第二章 花の想い話
十二 可馨と紅花
数日が経った。江陵へ戻った宁麗文に青鈴は心配を募らせていた。
桂城での任務を終えた彼は外套を羽織らずに、そして目を酷く腫らしていた。今までに見たことのない様子であり、宁浩然への報告もできない状態になっていて、青鈴や宁雲嵐を始めとした誰からの声掛けにも反応しない。これに深緑の表情も暗くなっていって、一度だけ事情を知っているであろう宁雲嵐を訪れたこともあった。
「阿嵐。阿麗はどうしちゃったのかしら。また何か病にでも罹ったんじゃ……」
「大丈夫です。ですが、今はしばらくそっとしておいてください」
深緑は不安げに眉を顰めていながらも、しかし彼の言う通りに宁麗文を戸を越した向こう側で見守るしかできなかった。
日々は過ぎていく。しかし彼はそれでも気を持ち直す度胸などなく、まるで|傀儡《かいらい》のようだ。宁麗文は江陵に帰ってきてから、まるで人が変わってしまったかのように静かになってしまったのだ。
「麗文、ここにご飯置いておくね」
「……」
宁麗文は寝台に座って無名の戸を背にしたまま何も言わない。もう何日も経っていて変わらない反応なので、青鈴も不本意ながらも慣れきってしまった。
彼の飯を卓に置いた青鈴は何度も彼をちらちらと見ながら部屋を立ち去って、無名の戸を閉めて小さく息を吐く。
(どうしてあんな風になっちゃったんだろう)
青鈴は下唇を噛んで眉を顰める。一盞茶ほどすれば、彼女の手料理が好物の宁麗文のことなのだから、きっと完食するだろう。気が滅入りそうになった心に頭を振って足を進めて行く。下を向きながら四つ目の部屋の前を通ったところで視界に映った足に見上げると、目の前にいたのは宁雲嵐だった。
「兄さん」
「青鈴。麗文の様子はどうだ?」
青鈴は眉を顰めて首を横に振る。宁雲嵐は視線をやや斜め上に向けて長い息をついた。
「帰ってきてからもう何日も経ってる。衣食住はできても会話はできなきゃただの廃人だろうな」
「言い過ぎよ。麗文はなんでああなったの?」
視線を元に戻した宁雲嵐は踵を返す。
「こっち来い」
青鈴も頷いて義兄に着いて滅法へ向かう。先に彼女を部屋に迎えた宁雲嵐は後ろ手で戸を閉めた。二人は卓を挟んで、青鈴は正座に、宁雲嵐はあぐらをかいて座る。
「あいつはな。桂城唐氏からの任務で、ある町の復興に携わっていたんだ。餓蝗とかいう魔……害虫が荒らしてくるもんで、まずは住民たちの生活を確保してから殲滅任務に行った。けど、最悪なことにその町の中に犯人がいたんだ」
「そう……でも、犯人がいたからどうしたの? 倒したは倒したんでしょ?」
「俺が倒した。だがな、麗文と唐秀英殿が仲良くしていた子が二人いて。片方が片方を殺してしまったんだと」
「殺してしまった」という言葉に青鈴は息を詰まらせる。それは詳細を知っている宁麗文からでないと分からないことだが、おそらく彼はその現実を見たくないのだろう。
「あのあとは桂城唐氏が上手くやるんだと。それで俺と麗文だけ馬車に乗って帰ってきた。……あいつ、目の前で人が死ぬのを見たのは初めてだったんだろうな」
宁雲嵐は卓に肘を立て掌に顎を乗せる。青鈴は顔を俯かせたままで何も言えなかった。そのまましばらく沈黙が続き、外には何も知らない鳥が鳴いている。
たとえ誰かが死にそうなほどに苦しんでいても、世界はまわり続ける。誰が生まれていても死んでいても、そこで世界は終わらない。それを宁雲嵐は知っていて、宁麗文は知らなかった。たったそれだけだったが、宁麗文にとっては何もかもが初めてで、真夜中の桂城で目の前で人が傷つかれ死ぬ光景を見て、最悪の衝撃を受けてしまったのだろう。
