第二章 花の想い話
十一 こぼれ落ちた花
次の任務に向かうために町を出る前の別れを告げようと、紅花たちを広場へ集めた。
いつもとは見慣れない服装を身にまとっている青年二人に、広場でそれぞれ座っている住民たちの不安な表情が読み取れる。少し騒がしくなってきていたが、それに唐秀英が笑みを浮かべた。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。僕たちはこれから餓蝗の件に向かいます。終わりましたら、桂城唐氏からの報せが届くかと思われます。しばらくの間でしたが、お邪魔させていただきました」
丁寧に腰を折る唐秀英に宁麗文も続いて上半身を戻してから共に拱手を仰ぐ。彼らの手を見た紅花と可馨が立ち上がって返すように拱手を仰げば、他の住民たちも立ち上がって共に手を掲げる。
「こちらこそ、我々の復興に携わっていただきありがとうございました。至らぬ点があったと思いますが、唐公子、そして宁公子のお陰で元の日常に戻ることが叶いました。本当にありがとうございました」
そして彼女たちも腰を折って上半身を戻す。唐秀英と宁麗文は互いに顔を見合わせて共に頷いてからまた彼女たちに顔を向ける。住民たちの間を縫いながら阿晴が飛び出して唐秀英の身体に抱き着く。
「秀英兄ちゃん、今度はいつ来れるの?」
彼を支えながら目を丸くする唐秀英は眦を下げて屈んで視線を合わせる。
「僕たちの仕事が終わったら遊びに行くよ。それまでにいい子にできる?」
「うん! いい子で待ってる! 絶対だよ?」
「うん。絶対だ」
日に焼けた三本の指を見た阿晴も小さい三本の指を掲げて歯を見せる。宁麗文は彼らの見せた光景に、ぼんやりと肖子涵の存在を思い出して少し瞼を伏せた。
(……私もいつか、肖寧と約束することがあるのかな)
まだ関わりの少ない彼ではあるが、それでも『最初にできた友人』なのだ。唐秀英たちも大事な存在ではあるが、肖子涵が一等大事だと思っている。だから唐秀英と阿晴の約束をする姿にわずかばかりの傷心を感じてしまった。
「宁公子」
ぼんやりと考えていれば不意に隣から声を掛けられて我に返る。自分より少し濃い茶色のつむじが見えて、視線を下にずらせば可馨が立っていた。
「この度は本当にありがとうございました。あなたたちがいなければ、私たちは今を生きていけませんでした。これから餓蝗の件について行かれるのですよね?」
宁麗文は頷く。
「はい。餓蝗はまだどこかに潜んでいる可能性があります。これを先にやらなければまた元に戻ってしまいます。彼らのことは心配でしょうが、唐公子が桂城唐氏に連絡をして帰してくれるそうなので、ご心配なく」
「よかった……」
可馨は気の抜けた、安堵を示す表情を見せる。
「それと、万が一この町に来るとした場合のためにこちらから術を掛けさせていただきました。よっぽどのことがない限りは安全ですので、気楽に過ごしてください」
「何から何まで……もう、どうお礼を述べればいいか。どうかお怪我をなさらずに。私たち一同、またあなたたちが来るのを待っています」
「はい。また遊びに行きます」
宁麗文がにっこりと微笑むと可馨の頬が瞬く間に赤く染まる。
「では」と呟くように小さく掛けて、赤い頬をそのままに逃げるように去っていった。途端に赤くなった頬に首を傾げていれば、後ろから宁雲嵐が何やらからかうように口端を上げながら弟の肩に腕をまわす。
「全く罪な弟だな、お前は」
「なんのこと?」
「何ってお前、あの子に惚れられてんだよ」
宁麗文は二度瞬いてから目を弧に描いて胸の前で手を振る。
「それはないだろ。大体、惚れられてるんだったら今頃声を掛けたりなんてしないって」
宁雲嵐は弟のあっけらかんとした態度にやや呆れながら彼の肩から腕を下ろす。その顔には「そういうことじゃない」と書いてあった。
口端を上げながら首を傾げる宁麗文と呆れ顔の宁雲嵐を前に、阿晴を帰した唐秀英が立ち上がる。
「それでは、行きましょう」
彼の一声に二人の頭が頷いた。
町を抜けてから御剣で空を飛ぶ。それぞれ頭を右往左往へと動かしながら発生場所を見ていくが、どこにもそれといったものは見当たらない。仕方なくと適当な場所に降りて剣を仕舞った。
「今のところこれと言った場所はありませんでしたね。しばらくここから歩いて巣を探しましょう」
唐秀英の言葉に頷いて今度は徒歩で見ていく。緑を見ていくうちに宁麗文の脳内に思い出した箇所があり、気になって隣の兄へ身体を寄らせた。
「兄上、凶鶏のこと覚えてる?」
「ああ、それがなんだ?」
「世長会で話題に出てた? あと私と肖寧の名前も出してないよね?」
宁雲嵐は片眉を上げて「当たり前だ」と自身の胸の前で腕を組む。
「言ったら言ったでお前ら二人に尋問するだろ。だからわざと言わなかった。父上もそれは避けたいだろうしな」
