第三章 晴れの行方
十三 散歩をする男
唐秀英が宁雲嵐に挨拶をしたいと言うので、二人で宁氏の邸宅へ向かう。途中から飛び交う宁麗文への挨拶に愛想笑いや会釈を返す彼に、唐秀英は目を丸くしていながらもすぐに微笑んだ。
「人気ですね」
「はは……」
宁麗文はただただ愛想笑いを浮かべるしかない。元からの気質で派手なものや目立つようなことはしたくないのだ。しかしそれを唐秀英に告げる勇気がないので、こうやって愛想笑いで返すしか方法がなかった。
これをなんとも思わず通り過ぎる宁雲嵐と青鈴が羨ましいとも思う。同時に「自分はなんて心が狭い人間なんだ」と顔を両手で覆いたくなるほどに悲しくなった。
青天郷を通って奥にそびえる宁氏の邸宅へ着く。門を開ければすぐ近くに家僕が水を運んでいるのを見つけたので、宁雲嵐の行き先を聞いた。彼は滅法にいるとのことで、きっと山ほどある報告書を書いているのだろうと憂いながら廊下を進む。
廊下の曲がり角でまた青鈴とばったり出くわした。宁麗文が家を出たあとに買い物に行っていたのだろう、小さな身体で籠を持っていて、中には新鮮な野菜が入っていた。
「唐秀英さん」
「青鈴さん。お久しぶりです」
唐秀英は彼女に手を合わせて、青鈴もまた籠を床に置いてから返す。
「何か用事でもあったの?」
再び籠を持つ青鈴に宁麗文が頷く。
「兄上に挨拶しに行きたいんだって」
「そうなんだ」
「それより、その野菜ってどこで買ったの?」
唐秀英も籠の中身を見てぱっと顔を明るくする。急に輝くような笑顔に宁麗文も青鈴も眩しく感じて目を細めた。
「うちの野菜じゃありませんか! どこにお店があったんですか?」
「せ、青天郷の広場の近くにありましたよ。というか、よく桂城の野菜だって分かりましたね?」
唐秀英はにっこりと笑いながら彼女の手ごと籠を掴む。急に掴まれた青鈴は籠を落としそうになり、宁麗文は目玉が飛び出そうなほどに面食らう。
「そりゃあ分かりますとも! だってこの皺ひとつない艶! それに滑らかな曲線! うちの野菜はいい肥料をふんだんに使っているので、余計なものが一切つかないんです!![#「!!」は縦中横]」
興奮しきっている彼に宁麗文が肩を軽く叩く。その表情は微苦笑を浮かべていて、唐秀英は輝かせている眼のまま彼を見上げる。
「あの、申し訳ないんですけど……」
「はい?」
「青鈴が困ってるので……」
「えっ? ……あっ!?[#「!?」は縦中横]」
宁麗文に言われて自分の手を見て、初めて自分の行動に顔を赤くしながら慌てて手を離す。青鈴も義兄と同じように困りながら笑うしかない。
「申し訳ございません……」
赤くなった顔を両手で覆ってか細い声で謝罪を述べる。青鈴は宁麗文に耳打ちをするように身体を寄せた。
「ねえ麗文。もしかしてこの人って、生粋の野菜好きなの?」
彼女からの問いに薄笑いを返す他ないだろう。
半年間の唐秀英はそれはそれは、野菜を実らせることに必死だったし、蕾を見れば「命が生まれた!」だの、葉が伸びれば「大きくなってきた!」だの、紅花や可馨たちよりも大いに喜んでいた。もちろんそれはありがたいことなのだけれど、あまりにも喜びすぎて宁麗文含め全員がドン引きしていた。唐秀英は生粋の野菜好きというか、野菜が大好きすぎてむしろ変態に近い人間なのだ。
宁麗文が言葉に迷っていると、青鈴が微苦笑を浮かべる。
「まあ、あとで聞くわ」
「うん……」
適切な言葉を出せなかった宁麗文はしょげた表情を浮かべながら二人から一歩退く。青鈴は置いていた籠を持ち上げて唐秀英へと顔を上げる。
「阿瑾はお元気ですか?」
顔を覆っていた手を離す彼は恥でまだ顔を赤く染めていて半泣き状態でいた。
(まだ後悔してるのかよ……)
宁麗文は口に出すことなく、次に唐秀英へ薄笑いを浮かべていた。
「元気です。あの子はあのままうちの門弟になりました」
「そうなんですか。三年も経てばきっとすごく成長してそうですね」