ずっと俯いていた青鈴は急に顔を上げて卓を叩くように両手を置いてから立ち上がる。急な大音に掌に乗せていた宁雲嵐の薄茶が丸くなって彼女を見上げる。どうしたもんだと声を掛ける前に青鈴が席から離れて戸へ向かった。
「こんな時は外に連れてく!」
「は?」
あまりにも予想のできなかった言葉に目を点にして、口もあんぐりと開いてしまう。我に返った宁雲嵐は慌てて頭を振って呆れ混じりに片側の口元を小刻みに動かす。
「いや、あいつが行くとは限らんだろ」
「行く行かないじゃなくて行かせるの。じゃないといつまで経ってもあのままよ? 兄さんはそれでもいいの?」
意思を決めた青鈴が先に部屋へ出るのを見る宁雲嵐も、仕方なしに頭を掻いて彼女に続くように部屋を出た。
風は聞こえない。飯の匂いなど感じない。静かすぎる無名の中で、宁麗文は考えていた。
──もし自分が他の誰よりも強かったなら。もし自分が他の誰よりも行動ができたなら。
そう思うのは先日のあの二人のことだ。紅花は可馨を殺してしまい、可馨は紅花に殺されてしまった。故意ではない、不本意でなってしまった結果だった。あれから数日過ぎたが、宁麗文はただただ生きる生活のみを過ごしていて、家族や門弟、家僕の誰とも話をしなかった。自分で最低で怠惰な人間だと思い、そして本当にそうなっていた。
(あの時、私が先に紅花さんの手を払っていたら……)
今となってはもう叶わない。実際に起こってしまったのだから、どう足掻いても過去は変えられない。
胸の中の溜息を長く吐いて背後にある青鈴が置いていった食事を見る。どれだけ考えて過ごしていても腹は減る。減ってしまえば飯を食べて生きねばならない。これはどんなに怠惰に生きている人間でも、与えられた使命なのだ。
宁麗文はぼんやりとした頭のまま寝台から降りて卓につく。湯匙を持って汁物に手をつけても手が震えているからか上手く口元に運べない。一日一日と心が衰弱していくのが目に見えていた。
「……」
開けていた小さな口を閉じてまた開く。宁麗文は湯匙を持つ手に力を入れて無理やり口の中に汁物を突っ込んだ。
「麗文!」
突然、外から思いきり戸の開く音と青鈴の声が飛び込む。宁麗文は思わず噴き出して湯匙に入っていた汁物を卓に零してしまった。
「ほら出かけるわよ。あたしの買い物に着いてきなさい」
ずかずかと部屋に入ってきた青鈴は彼の持っている湯匙を卓に置いて腕を引っ張る。唖然としていた宁麗文はただただ口元から汁物を零しながら目を点にしていた。青鈴は自分の服の裾で彼の口元を拭ってまた腕を引っ張る。
「重い! さっさと立って。いつまで引っ張らせるつもり?」
「ち……青鈴、そんなこと言われても、私は……」
宁麗文がようやく重たい口を開いたと思えば、飛び出たのは聞いている方が鬱陶しくなるほどの弱音だった。それを聞いた青鈴は目を釣り上げた。
「いいから立ちなさい!![#「!!」は縦中横]」
彼女の怒号は邸宅中の鳥が全て羽ばたくほどに響いた。
身なりを整えられて渋々邸宅を出た宁麗文は、久しぶりに直接浴びた日光に目眩がした。青鈴に手を引かれ、宁雲嵐に背中を押されながら青天郷へ出向き、ただただ歩く。周りの人々は三人を見て「宁の若様」「宁二の若様」「青鈴様」と声を掛ける。それに慣れている青鈴と宁雲嵐は手を振ったり会釈をするが、宁麗文だけは暗い顔をしたままだった。
「おい、いい加減立ち直れって。どれだけ経ったと思ってる?」
「……分からない」
「しょうがない弟だな!」
宁雲嵐は弟の肩に腕をまわす手で彼の頬を軽く抓りながら呆れていた。
「ほら麗文、あんたの好きなでんでん太鼓よ。買ってあげようか?」
「いや、私はそんな歳じゃない……ってこら、買うな! お金の無駄遣いをするんじゃない!」