「そっか。ならいいんだ。そのあと何か対策とかしたの?」
「埜湖森は立ち入り禁止区域にして、一般人が入れないように陣を張った。他のところは分からんが江陵からは令を敷いたから、よっぽどのバカでないなら入らないだろ」
腕を組みながら鼻で笑う兄に宁麗文はその様子に乾いた笑いを出すしかなかった。
三人で歩けど歩けど、どれだけ探しても巣らしきものは見当たらない。「この場所ではないのか」と考えるも、町に一番近いのはこの場所なのだから、ここでしか見つからないはずなのだ。段々とくたびれてきた宁雲嵐が立ち止まって傍にあった木に寄りかかる。
「なあ、少し休憩しないか? このままいくら探しても体力がなきゃ見つかるもんも見つからない」
「確かにそうですね。ここらで一旦休みましょう。日も暮れてきますし、野宿という形になりますが……」
「大丈夫大丈夫。俺はこういうのに慣れてる。でも麗文は慣れてないからな」
からかう兄から言葉を聞いた宁麗文の頬が不服そうに膨らむ。
「なんだよ。別に野宿ぐらいしたことあるし。ですよね、唐公子」
唐秀英は困ったように笑いながら彼の言葉に頷く。宁雲嵐は目を点にして口をぽかんと開ける。
──まさか、弟が自分の見ないうちにここまで成長していたとは!
これは宁雲嵐にとって喜ばしいものではあるが、それと同時に兄離れを始めたのと同義だろう。胸の半分には弟の成長に淋しさが埋まっていた。嬉しいやら淋しいやらと複雑な表情を浮かべている宁雲嵐に首を傾げる宁麗文だったが、特に何も言うことはしなかった。
三人は野宿のために、周辺から木の棒を拾い集める。ある程度集めた枝を中心に置いて宁雲嵐が点火符をかざした。火が灯り辺りを柔らかく照らす。森の中にいたうさぎや鳥を捕らえて血抜きをしてから焚き火で焼く。火の加減を見ている宁雲嵐が二人に顔を向けずに口を開いた。
「そういや、あの町には男が全員連れ去られたんだろ?」
「うん、そうだよ。それがどうしたんだ?」
宁麗文の返事に腕を組んで首を傾げる。
「変だなって思ってるんだ」
「変? 確かに出る直前まで思ってたし唐公子と考えたけど何もなかったよ」
宁雲嵐は息を吐いて頭を振る。
「唐秀英殿から聞いたんだが、爺さんがいたんだろ。なんで男が全員いないはずなのにあの爺さんだけが残ってたんだ? 女子供の中にいるのは不自然だろ」
それに唐秀英が答える。
「彼は町の長だと聞きました。彼から聞いたのですが、連れ去った側の言い分では、男が全員いなくなっても長がいなければ町として成立しない。どうせなら仕事のできない女子供を残してそのまま自滅でもすればいい……だそうです。なので、男性の中で彼だけが残っていたのです」
「それでもおかしくないか? 長がいなくなったら代わりに誰かがやればいい。あの爺さんじゃなくてもあの中の誰かでも務まるだろ。なのになんで爺さんだけが女子供と一緒に残されてるんだ?」
「兄上。深く考えすぎだ」
脂が出て中まで火の通ったであろう、うさぎの串焼きを手に取って息を吹きかける宁麗文の顔には呆れが張りついている。
「別に敏さんがいてもいなくても変わらないよ。どちみち可馨さんたちだけで仕事はやっていけてるんだし。それに、私たちが来た時からは彼はもう指示なんてしてなかった。代わりに紅花さんがやってるんだ」
「なぜ彼女が指示をする? それは長のやることだろ」
宁雲嵐からの続く問いで宁麗文の表情にますます呆れが進む。面倒だ、と頭を振って黙々と肉を食らうことにした。彼の代わりに唐秀英が鳥の軟骨を手でちぎりながら答える。
「彼は随分とお年を召されていました。見た感じ、身体もまともに動けるようではありませんでした。なので、紅花さんが代わりに務めました。彼女は父が敏さんの補佐だったようで、仕事のやり方も把握していたんです。紅花さんは『もし父がいなくなった時に備えてあたしも仕事を覚えているんです』と話していました。僕たちが任務に向かうまでの二ヶ月の間は連絡網を必死に探して、命からがら伝えてくださったんです」
「はあ……その連絡網ってのはどこにあったんだ?」
「敏さんの自宅の倉庫にあったそうです。きっと他の町の方々に壊されるのを恐れて隠したんでしょう」
やはり口をへの字に閉じる宁雲嵐は息を吐いて弟よりも大きい肉を噛みちぎる。溢れる肉汁を飲み干していればまたひとつ思い出したようで、もう一口と頬張ってから二人に顔を向けた。
「そうだ。お前ら、凶鶏が何を食ってるかは覚えてるか?」
残り少ない肉を見る宁麗文の眉がまた顰めてじっとりと兄を見上げる。
「今更なんだ? 当たり前だろ。人の頭部だ」
「そう、頭部だ。人を喰う時はあの鋭いくちばしで首を一突きする。そして吹き飛ばされた頭を一気に飲み込んで知識を得る。流石、低級邪祟様のやることは野蛮だ」
(なんで急にそんな怖いことを言うんだ!)