唐秀英は顔が赤いままだったが、それも切り替えて口と目を弧に描いた。
「はい、すごく成長してます」
そして途中まで歩いた先の曲がり角で青鈴と別れて、次は滅法へ目指す。唐秀英は宁雲嵐の部屋の場所を知らない。いつもは客間のみだったので、彼にとっては初めての訪問となるだろう。宁麗文が少し考えていると上の看板に『滅法』と書かれている部屋に着いた。
「兄上」
宁麗文は戸に手の甲で数回叩いて呼びかける。少しの床の|軋《きし》みと戸に手を掛けたのだろう、中に目的の人物が入っているのが分かった。そして、彼によってその戸が開かれ、中にいたのはやはり宁雲嵐だった。彼は弟を目にしたあとに思わぬ訪問に目を丸くする。
「唐秀英殿? どうしてここに来たんだ?」
唐秀英は宁雲嵐へ手を仰ぐ。
「お久しぶりです、宁雲嵐さん。しばらく欠席してしまってすみません」
唐秀英は苦笑を浮かべて腕を下ろす。先に宁麗文が、続いて唐秀英が入る。宁麗文が戸を閉めて卓へと二人で移動して、宁雲嵐と卓を挟んだ。
「それで、何か用があったんだろ?」
唐秀英が頷く。
「はい、再度復興の完遂を。それと、宁雲嵐さんに聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと? なんだ?」
宁雲嵐の片眉が上がる。宁麗文も何かと唐秀英に顔を向けた。
「あなたは四蝗王を倒したあとに、敏さんの姿を見ましたか?」
宁麗文の目が丸くなった。
──もしかして、敏の死体は見つからなかったのか?
倒したのは宁雲嵐なのだから、彼から話を聞かないと分からないのだろう。兄の顔を見れば腕を組んで口を開くのを見る。
「消えたよ。綺麗さっぱりな。元々脳の中に餓蝗がびっしり詰まってたんだから、身体中にも蝕まれていたんだよ。そりゃあ皮だけの死体になるし、四蝗王は皮膚もちぎってたんだから全部ぱぁになるってわけだ」
「そんな……」
唐秀英は顔を真っ青に染め上げて俯いて膝の上に乗せていた拳を震わせる。
彼の思いは痛いほどに分かる。四蝗王に寄生されたと言っても元は人間であり、苑の言う通りに優しい性格だっただろう。四蝗王は二十年ほど敏の中に潜んでいたと告白していたので、その時期の紅花の「父親と口論をしていた」という証言は正しいと言える。なぜなら当時の彼女はまだ二十にも満たなかった年齢なのだから。
「あんたの気持ちはよく分かる。だが、これが事実なんだ。どこに行ってもあの爺さんの死体は見つからない」
「……そう、ですよね。教えていただき、ありがとうございます」
唐秀英は顔を俯かせたまま礼を述べる。その様子に宁麗文も宁雲嵐も瞼を伏せるしかなかった。
唐秀英はそのあと、宿に戻ると言って宁氏の邸宅から出た。門まで見送った宁麗文は無名に戻って途中だった報告書をまとめて書き上げる。最後の一文字を書いたところで戸を叩く音が聞こえ、外から自分の名前を呼ぶ男の声が聞こえた。
「父上?」
戸を開けて入ってきた宁浩然は目を点にしている宁麗文と挟んだ卓の前で片膝を立てる。
「報告書は終わったのか」
「あ、はい。たった今終わりました。今から父上に渡そうと思って」
「そうか」
宁麗文は報告書の巻物を丁寧にくるんで彼に渡す。報告書を受け取った宁浩然が微笑むのを見た宁麗文は目を点にした。
「あの……どうかしましたか?」
「いや。なんでもないよ。それより阿麗、お前はよく頑張っているな」
「え、あ、はい……?」
急な褒めにも動揺して思わずだらしのない返事をする。口には出さなかったが「本当に何をしに来たんだこの人は?」と父親に対して失礼なことを考えていた。
報告書を受け取った宁浩然は立ち上がって無名の戸を開ける。廊下に出る直前にゆっくりと息子へと顔を向けた。
「次の世長会では桂城での任務を報告してもらう」
宁麗文の薄茶の双眸が丸くなる。
──なぜ自分が報告をしなければならないのか?