青鈴が本気ででんでん太鼓のある屋台へ行こうとするのを宁麗文は慌てて繋がれた手を引っ張って止める。不満げに頬を膨らませる青鈴は次に顔を違う場所に向けるとお面を見つける。そのまま彼を引っ張ってお面屋台へ向かった。宁麗文は兄に首を巻かれ、そして義妹に手を引っ張られるという、周りから見てなんとも情けない姿になっていたが、特に何も気にできなかった。
「ほら、このお面なんかいいんじゃない?」
青鈴が取ったのは白色の肌に赤でまるで鬼のように描かれている面だった。なんとも言えない面を見たことがない宁麗文は首をぎこちなく横に振る。
「え、遠慮しとくよ……」
「じゃあ麗文は何が欲しい? お兄ちゃんが買ってやるよ」
「兄上……今更お兄ちゃんとか言わないでくれよ。ていうかそれ、久しぶりに聞いたな」
宁雲嵐は片眉を上げながら弟から腕を離してまた背中を叩く。宁麗文は今日で何回背中を叩かれたのだろうとやや痛む背中を気にしていた。だが青鈴と宁雲嵐の手の温もりは彼をどこか励ましているように感じていた。
宁麗文は進めば進むほどに顔色が明るくなり、そして俯きがちだった顔も次第に前へと向いていく。
(こんなので元気になるって。とんだバカだな)
心の中で自身に呆れ笑いを浮かべていながらも、それでも嫌な心地にはならない。二人のお陰で宁麗文の気持ちは少しずついつもの調子へと戻っていく。
「饅頭あるぞ。買ってやろうか? あ、でも飯食ってたんだよな? いらないか」
「いるよ。汁物を一口飲んだだけなんだ、お腹が減りすぎて死にそうだ」
宁雲嵐は片方の口元を上げて弟から離れ、屋台主から饅頭を買う。戻って手に持っている饅頭を彼の口に押し込む。「むぐ」やら「んぐ」 と言葉にならない声を喉から出しながらも一口食べて手に持ち返す。温かい饅頭は宁麗文の胸と胃を温めていく。
「……ありがとう」
「おう。青鈴にも買おうか?」
「あたしはいいわ。麗文に突っ込んでおけばいいんじゃない?」
「ちょっと。そういうのやめてくれよ」
宁麗文は饅頭を食べながら義妹を睨む。
「冗談よ」
目を弧に描く青鈴はまた義兄の手を繋ぎ直した。
しばらくは青天郷の中を歩きまわって、そのうちの誰かが休憩したくなった頃に酒屋へ行く。全員酒を飲むわけではないが、青鈴と宁雲嵐は宁麗文の調子を元に戻すために連れていったのだ。
店員に案内された卓を囲んで宁雲嵐が適当に注文する。その間の宁麗文は周りをきょろきょろと落ち着かない様子で何かを探していた。
「どうしたの? 何か探してる?」
青鈴から掛かった声に我に返って頬を指で掻く。
「……なんでもない」
実は、酒場へ入った時からの宁麗文は閉関中であろう肖子涵を探していた。半年も経っていて、未だに連絡も来ていない。執着心の強い宁麗文にとっては心配以外の感情が持てなかった。
(……いつになったら開関するのかな。もう半年も経ってる。洛陽に行きたくても結局は行かせてもらえなかったし……)
ダメだと思ってしまってもその度に心の中で自分をぐさりぐさりと攻撃してしまう。その度に宁麗文は心の中で泣いていた。考えても仕方がないというのに、どうしても考えてしまうのがこの宁麗文という男なのだ。
「……ねえ、青鈴、兄上」
「どうした?」
宁雲嵐が返して、青鈴は首を傾げる。宁麗文は二人を前にして肩を窄めてやや俯きがちになる。
「私って……そんなにしつこい奴なのかな……」
その言葉に二人は唖然とした。いや、呆れ果てた、が正しいだろう。とにかく、二人は彼の言葉を聞いて絶句していた。その話の主語がなくとも『肖子涵』だということにも気付いたのだ。