改めて凶鶏の捕食方法に宁麗文と唐秀英の二人は揃って身震いをする。彼らもまた、今のように肉を食べているので何も言えるわけでもないが、それでも非人道的な行為にサッと顔を青ざめる。それでも宁雲嵐は見なかったことにして焚き火を見た。
「それなんだがな、最近凶鶏がいたとされる現場からあるものが残っていたんだ。なんだと思う?」
「あるもの?」
まだ若い青年二人は互いに顔を見合せて首を傾げる。幾ら考えても答えなぞ出るわけでもなく、答えを待っていれば問いを出した男が最後の一口を豪快に口の中に入れて口を開いた。
「鍵は人体で一番硬いものだ」
「なんだよそれ。一番硬いものって骨じゃないのか?」
宁雲嵐の薄茶が見えなくなる。人差し指を横に動かして軽い舌打ちで宁麗文の答えを否定した。瞼が開いて火を映している薄茶は二人を見ることなく、食べ終わった棒を焚き火にくべる。
「歯だよ」
「歯?」
「ほとんどは胃酸で消えるが、歯は少しだけ残る。それほど頑丈なものなんだ」
歯。
その部位は白から黄色へと様々であるが、ある程度の形はほぼ同じと言っていい。薄い永久歯から大きく太い奥歯と、場所によってはやや薄さも強度も異なるが、それでも身体中のどの箇所よりも丈夫だろう。肉を食べている途中の宁麗文の手が止まって、そして口が少しだけ開いた。
──あの池の底に沈んでいたもの。白と黄、色は様々だがある程度の形を保っていた。そしてその形も薄いものや太いものと、規則正しいものばかりだった。そしてその太い|何《﹅》|か《﹅》の中央にわずかばかりの凹みがあった。
それは──人間の歯なのではないか?
「それのお陰で残りの凶鶏の居場所が掴めたんだ。もうそろそろ奴らも潮時だろうな──麗文?」
宁雲嵐は弟の素早く食事を済ませる様子に目を点にする。唐秀英も彼と同じだったようで、宁麗文ただ一人だけはすぐに立ち上がって二人の隣で祓邪を鞘から取り出して地面を蹴って空を飛んだ。呆気に取られた二人だったが、彼の切羽詰まった表情に異常事態だと察して慌てて火を消して御剣で着いていく。
(あの池はすごく綺麗だった。人里に流れてこないようにせき止められていて、流す時はほとりに押し出してまた新しい水を入れる。そして底に沈んでいたあの小さいもの。もしかして、もしかして──)
山の中にある池。町にいる唯一の男である敏。そして三十年ほど前に全滅したかと思われた、突然現れて消えた餓蝗。苑が言っていた、敏は昔からこの町にいたのではなく、二十年近く前に越して町長を勤めていた。その前の彼の住んでいた場所は分からない。唐秀英の話では一部では人喰いがあった。その原因は餓蝗による虫害。餓蝗は魔で、人ではなく農作物だけに害を成す。そして食糧がなくなった住民たちは互いに喰い殺す。もしその中に別の何かがいたのなら?
餓蝗を操る『何か』がいたのなら?
(可馨さんたちが危ない! 守霊術を掛けるべきじゃなかった!)
宁麗文は顔を青くしながら町へ降り、守霊術を破る。軽い音を立てて割れたその防壁の中には血の匂いが充満していた。同時に女子供の悲鳴が辺りに聞こえている。宁雲嵐と唐秀英も同時に着いた頃、宁麗文は祓邪を握りながらある人物を探しに走る。せっかく建てた店が餓蝗に包まれていた。宁麗文は懐から邪華符を取り出して走りながら貼っていけば立ちどころに光が舞う。
その瞬間、女の悲鳴が聴こえた。声のなる方へ顔を向けると、そこには宁麗文があの日、支えていた中年の女が餓蝗に包まれかけていた。そこに揺らりと誰かが屍のように立ち上がり、彼女の腕に喰らいつく!