思い当たる理由が見つからずに困惑した頭で思いきり立ち上がる。宁浩然の目は息子を捉えていた。
「な、なぜ桂城唐氏の任務のことを? もう三年も前の話ですよ?」
「餓蝗というのはうちでは新しい魔になる。……いや、王は妖だったか」
宁浩然は笑みを浮かべることなく淡々とした佇まいだ。この男の考えはよく分からない。宁麗文はただただ眉を顰めるばかりだ。
「だとしても……それを報告するのは桂城唐氏ですよ。うちには関係ないですよね?」
「阿麗」
父の低い声が息子を制す。宁麗文は肩を震わせて思わず口を噤んだ。
「それまでに、内容を考えておくように」
宁浩然は冷たく言い放って、彼を睨みつけるかのような冷たい目つきで見て、そして無名から出ていった。
報告書が終えた宁麗文は再び青天郷を歩く。ぼんやりとしたまま歩いて、たまに甘味のある店を見ては買って食べていた。
(なんで急に杏華坊のことを? あれは唐公子が報告するべきなのに。……でも、三年前からここ最近まではそんな余裕もなかっただろうな。いや、それでもありえないって)
宁麗文は長い息をついて山査子飴の最後の一欠片を頬張る。ガリゴリと歯で飴を咀嚼して食べ終えた棒を持っていると、視認できる範囲から他の住民とは違った服を着ている、他よりも高い身長を持つ男が見えた。
その人物は腰までの黒髪を三つ編みにしていて、少し浅黒い肌を持っている。綺麗に整えられている眉はこの町を楽しげに上げていて、深い青の双眸は宁麗文より細くややつり目だ。耳下から顎にかけての曲線は急でそれに加え鼻筋も細くて高い。眉目秀麗という言葉がよく当てはまるだろう。体躯もよく、きっちりと着こなしている服のお陰でよりよく見える。
その男の左手には剣を、右手には食べかけているであろう半分ほどの饅頭を持っていて、歩きながらそれを食べている。あちらこちらに視線を投げ、たまにうら若き少女と目が合えば片目を閉じて返す、という遊び人のような行為を繰り返していた。
(げっ、もしかして……)
宁麗文はある一種の危機を感じて扇子を取り出そうとしたがそれもやめ、こそこそと道行く人に紛れながら彼の死角になるような場所へと移動する。
しかし、宁麗文は他の住民よりも高貴な雰囲気をまとっている。それが災いとなったのだろう、たまたま横を通った男が彼の食い終わった棒を持つ手首をしっかりと掴んだ。
「おっ、宁麗文じゃん! 世長会ぶりだな!」
はつらつとしたその笑顔で話しかける男に、振り返った宁麗文は頬をぴくぴくと動かした。
「……どうも、|秦《シン》公子」
宁麗文と彼の出会いは約一年前。宁雲嵐と低級邪祟の怨詛浄化の依頼に向かっていて、その道中に邪祟を見つけた。
宁麗文は見つけた邪祟に向かって点火符を投げ、燃えたところで斬りつける。それはかつての肖子涵のやり方だった。それを一度や二度繰り返して札が無くなれば祓邪に霊力を込めて斬り倒していく。宁雲嵐も札を使わずに剣先に霊力を込めて邪祟を斬り倒す。残りの邪祟は次々と森の中へ入っていき、二人はそれを追いかけて浄化した。
「どうだ、麗文。そっちは終わったか?」
「終わったよ。それにしても、結構な数だったな」
宁雲嵐は豪静を鞘に納めて両腕を組みながら近くの木にもたれる。
「どうにもこうにも、最近増え始めててんてこ舞いなんだから仕方ないだろ。まあ、それのお陰でお前の経験も重なるけどな」
「はは……」
宁麗文も祓邪を鞘に納め、燃え上がって灰になった札をじっと見つめてから顔を上げる。
「そろそろ戻った方がいいんじゃないかな。依頼者も心配してるだろうし」
「そうだな」
宁雲嵐は木から離れて弟の元へ一歩踏む。その時、木を背にした彼の背後にゆらりと何かが立ち上がった。
宁麗文の瞳孔が一気に開き、祓邪に手を掛けて宁雲嵐の名前を叫ぶ。宁雲嵐も彼の様子に後ろを振り返る。まだ残っていた邪祟の爪が背を向けた彼へと鋭い爪を振り下ろす!