「はあ、今更そんなこと言われてもな。お前が先生にどれだけ喚きながら引き留めてたのか覚えてるのか? あの時だって皆お前を落ち着かせるのに必死だったし、先生が本当に帰った時はずっと引き籠ってたろ。引き止めてた時の言葉覚えてるか? 『帰らないでもっといて』って言ってたろ。そりゃあ肖子涵殿にもしつこく一緒にいたがるわけだ」
宁雲嵐は両手を広げ、掌を上に向けて肩をわざとすくめて頭を振る。やれやれといった表情を浮かべては弟に呆れ果てていた。宁麗文は彼の言葉にまた心の中で棘が刺さってまた俯いて卓に突っ伏す。青鈴は卓に突っ伏して泣きかけている彼の肩を叩きながら「兄さんの言ってることも分かるけど」と口を開く。
「でも麗文の気持ちも分かるわ。だって、肖子涵さんが初めての友だちでしょ? 急に閉関しただなんて、そんなの心配するに決まってるわよ」
青鈴の言葉に顔を勢いよく上げた宁麗文は涙目で彼女を見上げていた。その表情はまるで「青鈴、君って人はよく分かってるな!」と言っているようで、青鈴は彼の書いてある表情に苦笑うしかできなかった。
その頃に料理が届いた宁雲嵐は弟へと多く分ける。青鈴も彼に続いて甘味を多く分けた。宁麗文は二人の行動に戸惑ってそれぞれ顔を見る。
「食べろ」
「食べなさい」
飯を返すな、と言わんばかりに押しつけられてしまうもので、宁麗文は固唾を飲んで蒸した野菜から食べていく。徐々に湧き上がってくる食欲に抗えずに食べ進めていて、宁雲嵐と青鈴はそれぞれ口端を上げて自分の飯を食べていった。
大体の皿が空になったところで宁雲嵐が小さく声を漏らす。
「そういや、また依頼が来たんだ」
それに青鈴が顔を上げる。
「依頼? 兄さん、昨日までゆっくり休んでたのに。今度はなんのお仕事なの?」
「いや、単なる怨詛浄化だよ。凶鶏の件から爆発的にいろんな邪祟が現れて……麗文も言ってた餓蝗もだが、それ以外にも結構被害が出てるんだと」
宁麗文は「餓蝗」という言葉を聞いてまた顔を俯かせる。頭の中にまだあり日の惨状を思い出してしまって食べる手を止めてしまった。
「それでだ」
宁雲嵐は彼の肩に手を置いて数回叩く。
「お前も来いよ。少しでも経験ぐらい重ねなきゃ、いざって時に行動できないだろ」
「えっ?」
宁麗文は予想もしなかった言葉に顔を上げる。目を丸くしながら兄を見る。宁雲嵐は片眉を上げて彼の肩から背中へと手を移して幾度も軽く叩いた。
「いつまでもそんなに拗ねてないで、俺と依頼を引き受けてくれよ。その方が俺にとって助かるし、お前も経験を重ねられる。一石二鳥ってわけだ」
宁雲嵐は豪快に笑いながら宁麗文の背中をバンバンと叩く。流石に叩かれすぎてせっかく食べた飯を吐きそうになる宁麗文は涙目で睨みつけた。
「叩くな!![#「!!」は縦中横]」
その後から宁麗文は宁雲嵐に着いて様々な依頼を引き受けながら各地を飛び回っていた。世長会でも来るもの拒まずで宁雲嵐は全てに笑顔で引き受ける。宁麗文はと言うと、やはり他世家の次期宗主たちと同じような死んだ目を浮かべてはいたが、自分の成長のためだと割り切った。といってもそれぞれの世家の辺鄙な場所だったり、単なる飼っている犬や猫探しだったりも含めてだが……。
しかし、江陵と桂城しか行ったことのない宁麗文にとっては何もかもが目新しく、どんな仕事でも要領よくこなしていた。その度に金を稼ぎ、たまに宁雲嵐と青鈴との三人で青天郷に行ったりとしていた。
そして、実に三年ほどの時が流れた。宁麗文はこの時二十一になり、成人の儀を終えた一年後だった。その頃には既に各世家に秋都漢氏が建てた壁が全て並んでいた。
ある日、宁麗文が無名で報告書を作成していたところに脳内に懐かしい声が響く。
──お久しぶりです。今、江陵にいるのですが、会えますか? 青鈴さんと阿瑾といた茶屋で待っています。