「やめろ!![#「!!」は縦中横]」
宁麗文は腕輪の着いている左手でその屍──いや、死んだ敏を突き飛ばした!
その腕輪から成る光に餓蝗は全て消失し、敏の噛み跡がある腕が見える。
「走れますか。今すぐ逃げてください!」
「あ、あ、でも、まだ餓蝗が……」
「邪華符を貼り尽くしているのでもういません! いいから早く広場へ!」
中年女はよろけながら宁麗文と敏から離れて去っていく。残されたのは宁麗文と、そして死んだはずの敏だけだ。
「敏さん。これはあなたがやったんですか?」
敏は何も答えない。口からは血に染まった綺麗な歯が覗いている。
(やっぱり)
敏の歯は人とは思えない程に白い。そして老人だというのに先程の女に噛み付けるほどの強度を持っている。
「前の飢饉の時、人が人を喰うという事件がありました。それは生きている人から聞いたと。あなたはここの町の人ではないけど別の町にいた。その町にも飢饉があったはずです」
敏は白い目を宁麗文に向けて、動かない首を無理やり動かしてゴキッと音を立てる。
──彼の前で自身の首を折ったのだ。
宁麗文は更に顔を青ざめて吐き気を感じてしまう。一歩退いてそれを払拭するように頭を振って耐える。
「あなたには右腕である紅花さんの父親がいましたよね? あなたがいなくなってもやっていけるように業務を回していた。そして紅花さんの言っていた、他の町の人との口論……それをしていたのは彼女の父親なのですか?」
敏は動かせない口を無理やり動かし、ブチブチと音を立てて口を引き裂く。乾いていて一滴もないはずの血が口から流れて歯を更に赤く染めた。死体には血が流れない。だとすれば、それは|既《﹅》|に《﹅》|喰《﹅》|わ《﹅》|れ《﹅》|た《﹅》誰かの血だろう。
「あなたが言っていた『長がいなければ町は成立しない、仕事のできない女子供だけを残して自滅すればいい』という他の町からの証言は、あれはあなたがついた嘘なのではないのですか!?[#「!?」は縦中横] あえてそうして他の町に男だけを誘拐させた。そして残った仕事のできない彼女たちと過ごし、餓蝗を呼び起こして飢饉状態にする。そうして逃げ場を失わせて死に時を待たせる。あなたはそれを狙って、わざとここに残った。前の町の飢饉同様に、また女子供を全員喰うために!」
敏の口からは血の泡が吐かれていく。ごぼごぼと泡が増えた先で数本の細すぎる線が何かを探すように動かす。また泡が増えたその瞬間、血にまみれた餓蝗が|彼《﹅》から飛び出す!
宁麗文は咄嗟に祓邪を構えて襲いかかる餓蝗を次々と薙ぎ払いながら地面を蹴って間合いを詰める。出尽くしたであろう最後の餓蝗を斬ったその先に剣を向けた、折れた首に固唾を飲む。
「なぜあなたは死んでしまわれたんですか? いつからそうなってしまったんですか?」
敏の白い目が下へ向き、薄く膜の張った黒目が宁麗文を向く。そしてケタケタと喉から嗄れた声を上げて祓邪を掴んだ。その力は死んでいるとはおもえないほどに強く、剣を掴まれてしまった宁麗文は引こうにも引けない状況だ。
「俺は敏じゃない」
この声色は生前の敏ではないように聞こえる。確かにあの日、宁麗文を尊い方だと話していた敏の声なのに、違う声がした。
「俺は|四蝗王《しこうおう》だ。こいつは俺の依代として二十年も生きていた」
(四蝗王……? 依代?)
敏の口から血の餓蝗が次々と湧き出る。祓邪を掴まれたままの宁麗文は動くこともできず、また祓邪を離すわけにもいかない。懐から邪華符を取り出そうとしたが、隙を見せてしまっては本末転倒だ。宁麗文は奥歯を噛み締めながら冷や汗を背中で感じる。
「ちょうどいい。お前が次の依代になればまた女子供は喰える。知っているか? 人間の中で一番美味いのは子供、そして次に女だ。男はダメだ。あいつらは筋肉質が多いから食べにくい。生きていて余分のない肉を持っている女子供がいい」
四蝗王は血でぬらりと鈍く光る舌で口を舐める。
「お前たちを呼んだのはこの俺だ。いや、違うな。俺の補佐をしていた奴の娘に呼ばせたんだ。この老体は動くのに辛くてな。わざとそう仕向けた。本来なら腐る寸前の生臭い肉を喰うつもりだったが、あの唐暁明とか言うクソ野郎のことを思い出してな。どうせならここの状況回復をして、女子供に肉がついた頃に喰おうと思ったんだ。そしてお前たちはあのクソアマ共を逃がさないように壁を作った! これは僥倖だと思っている。感謝するよ。どの肉も美味かったぞ!」
四蝗王はどこもかしこも皮膚が破けている片腕をギギギと関節を無理やり動かしながら広げる。その光景は異様で、人の皮を被った魔そのものだった。再び四蝗王から湧き出た餓蝗は宁麗文の足元から徐々に登っていく。宁麗文は虫特有の乾いた関節の音を聞いて吐き気を感じていた。
(まずい。私一人で飛び出してしまったから、兄上も唐公子も行き先は分からない。このままだと餓蝗とこいつの餌食になってしまうだけだ。どうすればここから逆転できる?)