……かと思われたが、その邪祟は振り下ろす直前に腹を剣で貫かれて塵となって消える。代わりに彼の後ろに立っているのは灰色の服を着ている浅黒い肌をした男だった。
ぽかんと口を開けて目を丸くする宁雲嵐に男は剣を斜めに地面に向ける。
「危なかったな!」
「……あ、あんた、|膳無秦氏《ぜんむシンし》の息子か」
男は剣を鞘に納めて前へ出た三つに編んだ髪を後ろへ流す。
「うん、そうだよ?」
しかし宁兄弟は彼への言葉が何も出ない。
「……え、もしかして俺って認知されてなかった?」
膳無の男は首を傾けて、兄弟は互いに顔を見合わせた。
その後、御剣で森から抜けて河の近くで休む。改めて宁兄弟は彼へ手を仰ぐ。
「さっきはありがとう。あんたがいなかったら死んでたよ」
「いいよいいよ」
にこやかに目を弧に描く男は手を横に振って、そして二人に倣うように手を仰ぐ。
「改めて、俺は膳無秦氏の長男、|秦麗孝《シンリキョウ》だ。世長会以外であんたらとこうやって話すのは初めてだな」
秦麗孝は腕を下ろして剣の柄の先に掌を乗せる。にこにこと笑っているその顔に兄弟は互いに耳を寄せ合う。
「膳無秦氏ってもっと静かな感じじゃなかった? 息子がこんなのなんて聞いてないんだけど」
「俺だって聞いてない。あいつ、ずっと真顔じゃなかったか?」
確かにこの秦麗孝という男は、世長会では何も動くことなく姿勢も正していた。髪も三つ編みにしてはおらず、一つにまとめて高く結上げられていて、一度もこのようなふざけた態度も取っていない。所謂『生真面目』な雰囲気だったのだ。
しかし、今二人の前に立っているこの男はどうか。常に笑顔を絶やさずもの言いも軽い。世長会で見た時とは大違いで、もはや同一人物かと疑わしいほどだ。
「おい、聞こえてんぞお二人さん。俺に対する悪口はやめてくれ」
秦麗孝は腕を組んで眉を顰める。どうやら彼は耳が良く、どんな話も筒抜けになるようだ。
(早く依頼者の元に行かないといけないんだよな……)
宁麗文は呆れ半分悪態半分の薄ら笑いを浮かべながら心の中で愚痴る。
「そういや、なんで秦公子はここにいるんだ? もしかして他に依頼者が頼んだとかか?」
呆れている弟に気付かないまま問いを投げる宁雲嵐に秦麗孝は片眉を上げる。組んでいた腕を離して今度はおどけるように軽く肘を曲げて掌を上に向けた。
「いや、ただの散歩」
「散歩……」
宁麗文がやや呆れた声で繰り返す。ますます世長会での彼との違いがありすぎて、最早そっくりの他人が喋っているのかと思ってしまいそうだ。
「そう、散歩。ずーっと家にいるのも退屈だし、かといって誰からの任務を任されても嫌だ。だから至るところに散歩をしながら見つけた邪祟の浄化をしてるってわけ。こっちの方が気楽でいいぞ」
話を聞いた宁麗文はわけが分からなくなって心の中で頭を抱えながら必死に整理する。
要するに、この秦麗孝という男は何事にも縛られたくなくて、自分で『散歩』へ行ってついでに怨詛浄化をしているという、なんとも奔放な男なのだ。宁麗文は桂城唐氏の宗主である唐暁明を思い出して眉間を揉う。宁雲嵐は弟の肩に肘を掛けて「ふうん」とだけ返す。どうやら宁麗文と同じ感情ではないようだ。
「……私たちは依頼任務を任され、報告をしにすぐに帰らなくてはなりません。なので秦公子とはここでお別れとなります。兄上を助けていただき、ありがとうございました」