「唐公子……!」
唐秀英は宁兄弟と別れて以来、再度任務に遂行していてしばらくは世長会に顔を出さなかった。唐暁明のみの出席で宁浩然から理由をしつこく聞かれたが「息子は任務に行っている」の一点張りだった。
それが今、宁麗文に伝達術を使って久しぶりに声を聞かせたのだ。書いていた筆を置いて新しく見繕った外套を羽織って祓邪を佩く。無名から出て廊下を歩き、門へ向かっていると曲がり角で青鈴とぶつかりそうになった。
「あっ、びっくりした。どうしたの?」
「ごめん、私もびっくりした。さっき唐公子から連絡があって。今から会いに行ってくる」
彼女は瞬きをしてから口を開けたと同時に慌てて彼に道を譲った。
「ありがとう」
譲られた道を通って廊下を走る宁麗文に青鈴も背中を見送る。
「気をつけて行きなさいよ!」
彼女の声は届いたかは不明だ。しかし、青鈴は宁麗文へ声を掛けた。
走って青天郷を通って茶屋へ着く。肩を上下に揺らした息を整えようと深呼吸を数回して外套をちゃんと正してから入店する。中には奥の方に唐秀英が座っていた。
「宁公子!」
自分へと手を振る彼に宁麗文は口元を緩ませながら共に卓を囲む。
「お久しぶりです。急に呼び出したりしてすみません」
「いえ、とんでもない。ちょうど報告書を書き終えたところだったので暇だったんです」
報告書はまだ途中ではあるが、唐秀英が自分を呼ぶというのは何かがあったのだろう。宁麗文は自分の仕事を放って仲間と会う事項を優先したのだ。
「それで、何かあったんですか?」
宁麗文からの問いに唐秀英は微笑む。
「世長会には報告をしていなかったと思いますが、三年前の餓蝗の件は覚えておいでですか?」
「……はい」
脳裏に焼きついているのは餓蝗を蓄えこんでいた、死んだ敏の皮を被った妖の『四蝗王』だ。そして依代とされた敏を深く憎んでいた紅花と不本意にも彼女に殺されてしまった可馨の死に顔。
初めて外に出た宁麗文にとってはかなりの衝撃だった。「救えなかった」という自責の念に押し潰されてばかりで、とうの昔に皆で汗を流しながら町の復興をしていたことすら思い出せなかったままだった。唐秀英は彼の顰めた眉に微苦笑を浮かべるしかなかった。
「そのあと、ちゃんと男性たちは戻ってこられました」
唐秀英は茶を一口飲んで喉を潤す。
「彼らには外傷がなく、ちゃんとした食事も与えられていました。おそらくですが、敏さん──いえ、成りすました魔が彼を操っているのを他の町の住民たちがどこかで気付いたのでしょう。口論をしていた、というのは紅花さんから見てそう見えただけで、実際は彼女の父親と彼らは魔をどう捕らえるかを話し合っていたそうです」
まだ成熟しきっていない少女が遠目から見た情報だけで物事を婉曲してしまうのは仕方がないのかもしれない。しかもそれが、愛する父と名も顔も知らない男たちと共にいるのなら尚更だ。
宁麗文は話を聞いて不可解な疑問を抱いた。どこかが食い違っているような感覚がして上手く噛み合わない。
「でも、紅花さんは目の前で父親が殴られて連れ去られたって言ってましたよね? そうなると彼らの証言は食い違いがあると思いますが」
唐秀英は茶をまた一口飲んでから首を横に振った。
「それは彼女の言う通りです。彼らもそれを証言しており、ただ一つ違うのは『殴られて気絶する』という演技をしただけなのです」
「演技?」
「はい。ですが、当たりどころが悪かったのでしょう……彼は卓の角に脇腹を強打してしまい、数日後に内臓破裂で亡くなってしまってしまいました」
彼女の父親はかなり勇気のいる行動に出たのだろう。話し合いの時に他の住民に頼み、彼はその通りに実行した。そして男の住民たちは次々と消えていき、最終的には長である敏と女子供となったのだ。