「ああそれと、誰だったかな? やたらと喚きながら俺を殺そうとしたクソアマがいたんだ。そいつは喰いにくそうだったから片方の女を喰おうと思ったんだよ。若くて綺麗で、クソ共のお気に入りの女だ。だけどな、そいつの前に醜い醜い……ああ、醜女か。余分な脂肪ばっかり蓄えている醜女が飛び出してきやがって。間違えてそいつを喰っちまったんだ。あーあ、残念だ。そいつのせいで山ん中の池で吐くしかなかったし、今までのと同じだ。やっぱり脂肪より肉がいい」
四蝗王の口から流れ出る言葉に『池』という言葉が出た。数刻前に可馨から敏が池を作ったと聞いていた。しかし、それは間違いだった。あの池を作ったのは敏本人ではなくこの四蝗王だったのだ!
「お前……っ、やっぱり、あの池は……!」
「なんだ、知ってるのか? もしかして水底にある歯も見たのか? おいおい、冗談はよせよ! 恥ずかしいだろ!![#「!!」は縦中横]」
四蝗王は笑いながら崩れた敏の顔のまま彼に近付き、互いの吐息が掛かってしまうほど、そして四蝗王の異臭が分かってしまうほどの距離になる。
「お前は綺麗で身体も丈夫そうだ。どうだ? 俺と交渉して身体をくれないか?」
宁麗文は胃から逆流するようなえずきを押さえながら祓邪に力を込める。宁麗文の眉根が深く堀を刻み、異臭に耐えきれなくなり気絶しそうになる。額から滲み出た脂汗が顎から滴り落ちた瞬間だった。
屍の敏の脳天に光が突き刺さる。呆然した宁麗文の襟元を掴み、宁麗文は祓邪と共に後ろへ飛ばされる。目の前にいたのは息を荒らげている宁雲嵐だった。
「兄上!?[#「!?」は縦中横]」
「こんのバカ! なんで一人で行くんだ!?[#「!?」は縦中横] 死にたいのか!![#「!!」は縦中横]」
宁雲嵐は弟に目もくれず、四蝗王の胸元を足で押さえ脳天に突き刺した豪静を勢いよく引いて、頭蓋骨ごと壊す。敏──四蝗王は一瞬だけ目を見開き、そしてほくそ笑むように目を細めた。一度倒れた身体がまたよろめきながら立ち上がる。宁麗文は餓蝗を払いながら立ち上がって兄を見た。
四蝗王はまだ嫌味ったらしく笑いながら口からまた餓蝗を吐き出していく。その裂けた口は段々と傷を広げ、遂には耳を引きちぎって己の手で鼻から上を掴んで投げ捨てる。露わになったのは所々筋が切れて動くことができない筋肉と割れた頭蓋骨、そして中には──餓蝗がびっしりと入っていた。今までに見たことのない、異常な光景に二人の顔が悪くなって眉根に皺を寄せていく。
「こいつはとんでもねえ魔……いや、妖か。まさか爺さんの中に潜んでいたとはな。麗文、あとで理由は聞くから今は広場へ行け」
「え、な、なんで?」
宁雲嵐は豪静を両手で持って構える。霊力を込めたその剣は淡い光がまとわりついていく。
「唐秀英殿が避難させて守霊術で守ってる。だがあいつだけじゃ足りない。お前もさっさと行って守ってこい」
「え……じゃあ、兄上はどうするんだ?」
「俺はこいつを倒してから行く! いいからさっさと行け!」
四蝗王は脳を皺だらけの指で掻きむしり、そしてそれを引きずり下ろす。ぼとっと音がした脳からは餓蝗が流れ出て、残されたのはわずかな肉片だった。宁麗文はえずきを耐えながらその場から離れてまだ周辺を飛んでいる餓蝗がいれば祓邪で斬り落とす。そうして走って広場へ向かえば唐秀英を見た。彼は汗を流しながら守霊術を発動し、怯える住民を餓蝗から守っていた。
「唐公子!」
唐秀英が彼の声に反応して顔を向ける。その顔は青白くなっていて唇が少し震えていた。恐らく広範囲の術を掛けられるほどの霊力があと少しで尽きてしまうだろう。
「すみません、加勢します!」
宁麗文も懐から何も書かれていない札を取り出し、祓邪で自分の指を切ってから血で術を描き霊力を込めて陣を発動させる。二つの壁が重なったことによってより頑丈になって更に餓蝗を跳ね返す。一盞茶を過ぎた程合いで徐々に餓蝗の数が減って次々と力をなくしたように地面に落ちる。そこから塵となり、やがて全ての餓蝗が消え失せた。この状況からして、宁雲嵐が四蝗王を塵に変えたのだろう。