宁麗文は兄の肘を退かしながら会釈をして踵を返す。退かされた腕に目を点にした宁雲嵐も秦麗孝を一目見て会釈をしてから続いた。秦麗孝も目を丸くしながら呆然とその場で置いていかれた。
宁麗文を追いかける宁雲嵐は弟を通りすぎて一歩前で止まる。ぴたりと止まった彼の顔を見て呆れたように目元を一度ぴくりと動かす。
「なんて顔してるんだ」
「だってあの人、世長会の時と全然違うんだもん。本当は違う人なんじゃないの?」
宁麗文は眉を顰めて片頬を膨らませる。宁雲嵐は呆れの息を吐いて頭を搔いた。
「あのなあ、麗文。世の中にはああいう奴だっているんだ。皆が皆、一貫して同じ態度なわけないだろ。お前だって俺と青鈴と、父上と母上との態度が違うだろ。そういうことだ」
「だからって……」
宁麗文が続きを言いかけると、ガサッと大きく雑草が揺らぐ音が聞こえた。二人してその方向へ身体を向け剣に手を添える。その音は段々と近付き、遂にそこから何かが飛び出した。
「……は? 猿?」
宁麗文が気の抜けた声を出す。その猿は弱った鳴き声を発しながらどこかへ向かっていく。唖然とした二人はその猿の行き先を見ていくと、また猿のいた雑草からまた音がした。宁麗文は「また来るのか」と剣から手を離したその瞬間、彼の顔に飛び込んだのは猿の形をした邪祟だった!
「うわ!?[#「!?」は縦中横]」
「麗文!?[#「!?」は縦中横]」
宁麗文は尻もちをつき、猿の邪祟を右手で掴んで投げ捨てる。邪祟はすぐに雑草に潜り込んでどこかへ消え去った。くちゃくちゃになった髪をそのままにして勢いよく立ち上がって祓邪を抜く。
「なんなんだ、あのクソ猿!![#「!!」は縦中横]」
宁麗文は目を釣り上げて宁雲嵐の耳が破裂しそうなほどの大声を上げてそのままあとを追う。耳を塞いだ宁雲嵐はすぐに我に返って弟のあとを続いて追った。
宁麗文は怒りを露わにしながら邪祟を追いかけていき、その距離はまさかの二里【一キロメートル】。本来なら息を切らして倒れてしまう距離なのだが、この時の彼は|韋駄天《いだてん》走りの如く森の中を駆け抜けている。それに追いつけなくなった宁雲嵐は息を切らし、仕方なく御剣をして宁麗文を捕まえようと豪静を引き抜いた。
「あのバカ弟! いつか倒れちまうぞ!」
宁雲嵐を肩を上下に揺らしながら豪静に乗って霊力を込めて木々を通り抜ける。そして空へ飛び出して上から宁麗文を探した。しかし、この森は木々が鬱蒼としていて、中々彼を見つけられない。なので宁雲嵐は目を皿にしながら探すしかなかった。
一方その頃、宁麗文は猿の邪祟をしっかりと確認しながら雑草の中を走る。邪祟はかなり奥まで進んでいて、それに伴い雑草の長さも量も多くなって視認ができにくくなる。宁麗文はかなり頭にきながら髪を整えもせずに祓邪を握り締めた。遂に邪祟が立ち止まり、宁麗文も二、三歩を空けて止まる。息を荒らげに荒らげてこめかみに二本の青筋を立てる宁麗文は祓邪をゆっくりと構えた。
「観念しろ、クソ猿……」
祓邪に霊力を込めてゆっくりと近付き、ダンッと一歩踏み出して邪祟目掛けて振り下ろす!
邪祟は瞬く間に光に呑まれ、そして塵へと化した。宁麗文は肩で息をしながら祓邪を鞘に納める。一つ息をすると今度は背後から轟音が鳴った。
「は?」
宁麗文が振り返ると、そこには彼の倍ほどの大きい猿の邪祟が走ってくるではないか!