しかし、なぜ女子供だけが残されたのだろう? 敏の中にいる妖を浄化するには、彼を一人にするしかない。もしかして、と宁麗文は考え、いけないことだと頭を振る。
次に、宁麗文と宁雲嵐しか知らないであろう、四蝗王の巣を説明しなければならない。唐秀英は餓蝗を住民から守り抜くのに必死だったので変わり果てた敏の状態を知らないのだ。
「唐公子。ひとつよろしいですか? 今回の餓蝗ですが、巣が見つかりました」
目を見開いた唐秀英の手がまだ茶の残っている茶器に当たってしまった。幸いにもぬるくなっていて火傷を負うことはしなかったが、それを気に留めることもなく唾を飲む。宁麗文の眉がまた少し顰めて俯きかけた顔を上げる。
「巣……というのも、敏さんの脳にありました。実際に見たのですが、敏さんは死後硬直していてまともに動けなかった。しかし、魔……いえ、『四蝗王』と呼ばれる妖によって無理やり動かされ、そして彼女たちに危害を加えた。結局は兄上が対処してくださいましたが、おそらく以前から他の依代に寄生していたのでしょう。そして対象が使いものにならなければまた他の使える依代に寄生して……餓蝗の大量発生も四蝗王の仕業だと思われます」
あまりにもおぞましい想像をしてしまったからだろう、唐秀英の顔が段々と青ざめて恐怖で背中をぶるりと震わせてしまう。宁麗文は青い彼を見て瞼を伏せて小さく息を吐いた。
(あの時、私じゃなくて唐公子だったらどうなってたんだろう。この人は一人息子で私みたいに兄上がいない。下手したら彼が次の依代として生きてたかもしれない……)
「脳、ですか……凶鶏の捕食部分も大部分は脳でしたね。人間も食べていましたけど……」
ぽつりと呟く震え声に宁麗文も思い出した。
凶鶏は知識を得るために人間の頭部を、それも脳を捕食していた。今回の四蝗王は使役する餓蝗で町を襲撃させ、飢えた人々を喰らい尽くし、まだ若くて力のある人間の脳を喰らって傀儡として操っていた。邪祟は生きとし生けるもの全ての脳を、それも人間の脳をある種の珍味と認識しているのだろうか?
「人間の脳ってそんなに美味しいんですかね?」
「……は?」
無意識に出た宁麗文の一言に、青ざめていた顔が別の意味で青くなる。唐秀英の聞いたことのない反応に見上げれば、頬をぴくぴくと動かして半ば、いや、かなり引いた様子で自分を見ていた。
「……今、なんと言いました?」
「え?」
唐秀英は掛かってしまった茶を手拭いで拭ってから落ち着こうと茶器を持ち上げる。しかし宁麗文の発言に呆れと恐怖を抱いていたもので、また手を震わせて茶を零してしまう。宁麗文はそれでも自分の発言に記憶がなく首を傾げるばかりだ。
「宁……宁公子は、人肉に興味がおありで?」
「は!?[#「!?」は縦中横]」
(そんなこと言ったのか私は!?[#「!?」は縦中横])
宁麗文の反応で唐秀英はこの時、心の中で「この人何も考えないまま生きてるのか?」と呆れすらも感じていた。とにかく、無意識に言ってしまうのだから、幾度も記した通り、宁麗文は|そ《﹅》|う《﹅》|い《﹅》|う《﹅》|男《﹅》なのだ。
「いやいやいや、違います違います違います! 単なる疑問なだけで、決っっして人肉が食べたいなんてこれっぽっちも考えてないです!」
宁麗文は思いきり手を横に振って必死に否定する。しかしまだ夏にもなっていないというのに、この青年二人は汗を、それも冷や汗をダラダラと流していた。
(なっ……なななななんで、なんでそんな変なことを言ったんだ私は!?[#「!?」は縦中横] 人の肉を食べたいなんてそんなバカげたこと思うわけないだろ!)