安堵の息をついた二人は陣を解除して点火符を宙にかざして街灯に飛ばして住民の確認を急ぐ。既に亡くなってしまった女の骸が見え、次に見えたのは一部を欠損してしまった女が数人だった。無事だったのは子供全員と数人の女でその中に可馨も紅花もいた。可馨にはおびただしい血の量が全身を包んでいて、周りには苑の姿が見られない。おそらく彼女を助けた苑の血を浴びてしまったのだろう。
祓邪を鞘に納めて虚ろな目をしている可馨の前で片膝を立てて声を掛ける。
「可馨さん。どこかお怪我は?」
「……あり……ません……」
「そうですか。よかった。……どうしてこうなったのか、話せますか?」
可馨は嗚咽も漏らしたまま涙を流している。目の前で苑を亡くしてしまったのだから、その衝撃は計り知れないだろう。
(……やっぱり聞ける状態じゃないな)
宁麗文は目元を引き攣らせて少し頭を振って紅花に顔を向ける。彼女はそれでも生きている目をしていて、その中には憤怒と怨恨が現れていた。
「……あのクソ野郎……」
宁麗文の予想は当たっていたようだった。この様子から推測するに、きっと敏に扮していた四蝗王が騒動を起こす前に、紅花に彼女の父親のことを話したのだろう。紅花は下唇を血が滲んで顎に伝わるまで噛み締めながら涙を頬に絶えず流している。霊力を多く消費した証拠を表す汗を腕で拭った唐秀英が紅花の元へ駆けた。
「紅花さん、もう餓蝗はいなくなりました。彼らも直に戻ってきます。だから今は安静に──」
唐秀英の言葉が終わる前、彼女が立ち上がった瞬時に彼の腰帯から剣を抜き取った。刃が鞘の内部と擦れる金属音に宁麗文も可馨も、そして他の生き残った住民もが目を向ける。
紅花は奥歯を噛んで息を荒げて涙を零しながら彼を避けて走る。剣を奪われた唐秀英の目は丸くしたままだったが、それもやめて彼女を呼びながらあとを追った。二人を不覚にも見送ってしまった宁麗文は口をぽかんと開けてしまうだけで咄嗟に動けなかった。しかし彼のすぐ横を、杏の匂いが通り過ぎた。
「可馨さん!?[#「!?」は縦中横]」
なんと可馨が血まみれのまま走り出していたのだ。表情は見えなかったものの、彼女の頬からは一滴、二滴と水が風に揺られて落ちていくのが見える。
「ここで……待っていてください!」
宁麗文は他の住民と可馨を交互に見て、彼女たちに言いつけてからすぐに彼女のあとを追った。
広場から離れてはいたものの、すぐ近くに紅花はいた。彼女は眦を釣り上げ血走った眼で四蝗王を探しているのだろう、辺りを見渡していた。
「紅花さん、落ち着いて……」
唐秀英は霊力と体力が少なくなっていたからか膝に手を置いて肩で息を荒らげる。
「落ち着けられるわけがないでしょう!?[#「!?」は縦中横] あたしの父さんはあいつに殺された、一番最初に殺された!![#「!!」は縦中横] 人の仇を討たないバカがどこにいる!?[#「!?」は縦中横]」
紅花は重い剣を、皮膚が食い込むほどに強く握り締めている。黒の双眸から怨恨を詰めた涙を流していて、噛みちぎった下唇に痛めた表情をしていない。むしろ、父を亡くした憤りと絶望によって歪められていた。
「ずっと前から怪しいと思ってた。父さんはあいつと何度も何度も口論をしてた。あいつのせいで仕事を任されっぱなしで疲れた顔をずっとしてた。私利私欲を満たすためにこき使われて、あのクソジジイが他の町から人を寄越して、それでまたっ……。そうしたらどうなったと思う? あいつらが真っ先に父さんを殴って連れていったんだよ!![#「!!」は縦中横] あたしの目の前で!![#「!!」は縦中横]」
紅花は嗚咽を気にすることなく、枯れきった声を血の味がしても構わずに恨みを叫ぶ。血走る黒は更に赤を増していて、双眸から血を流してしまうほどだった。
唐秀英の隣に走っていた可馨が並び、宁麗文も彼女のあとへ着いた頃には可馨はまた走り出した。
「想像してみろよ。家にいる時にいきなり戸が開いて、知らない人がたくさん入ってきて、父さんをいきなり殴った。すぐに連れてかれて……っ、あたしは何もできなかった! 女だから、子供だから、父さんを守れなかった!![#「!!」は縦中横]」