宁麗文は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、すぐに我に返って青から白へと顔色を変えながらその場からまた走る。すぐに御剣をすればいい話なのに、彼はまたそれを頭の隅に置いて片時も思い出す余裕がなかった。
「なんで! 私! ばっかり! こうなるんだよおおおお!?[#「!?」は縦中横]」
宁麗文は肩からずり落ちる外衣を正さず、そして髪も整えず、全身は汗まみれでとてもいいところ育ちの青年とは言えない姿になっている。しかし、正して整えて汗を拭う余裕がないので仕方がない。宁麗文は度々振り返りながらその猿の邪祟の大きさを見て更に恐れおののく。がむしゃらに走り続けて宁麗文の足に力が入らなくなり、その場で転んでしまった、その瞬間だった。
鬱蒼として薄暗い森の中で一本の閃光が走る。それはまるで雷のようで、真っ直ぐと大きい猿の邪祟を貫いた!
同時に顔から転んだ宁麗文はよろよろと膝を立てて振り返る。髪だけでなく、顔も汗でぐちゃぐちゃになっており、これを宁浩然と深緑が見たら卒倒するであろうほどのあられもない姿へとまた変わっていた。そんな彼の後ろにいたのは、宁麗文を背にして地面に着地した秦麗孝だった。
彼は自分の剣を自由自在に手で回し、残った塵を振ってできた風で払い落として鞘に納める。そして振り返って宁麗文を見下ろす。宁麗文は彼に感謝を述べようと脚に力を入れた、その時だった。
「宁麗文! お前、すっげえ汚ねえぞ! だはははははははは!![#「!!」は縦中横]」
秦麗孝は自分に目をもくれない宁麗文の肩に悪びれもなく腕を回す。
「なあ、あの時はごめんって。お前がやられそうだったから殺っただけなんだって」
「……」
「だからその不機嫌な顔やめてくれよ。なっ、饅頭とかなんか奢るからさ!」
「いりません。触らないでください。離れてください」
「そんな冷たいこと言うなよ!」
秦麗孝は眉を下げて渋々と宁麗文から腕を離して自分の頭の後ろで手を組む。宁麗文は「帰りたい、帰ろう」と足早に青天郷を通るが秦麗孝も彼と同じ歩調で着いていることに気付いて振り返った。
「着いてくるな!」
「なんで?」
「なんでじゃない! こっちが聞きたい!」
「いいじゃん。散歩のついでにお前ん家行っても」
宁麗文は肩を落として顔を仰ぐ。
(この人、また散歩してるのか……)
とめどない呆れにまた踵を返して今度は違う道へと進んだ。秦麗孝も青天郷には来たことがなかったからだろう、首の後ろから腕を離さないまま宁麗文に着いていく。行き先は酒場であり、この夕暮れの時間帯には人だかりが多い。それに加えて今日は講談師も招かれているのだそうだ。宁麗文は行き交う人々の話を耳にしていたので、そこに行ってどさくさに紛れて退散しようとの魂胆でいた。
一炷香もしないうちに酒場へ着き、秦麗孝共々中へ入る。予想通り店内には人で多く賑わっており、中でも大量の酒瓶を転がせてはしゃいでいる男もいる。秦麗孝は興味津々に辺りを見回しており、宁麗文はその隙に人と人の間へ滑り込む。
(ふう、やっと撒けた。なんでここまで着いてくるんだよ、全く……大人しく膳無に帰れよ……)
宁麗文は額に手の甲を擦って今度は出入口に進む。少し進んだところでくんっと服の袖を掴まれた。何かと思って振り返ると、そこには撒いたはずの秦麗孝がいた。
(またかよ!)
