一向に上げられなかった。宁麗文は彼女の意外な一面に目を丸くしたあとに胸の底から面白さが勝ってつい噴き出してしまう。
「なんだ、私と似たようなことをしてるんですね」
「えっ?」
宁麗文は彼女から顔を逸らして歩きながら様々な木たちを見上げる。
「私も可馨さんと同じです。家の庭に大木があるんですけど、鍛錬中に嫌になったり、辛くなった時に必ずそこの下で座るんです。すごく綺麗な空気が広がってるからかな。ずっと座っていたら、いつの間にか嫌だったことが全部忘れられるようになってて。……こういう自然の風が私たちを癒してくれるのかな」
(……って、私は何を言ってるんだ!?[#「!?」は縦中横])
自分の言葉を最後まで紡いだ宁麗文は我に返ってぎこちなく彼女を見下ろす。いつの間にか顔を上げていた可馨は先程の彼と同じく、面白さに小さく噴き出す。気まずい笑みを浮かべながら頬を搔いて、空咳をしてから片手を横に振った。
「ああそうだ。可馨さんは紅花さんとすごく仲が良いみたいですが。昔からの馴染みなんですか?」
小さく笑い終わった可馨は頷く。
「はい。と言っても最初から馴染みがあったわけではありません。私は違う町からここに越してきて、ちょうど同じ歳の紅花と会っただけなんです。私には叔母が、そして紅花には父親がいました。叔母が数年前に病死してしまってからは一人で……その時に紅花が助けてくれたんです。そこから仲良くなって。よく花遊びをしたり、紅花の父親の仕事の手伝いをしていました」
そこから可馨の顔に陰りが見える。
「……紅花の父親は、一番最初に連れ去られてしまった人なんです。当時の状況はよく分かりません。家に行ったら紅花だけがいて、中は荒らされていました。どうしたのって声を掛けても何も応えてくれなくて……今はあんな風に元気でいられていますけど、たまに心配なんです」
「心配とは?」
「紅花は……敏お爺さんをよく見ていました。それも……睨んでいるような……憎んでるような。私は何も言わないし、言えないんです。多分、聞いてはいけない何かがあるんだと思います」
小さく消えていく言葉は風に晒されてほとんど聞こえなくなっていく。宁麗文は少しだけ眉を顰めて彼女から顔を逸らしてしまった。
「そう、ですか……」
ではあの日、敏の葬式を開いた時の紅花はなぜ泣いていたのだろうか。泣き女を担当していたわけではなかったが、少なからず彼に情の一つや二つは湧いていたのだろう。宁麗文は心の中で自問自答をするだけで、特に彼女に聞くことはしなかった。
「もう少しで着きます」
可馨は彼に心配させないようにわざと微笑んだ。
少し歩いた場所に開けた場所があって、真ん中に大きな池があった。池の水は山の恵みのお陰で何も色がない透明で、底の石たちが見えるほどに透き通っていた。先に着いた可馨が池の前で片膝をついて片手を水に入れる。
「ここがいつも沐浴している場所です。寒くなる時期には入りませんが、今日は……うん、そんなに冷たくない。大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。こんなに綺麗な場所は初めて見ました。いつ頃からあるんですか?」
「私たちが生まれる前から……敏お爺さんが作ったのだと聞いています」
「そうなんですね。彼はすごく器用な人だ」
可馨はにっこりと微笑む。
「冷たい水で申し訳ございません」
深々と頭を下げる彼女の肩を持って顔を上げさせて、首を横に振る。
「身を清められる場所なら水でも構いません。本当にありがとうございます」
可馨の前で腰を折って彼女を町へ帰す。見送ったあとに池のほとりに嚢を置いて、先程の彼女と同じように水の中に手を入れて冷たさを確認した。
(うん、このぐらいなら大丈夫だ)
今の時期は夏になる前の春になる。日中は暖かく感じられるが、明朝や夜になるとめっきり冷え込む。なので沐浴をするには日中でなければ寒い思いをするだろう。幸いなことに、この山は霊力がないというのに不思議と温もりがあって寒いという感想はなかった。