血まみれの茶の少女は黒の少女へと走って、そして数歩進む。
「外に出たらあいつらが賄賂を渡してた。あのクソジジイの懐の肥やしのために、父さんを殺した。こんな金のためだけに! 人の命を奪ったんだよ!![#「!!」は縦中横]」
「紅花……っ、もうやめて……!」
可馨もまた、体力が尽きかけているのだろう。彼女の前に立ちながらも肩で息をしていた。紅花が振り返れば、その鬼の様な形相に顔を青くしながら息を詰まらせる。
「可馨。あんたには関係ないのに、なんで来たの? あのクソジジイを殺す邪魔をしないで!」
可馨は唾を飲んで喉の渇きを一時的に癒す。また一歩と踏んで彼女を真っ直ぐと見る。
「餓蝗も消えたし、敏お爺さんも完全に死んだ。だからもう意味がないの。何やってももう遅いの」
紅花は一歩ずつと近付く可馨から、同様に一歩ずつ退く。表情には憤りと怨恨が詰まったままで元には戻らない。
「死んだから何? 成りすましのクソ野郎だったんでしょ? なら死体はあるよね? あたしがこの手でぐっちゃぐちゃにブチ壊して、山の中の犬や熊にでも食わせればいいんだ、じゃないとあたしの気が済まないんだよ!![#「!!」は縦中横]」
「やめてってば! なんでそこまでして敏お爺さんにこだわるの? もういないって、何回言わせるの? 動物に食べさせるなんて、紅花、あなたどうしちゃったの!?[#「!?」は縦中横] いない人にいつまでも執着しないで!」
彼女の言葉に紅花の目元が歪んでいく。黒の双眸からは涙を止める術はなく延々と流れている。きっとそれは誰にも止められないのだろう。
「うるさい……っ、うるさいうるさいうるさい!![#「!!」は縦中横]」
紅花は何も聴きたくないように片手で耳を塞ぎながら頭を振る。可馨は二、三歩進んで彼女へ肩に手を伸ばした。
「紅――」
「触らないで!![#「!!」は縦中横]」
紅花の口から拒絶、そして剣を持つ手が動く。宁麗文と唐秀英は咄嗟に動けなかった。
──紅花の剣を持つ手が、可馨を切り裂いたのだ。
その場で一気に空気が冷たくなる。紅花の目が丸くなり、剣から流れる血を見てから可馨を見た。
「——え……?」
可馨は斬られた反動で背中から倒れる。その目からは徐々に光が失われていく。微かに動いた彼女の口は紅花を呼んでいたが声は聞こえなかった。地面には彼女の体内に潜んでいた赤い液体が広がっていく。
「可、馨……?」
紅花は震える唇で彼女を呼んで、剣の柄から手を離して膝から崩れ落ちる。さっきまで怒りで赤くなっていた顔は青くなり、そして黒へと変わっていった。
「可馨。可馨……?」
紅花の震える手が彼女の肩に触れる。感じるのは冷たい感触、そして自分だけの温もりだ。
「あ──、ぁ、なん、で……」
紅花の目からは先程とは違う涙が流れる。精一杯可馨の身体を揺するが、彼女は何も反応しない。
唐秀英は震えながら一歩踏んで二人へと駆け寄る。宁麗文も我に返って彼に続いて彼女たちの前で片膝を立てた。
「ゃ……、やだ、可馨……嘘でしょ? ねえ、起きて、起きてよ……可馨。ねえ、なんで……あたしを触ろうとしたの、可馨……」
「紅花さん、紅花さん。手を離してください」
唐秀英の言葉に彼女は余計に可馨に抱きついた。茶の少女から流れ出る血は紅花の腹を酷く染めていく。放り投げられてしまった剣を、唐秀英は拾いたくても拾えなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 可馨、ごめんなさい! もう二度と仇討ちなんて言わないから、殺すなんて言わないから、お願い、何か喋って!![#「!!」は縦中横]」
「紅花さん!」
唐秀英は眉を顰めながら紅花の肩を引っ張って可馨から引き剥がす。紅花は黒い顔のまま彼女を見つめるだけで、唐秀英の言葉に耳を貸せなかった。
唐秀英は固唾を飲みながら立ち上がって近くに落とされた剣を拾う。払うように一回振ると、紅花に裂かれた可馨の血が地面に落ちた。屍のように動けなくなった紅花を宁麗文が起こす。三人の目先には倒れて虚ろな目をしている可馨がいた。