「やっと見つけた! 気付いたらいなくなってんだもん、置いてくなよ」
秦麗孝に白い袖を高く引き上げられた宁麗文は片方の口端をひくつかせる。もう一度撒く気力もなし、言い返す気もなしで諦めて空いている卓に彼を連れて行った。
「それで? 散歩にわざわざうちを選んだ理由はあるんですか?」
話を聞いていないのだろうか、秦麗孝は使い回されて古くなった品書きを片手に見る。宁麗文が両手で頭を抱えて呆れている間に顔を上げた。
「理由? あったら今頃こんなとこぶらぶらしてないって。まああんたに再会できたのは僥倖だと思ってるよ。あっ、お姉さん! ちょっといいかな?」
秦麗孝は笑みを絶やさずに近くにいた女の店員に手を上げて声を掛ける。挙手する浅黒い肌に気付いた店員が気付いて二人の元へ向かえば、そこには美男と宁氏の次男坊がいるではないか。眼福と緊張に挟まれた彼女の頬はすぐに紅潮して、秦麗孝は変わらない笑顔で次々と注文を頼む。全て頼んだあとに宁麗文を見れば頭を振って何も言わないまま頭を抱えていた。間が空いていて店員はやや気まずさと困惑を感じていて、秦麗孝がそれを感じ取って「以上で」と締める。彼女が去ったあとでも黙っている宁麗文は一刻も早くここから出たくなりすぎて一向に顔を上げようとしなかった。
「さっきのお姉さん、ずっと俺たちのこと見てたよな? だから呼んだらすぐ来てくれた。なんだお前、流石江陵宁氏の息子だな!」
宁麗文は何も言わずにただただ瞼を閉じたまま頭を抱える。
(どうしたらこいつを置いて帰れるんだ……クソ……破れててもいいから振り切って出れば……)
秦麗孝は次第に口元をへの字にしていって、彼の抱えている頭を支えている片腕を掴む。宁麗文は引っ張られていても顔を上げることは一切しなかった。
「おい、聞いてる? そろそろ聞かないと秦兄ちゃんが泣くぞ? いいのか、こんな大の大人がこんな場所で泣き喚いて。そうしたらお前は俺を落ち着かせなきゃいけないし、きっとここで白い目で見られるだろ。だからこっち向いて話してくれよ。頼むよ! お兄ちゃんって呼んで止めてくれ!」
「誰がお前をお兄ちゃん呼びなんかするか! 私に着いてきて本当に何がしたいんだ。お詫びと言うならさっさと江陵から出ていってくれ。ていうか今すぐあっち行け!![#「!!」は縦中横]」
ぎゃんぎゃんと喚く宁麗文はまるで警戒する犬のようだ。幸い今は講談師の講談だの、酒盛りの男たちの話だので誰も彼の荒らげる声に気付かない。秦麗孝は呆れる息を吐いて宁麗文の腕を離した。
「だからさあ、言ってるだろ? 俺は普通に散歩に来ただけなの。あっちこっち歩いてたら偶然ここに着いたの。何がしたいって俺は普通に歩いてるだけだって。他に理由なんてないよ」
宁麗文はゆっくりと顔を上げる。その顔には嫌そうな表情が張りついていた。
「宿は決まってるのか?」
「何も? 全く決めてないけど。あっ、そうだ。ここに唐秀英っている? いたら一緒の宿の部屋に泊まれるんだけど」
秦麗孝は口角を上げて唐秀英の居場所を聞く。彼とは半時辰ほど前に邸宅の前で別れた。行く道中で姿を見かけなかったのだから、今はきっと宿にいるか、それとも出発しているかのどちらかになるだろう。
だとしても、この秦麗孝という男は唐秀英をも巻き込んで、あまつさえ彼と同じ部屋に寝泊まりしようと企んでいるのだ。宁麗文は視線を横にずらしてなるべく秦麗孝を見ないように逸らす。
「唐公子なら宿にいるよ。伝達術で聞けばいいだけの話だろ」
「使うのめんどくさい」
「……」
片肘を立てて掌で顎を支える宁麗文は店員の持ってきた料理に手をつける。何も注文していないのに勝手に人の飯を食べるが、さほど気にしていないのだろう、秦麗孝も彼に釣られて湯匙を手に取った。
「そういえばさ」
宁麗文は俯きながら点心を食べていく。秦麗孝は嫌な気を出さずに汁を啜った。
「今度の世長会ってなんの話題出すんだろうな」
思わず宁麗文の箸を持つ手が止まる。