あまりにも混乱してしまったのか、宁麗文の手が茶器を掴んだと同時に勢い余って温いまま自分の顔に水の音を立てながら掛けてしまった。唐秀英は彼の突飛な行動に、宁麗文は自分の動揺しすぎた行動に時が止まったかのように固まってしまう。更には聞くこともない音に見た客が客を呼んだように次々と目を茶で滴らせた男へ向ける。それは無論、店員もであって、ぽかんと口を開けながら何も乗せていない盆を落としてしまった。
長いと錯覚させた体感を経た宁麗文は我に返って、そして顔を青くしたり赤くしたりと忙しないまま両手で卓を殴るように叩いて唐秀英を含んだ来客や店員に目を向けずに走り去った。
濡れた顔と髪と服を風で乾かしながら青天郷を駆け巡る。周りは普段見ることのない宁氏の者に目を丸くしたり点にしたりと様々な反応を見せながら目を向けている。それに気付かない宁麗文は頭の中で失言をしてしまった反省と後悔の念に押されていて、考えれば考えるほどに叫びたくなる衝動に駆られていた。しかし、ここで叫びまくって走ってしまっては江陵宁氏としての品位がだだ下がりになる。それだけはごめんこうむりたい。とにかく、彼はどこに向かうかも考えずにひたすらに走っていた。
息を酷く切らしてから近くにある木に手をついて肩を上下に揺らす。見上げると鬱蒼とした木々が生い茂った場所が目の前にあった。気が付けば青天郷を抜けて埜湖森の前まで来ていたようだった。
(いつの間に。随分久しぶりに来た気がする)
そういえばここには立ち入り禁止区域があった。そしてそこには誰も入れぬように陣を張っていた。宁麗文は木から手を離すが何も反応はなく、首を傾げながら進んでいく。何事もなかったかのような静けさが辺りを包み、たまに風が来て葉の擦れる音が響き渡るだけだった。所々霊力を感じるのは張られている陣の恩恵だろう。歩を進めながら木の幹に次々と触っていくが、やはり何も起こらない。
(もしかして、既に誰かが陣を破ったとか? いや、私たちのように修位がある人じゃないと進めないと思うんだけど……)
ふと立ち止まって辺りを見回す。前に肖子涵と来た場所ではないが、やや広く間が空いている。空から漏れる陽の光は宁麗文のいる場所をよく照らしていた。
まだ日も沈んでいない時刻なのに薄ら寒く感じて足早に来た道を辿って行く。もういないとは思うがもしここで凶鶏に出くわしてしまったらと考えてしまうと背筋がゾッと寒くなる。木を触っていた場所を辿っていくが、そろそろ怖くなってきたのか、雑草の生えている場所にも飛び込んで無理やり外へ出る。最後の木を避けて一歩踏み出すと、少し離れた時間で追いかけてきていたであろう唐秀英と鉢合わせて、互いに止まれずにぶつかってしまう。
「っだ!」
「うっ!」
勢いよくぶつかってしまった宁麗文は雑草の上に倒れ、唐秀英は道の上に尻もちをつく。唐秀英はちぎれた雑草にまみれてボサボサになってしまった彼を慌てて引き上げる。
「だ、大丈夫ですか?」
顔や髪、そして身体は濡れたままだわ、唐秀英とぶつかって雑草の上に倒れて挙句の果てにはもみくちゃになってしまうわ、宁麗文は恥と情けなさで半泣きの状態になっていた。
「うう、すみません……こんな情けない私で……」
「宁公子、見ないうちにヘタレになっちゃったんですか? もう何も気にしてないので戻りましょうよ。さっきのは驚きましたけど、本当に何も気にしてないので!」
唐秀英は彼の手を引きながら青天郷へ戻る。宁麗文は道中で半泣きになりながら服についた葉や土埃を払っていた。唐秀英が途中で小さく声を漏らして一度立ち止まる。
「そういえば、あなたに返すものがあるんでした。宿まで着いてきてくれませんか?」
払ってばかりで俯いていた顔を上げる。
何か返される物があっただろうか?