宁麗文は汚れきって白い部分が見えなくなった服を脱いで丁寧に畳んで足から池の中へ入る。手で触れた時とは違う冷たさが身を縮こませたが、それに慣れてしまえば快適だった。
(でも、本当に綺麗だな。山の中で沐浴できるなんて贅沢だ)
今までは家でしか沐浴を済ませたことがなかったので、自然の中で身も心も落ち着けるような沐浴は初めてだった。宁麗文は瞼を閉じて小鳥の囀りや木々の葉の擦れる音を聴く。開けてからは池の中でまともに洗えず脂ぎっている髪を懸命に流し、可馨からもらった穀物のとぎ汁で洗髪する。みるみるうちに汚れがなくなって身体が軽くなっていく。
彼は家での沐浴に慣れてしまい、常に綺麗で清潔感もある姿が普通だった。それが半年もの間で汚れを拭き取る程度ではさっぱりとできず、今こうやってとぎ汁で洗髪なり身体を洗うなりしてようやく元に戻ることができたのだ。これが感動でないなら他に何の言葉が当てはまるだろうか。
池が宁麗文から出た汗や汚れで濁っていけば身体で起こした波がほとりを越えて濡らしていく。水は山から流れてくる源泉からではあるが、不思議なことに人里までは流れなかった。ここはあくまで沐浴用であって、他の水は別の林や湧き上がる場所で事足りているのだろう。
ある程度の汚れがほとりを濡らして流れていった頃にまた新しい水が宁麗文を包む。しばらく水を手で遊んでいたり、髪を何度も梳いたりして、ふと餓蝗を思い出す。
(なんであの夜だけ現れたんだろう。しかもひと塊だけだった。どこかに巣があるんだろうけど、でも、違和感があるんだよな)
脳にあり日の夜に訪れた餓蝗の襲撃を思い出す。確かに、現れた餓蝗は宁麗文を襲ったひと塊だけだった。他の場所では襲われたという情報はなかったので、本当に彼の前に現れた集団だけだったのだ。
(何か見落としてる……。手掛かりを探しても別にこれといったものもなかったし、結局唐公子と色々と考えてはみたけど分からずじまいだった。町の中でもそういったものはなかったし……だったら何が原因なんだろう)
胸の前で腕を組みながら小さく唸る。瞼を少し伏せてゆっくりと水の流れを観察していると、水底に何かが沈んでいるのを見つけた。
(なんだこれ?)
拾い上げたそれは白くて小さい石だった。それも何個か沈んでいて、全てがほぼ同じ形と大きさだった。しかし所々凹みや欠けがあって丸くはない。真珠なのかと思ったが、それにしては輝きが足りない。宁麗文は首を傾げて角度を変えながら見つめる。
(なんかの装飾品が壊れたとか? でも、あの町に装飾品とかってあったっけ。いや、私たちが来る前はあったんだろうな。あとで聞こう)
空を見上げれば青々とした木々が風に揺らいでいる。あまり待たせてしまうと予定に狂いが生じてしまうだろう。宁麗文は白い石を池のほとりに置いて立ち上がって出た。
嚢から新しい服を取り出して水分を払いながら着替える。髪を絞って水を吐き出し、梳いてから結い上げて普段着けている髪飾りで留めた。息をいくらか吸って吐き、汚れた服を嚢に仕舞う。
「うん、行こう」
宁麗文は山から降りて町の入口へ向かった。そこには他の住民に沐浴ができる場所を教えてもらったのだろう、同じく身を清めた唐秀英と、二人を待っていた宁雲嵐が眉を上げながら立っていた。
「汚れは全部落とせたか?」
「当たり前だろ。でないと服が着れない」
「臭いも消えたみたいだな」
「えっ」
宁麗文は目を丸くして口をぽかんと開け、宁雲嵐は口元を片方だけ引き上げた。唐秀英に顔を向ければ彼も宁麗文と同じだったようで、慌てて自分の腕や服を引っ張って胸元の臭いを嗅ぐ。宁麗文は顔が熱くなっていくのを感じながら、わなわなと唇と身体を震わせる。
今まで自分が汗だくになり、土にまみれながらも労働をしていたのだ。いくら慣れきったと言えど、周りの人間から臭いについて指摘されてこなかった。ここに来てようやく自分がいかに臭かったのかを、よりによって兄に暴露されてしまった。宁麗文の中には羞恥と屈辱が混ざり合い、泣きそうになる赤い顔で兄を睨みつける。
「臭かったんなら最初から言えよ!![#「!!」は縦中横]」