「だって最近じゃあどこもかしこもお前らが怨詛浄化しに行ってるから数は減っていってるはずだろ? こうなったら次がなんの話題が出るか分からない」
「……三年前の」
「うん?」
秦麗孝は彼の顔を見て湯匙を持ったまま瞬きをする。宁麗文は宁浩然に対する恨めしそうな声を吐いた。
「三年前に起きた桂城での報告をしなきゃならないんだ。……私が」
「えっ?」
秦麗孝はまた瞬きをして湯匙を落とす。落とした先は汁物で彼の服の袖を軽く濡らした。
「いやいやいや。だってそれ、普通は桂城唐氏がやることだろ? なんでお前がしなきゃならないんだ? というか三年前なら、なんでその時にすぐ言わない?」
「……君、たまにはまともなこと言うんだな」
箸を持つ手を動かして肉団子や餃子を口に入れる。秦麗孝は湯匙をひとつまみして「あのなあ」と不満げに口を開いた。
「お前、俺のことなんだと思ってんの? 俺だって仮にも膳無秦氏の次期宗主だぜ? 世長会にも毎回出席してるし、どの世家もそれぞれ自分たちのやった任務をまとめてお前の親父さんに伝えてる。唐宗主だってもう伝えてるはずだろ? それなのになんでお前が言わなきゃならない? 言わなくても唐宗主が言うだろうし、彼も言わなかったら唐秀英が言う。たったそれだけだぜ? お前が言う必要なんて全くないんだよ」
秦麗孝は湯匙を既に空になった器に入れて箸で餃子を突く。宁麗文はそれを見て溜息をついた。
「私だって分からない。急に父上に言われたんだ。そもそもまだ三年前のことだって、覚えてるのもそうじゃないのもある。ただでさえ……」
宁麗文は話の途中で口を噤む。秦麗孝は急に何も言わなくなった彼に訝しげに片眉を上げた。
ただでさえ、まだ人が死ぬ瞬間を忘れられていないのだ。直接的に殺害の現場を目の当たりにして、それがたとえ日を見せる朝であろうとも、更けた夜であろうとも、宁麗文の頭には絶望と悲観、そして不甲斐ない思いがずっしりとのしかかっている。これを忘れるというのは無理な話であって宁麗文が実際に世長会で報告をすれば彼の心は更に決して消えることのない傷が付いてしまうだろう。
何も言わない宁麗文に秦麗孝は突っついていた餃子を口の中へ放り込む。
「……まあ、なんでもいいや。とにかくそう言われたんなら仕方ないと思えばいい。今までお前の親父さんが主に言ってて、たまに宁の兄貴が話してた。今度はお前が話す番なんだろ。そういう経験をするって思えばいい」
秦麗孝は最後の肉団子を頬張って汁物を一気に飲み干す。舌で唇を舐める彼を見た宁麗文は瞼を伏せた。
「そうだな」
その声色は酷く重たげな息と共に吐き出された。
結局最初から最後まで秦麗孝と一緒にいた宁麗文は疲れてしまった。秦麗孝が頑なに伝達術を使いたがらないので、|人気《ひとけ》のない場所に入って唐秀英を呼んだ。
彼を待っている間の秦麗孝は宁麗文にちょっかいを掛けていて、宁麗文は更なる疲労感に苛まれて頭を抱えている。ようやく場所を聞いた唐秀英が迎えに来た頃、疲れ果てている宁麗文とまだ元気そうに笑顔を浮かべている秦麗孝を見て目を丸くした。
「秦兄さん? なんでここに?」
「散歩してたらここに着いた」
宁麗文は唐秀英の近くに来て両肩を掴んで小声を出す。「ひぇ」と思わず出た彼に構いなしに強く掴む宁麗文は心做しか目の下に隈ができているように見えた。
「頼みます、唐公子。本っっっ当に頼みますので、この人を同じ宿に泊めてやってください。これ以上一緒にいると気が狂いそうなんです! 本当に! お願いします!![#「!!」は縦中横]」
「え、えぇ……」
唐秀英は半ば引きながらも、宁麗文の後ろにいる腕を組んでいる秦麗孝に顔を向ける。
「兄さん、泊まるところは決まってないんですか?」
「そうだよ」
「本当に昔から変わらないですね……」
そして唐秀英は秦麗孝の手を引きずるように引っ張って宿へと帰っていく。それを見送った宁麗文はこれまでかいていた汗を懐から出した扇子で扇ぎ、遠い目をしながら邸宅へと帰った。