「……紅花さん。可馨さんは私が抱えていくので、広場に戻りましょう。他の方たちもあなたたちを心配しています」
宁麗文は紅花から離れて可馨の瞼を掌で優しく閉じて横に抱き上げる。だらりと垂れてしまった腕を胸元に寄せて立ち上がった。唐秀英は服の裾で剣を拭いて鞘に納めて紅花の手を引っ張って、血痕のあるその場から離れた。
広場へ戻ると宁雲嵐が辺りに追加の点火符で途切れないように灯して待っていた。可馨を抱いている宁麗文と紅花を引っ張っている唐秀英の顔は酷く神妙で、それを見た宁雲嵐は彼たちに起こってしまった状況を把握した。
宁麗文の抱えている可馨の亡骸に他の住民もどよめく。中には彼女の名前を泣き叫んでいる女もいて、敏の時よりも悲惨な状況だった。宁麗文は血の残っていない場所を探して見つかったところで可馨をそっと降ろして、少しでも温もりを与えようと外套を脱いで彼女を包んだ。
「これからどうするんだ?」
宁雲嵐が弟に問う。宁麗文は兄を見上げた。
「これから、どうしよっか。全く考えてなかった」
呟くその顔は青く、無理やり笑っていながらも引き攣っていた。
宁雲嵐は瞼を伏せてその先の言葉を何も紡がなかった。きっと聞いてはいけないのだろう。
広場にはすすり泣く声、可馨を呼ぶ声、欠損した部分にもがき苦しむ声……様々な阿鼻叫喚が生まれていた。宁麗文は彼女たちを見ても無力に感じるだけで何もできなかった。
紅花の手を引いた唐秀英は彼女を可馨から遠く離れた石段に座らせて、自身も片膝をついて何かを話しかけている。
「これが辛い現実だ」
唐秀英が彼女の手を掴んで、見上げながら流れる涙を見ていた。宁雲嵐は息を深く吐いて頭を小さく振る。
「唐秀英殿。あんたんとこの門弟たちはいつ来るんだ?」
唐秀英が彼に顔を向ける。紅花の手を離して立ち上がった。
「すぐ、こちらへ。彼女たちの怪我を最優先にして、それからこの場を完全に浄化します。あとは僕たちの方で片付けます。宁雲嵐さん、そして宁麗文さん。あなたたちとはここでお別れとなります。ありがとうございました」
唐秀英は目を細めて笑うが、眉は寄せて口元は引き攣っている。
半年もの間だが、それでも彼女たちとの絆は確かにあった。だからこそ、余計に辛いのだ。
宁麗文も立ち上がって下唇を噛んで頷く。彼へと拱手を仰ぐのを見た宁雲嵐も仰ぐ。唐秀英も瞼を伏せてから二人へと拱手を向けた。
そうして三人は別れた。宁兄弟は唐秀英が用意してくれた馬車に乗る。宁麗文は膝に手を置いて服を握り締めていて、弟の様子に一瞥した宁雲嵐は壁に肘を置く。その先の掌で顎を支えながら暗い窓の外を見ていて、何も声を掛けなかった。
「……どうすれば、よかったのかな」
宁麗文はぽつりと呟く。
「可馨さんが出てしまう前に紅花さんの持っていた剣を払えばよかった。けど、私か唐公子が払ってしまったら、紅花さんは間違いなく怪我を負う。だからできなかった。……可馨さんも、止められなくて……」
宁麗文の唇が震える。更に手にも力が入って震える。
「なんで、邪祟っているんだろう。あいつらがいなかったら、今だって二人は生きてた。笑顔で生きてたのに……。これも邪祟のせいだ。……二人の未来を奪ってしまった、私のせいだ」
「そこまでにしとけ。今更悔やんだってもう遅い」
宁雲嵐は視線の向こうの景色を見ながら呟く。そこには暗がりではあるが、微かに灯火と風に乗って届く血の匂いがした。
「こういうのはよくあることだ。最初は死にたくなるほど後悔するんだろうが、慣れておけ。邪祟で人は被害に遭う。人で人は傷付く。それがこの世の理だ」
宁麗文は何も言えずに下唇を噛む。頬からとめどなく溢れる涙は顎へ伝って滴り落ちる。宁雲嵐は弟の頭に空いた方の掌を乗せてぐりぐりと撫で回した。宁麗文は髪がめちゃくちゃになっても兄の手を拒絶することはしなかった。
「また元に戻ったら唐秀英殿から連絡が来るだろ。それまでは泣いてでも落ち着いとけ」
「……うん」
宁麗文は腕で涙を拭う。二人が江陵に着くまで、まだ幼い彼はひとしきり泣いていた。
そして、夜が明けた。