唐秀英と最後に会ったのは三年前のあの町だったのと、別れ方とそれ以前は度重なる衝撃でほとんど霞んでいた。宁麗文はふたつ返事をして共に彼の宿泊先へと向かった。
目的地に着いた二人は唐秀英の宿泊している部屋へ向かう。唐秀英が戸を開けて備えつけの棚の引き出しを開ける。彼の背中越しに見てみると一つの綺麗な|瓊花《けいか》の刺繍が施されている橙色の囊が入っていた。唐秀英が囊を両手で持って卓に置いて、それの結び目を解く。中には純白に薄緑の輝くような刺繍が施されている、宁麗文のかつての外套が入っていた。
宁麗文はそれを見て過ごした半年の記憶が蘇った。枯れた地で一番最初に見つけたのは可馨で、よく話していたのも可馨、そして目の前で殺されてしまったのも彼女で、宁麗文はせめてもの思いでこの外套で彼女を包んだのだ。
「可馨さんは敏さんとは違う墓で眠っています。そしてそこは町のすぐ側です。そう考案したのは紅花さんでした」
宁麗文は受け取りながら静かに唐秀英の話を聞く。
「紅花さんは男性たちが戻ってきてからは自分の仕事を彼らに託しました。彼女は現在、科挙を合格してうちで働いています」
宁麗文は唐秀英の言葉に目を丸くして思わず声を漏らす。
予想もしなかったことだった。紅花は自分が可馨を殺してしまった後悔の念に苛まれて、町にいられなくなってしまったのだろうか。だとしたら可哀想なことだ、と考えてしまったが、唐秀英の声の調子からしてそうではないようだった。
「もう誰も飢餓に遭わないようにと政策を練っているそうです。四蝗王が消えたのでもう餓蝗は出ないと思うんですが、また別の問題が起こってしまわないようにと。そうそう、あの町なんですが。男性たちが戻ってすぐに再復興しました。元は名前があったんですが、誰も言わなかったので知らなかったんですけど、あのあとは紅花さんが町の名前を新たに決めたんです」
「名前? 何にしたんですか?」
唐秀英は優しく笑う。
「『可馨は杏が好きだから、いつでも杏を見られるように|杏華坊《あんかぼう》にした』と。町を出る前まで可馨さんを想っての名付けだと聞きました」
「杏華坊……」
宁麗文は三年前の、あの半年もの時を目の前に浮かべる。たまに誰かの誕生日を祝いに開かれた宴に確かに杏があった。それを一番多く食べていたのが可馨だった。
そして宁麗文に杏をあげたのも、可馨だった。
(よく食べるなって思ってたけど。……そっか、好きなものだったんだ)
あの渡り鳥が飛んでいた、晴れた日の下。可馨は彼に杏をあげたのは、彼女の幸せを分けたかったからだったのだろう。
(そっか……)
鼻の奥がつん、と熱くなる。目の前が少しぼやけていて、目頭が熱く感じた。唐秀英は彼の潤む薄茶に貶すこともからかうこともせずにただただ微笑む。
「いい名前ですよね」
純白の外套を両手で抱える。見えた白い指が震えていたのは彼女の真意を知った喜びからだった。宁麗文は零れそうな涙をこらえて目を弧に描いて顔を上げる。
「いい名前です」
杏華坊で一等大きい杏の木の下に彼女が眠っている。
風に揺られて流れゆくのは、優しく|馨《かぐわ》しい橙だ。