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第三章 晴れの行方

十五 膳無秦氏

 翌日、目が覚めた宁麗文は起き抜けから顔を真っ青にしていた。昨夜に唐秀英、秦麗孝、漢沐熙との四人での食事と酒飲みのあと、その二日酔いと酔っている間の記憶を思い出したのだ。  (やっっっっっらかした! ただでさえ漢沐熙とは初めて話したのに! 初対面から酒を呑んで酔っ払って肖寧のことを話すなんて、とんだバカ野郎じゃないか!)  寝台の上でしばらく頭を抱えて自分を罵る。落ち着いた頃に力のない老人のように立ち上がって壁に手をつける。立ったままでもまだ止まない自分への罵りを綺麗に並べている時に戸を叩く音と宁雲嵐の声がした。ふらふらと青ざめたまま戸を開ければ水の入っている桶を持っている兄が立っていた。  「おはよう。身体の調子はどうだ?」  「おはよう……気持ち悪いよ……水ちょうだい……」  宁雲嵐は笑いながら水の入った桶を弟に渡す。最初に顔を洗ってうがいを済ませる。桶を宁雲嵐に返して戸を閉めてからいそいそと着替えた。無名から出て廊下を歩いて朝餉を食べてから門を出る。宁雲嵐からは三人は宿にいると聞いたので祓邪を佩いて青天郷へ向かった。  宿に着いて戸をくぐると下階の卓で共に膳無に向かう三人が雑談をしていた。唐秀英が宁麗文に気付いたところで手を振り、秦麗孝と漢沐熙も続けて手の振る先を見る。宁麗文は手を振り返して三人の元へ歩いた。  「おはようございます。今のご気分はどうですか? お酒で気持ち悪くなっていませんか?」  唐秀英は酒に強いのか弱いのか分からないが平然とした態度だった。秦麗孝はまだ眠そうにしていて、漢沐熙はそんな彼を何度も起こしている。  「ちょっと気持ち悪いです」  宁麗文は乾いた笑みを浮かべて正直に言った。  唐秀英が水を頼んで宁麗文に渡して全員が行ける状態になるまで宿の下階で待つ。宁麗文がやっと持ち直したところと、秦麗孝の目がはっきりと覚めた頃にようやく膳無へ向かうことになった。  といってもそこには御剣では行かない。なぜなら宁麗文はまた吐くかもしれないし、仮に吐いた吐瀉物が上空から落ちて道中を歩いている商人や修士や住民に掛かってしまうかもしれない。その懸念もあってか、自ら馬車で行こうと提案したのだ。  宁麗文は商人を探して馬車に乗せてもらおうと外を見渡す。ちょうど膳無へ向かう商人がいたので、漢沐熙が共に行こうと数人分の銀貨を渡して全員乗り込んだ。商人は馬を撫でてから紐を引っ張って走らせる。幸い江陵から膳無への道はあまりがたつきがないところだったので、宁麗文は安心して扇子を取り出して扇いでいた。  秦麗孝は腕を頭の後ろに組んで片脚をもう片脚に乗せる。目が覚めたといっても完全ではなかったようでまた寝てしまった。漢沐熙が何度も起こしてはいたが、馬車に乗っているときは諦めてそのままにした。  「宁麗文くんのその扇子、少し霊力があるな。誰からもらったんだ?」  漢沐熙が宁麗文の扇子を眺めながら問う。唐秀英は既にその答えを知っているので何も言わなかった。  「これ? 小さい頃に母上からもらったんだ。過去に一度だけ重い病に罹ったときに『これを持ってなさい』って扇子をくれたんだよ。そうしたらすぐに熱が引いてね。その時はなんで熱が引いたのかは分からなかったんだけど、今になってこの扇子の霊力に助けられたんだって知ったんだ」  「そうなんだ。宁公子から身体が弱いってのは聞いてたけど、そんなに弱かったんだな」  「うん、そう──ってちょっと待って。兄上から? 他にどんな話を聞かされたんだ?」  宁麗文は話の途中で扇いでいる扇子を持つ手を止める。彼は自分の過去について、色々とやらかしたこととか思い出したくもないことがある。そしてこれをより多く知っているのが兄の宁雲嵐なのだ。  宁雲嵐の普段は口が堅く人の失態を事細やかに話すような男ではないが、弟の宁麗文に関しては周りへの戒めと題して言葉を並べていたりもする。それのせいで師兄たちから幾らからかわれたことがあった記憶しかない宁麗文は、まさか友人の漢沐熙にさえも暴露してしまったのではないか、と背筋を震わせていた。  「別に、あんたの身体が弱かったことしか聞かされてない」  首を傾げながら答える漢沐熙に宁麗文は胸を撫で下ろす。と同時に、昨夜のことを思い出してはまた青くなる。おそらく漢沐熙のみ自分の愚痴を零しているのを聞いていたはずだが、念の為にと扇子を閉じて唐秀英へ顔を向けた。  「唐公子、ちょっとだけでいいので、私がいいと言うまで耳を塞いでくれませんか?」  「? いいですよ」  唐秀英はやや疑問に思いながらも素直に自分の耳を塞ぐ。宁麗文は口元に閉じたままの扇子を掲げながら漢沐熙の前で眉間に皺を作った。  「昨日の……私が酔ってた時に言ってたこと、覚えてる?」  漢沐熙は目を丸くしたがすぐに頷く。  (うわあああ! やっっっぱり!![#「!!」は縦中横])  宁麗文は心の中で顔を青ざめながら頭を抱える。しかし現には出さず、冷や汗を毛穴という毛穴から出しながら目をぐるぐると回していた。  「あのさ、ああいうのは他意で言ってるわけじゃないんだ。確かに肖寧は私の最初の友人だけど、たった二日しか一緒にいられなかったし、数年経った今でもまだ会えてない。閉関だっていつ開関したかも分からないし、そもそもまだしてないかもしれない。でも肖寧から教わったことはたくさんある。それこそ昨日言ったみたいに買い物の仕方だとか、御剣のやり方とか。もちろんそれ以外にもあるんだけど、ああ、えっと、つまりだな、昨日の私の言ってたことは全部忘れてくれ!」  宁麗文は赤くなった顔で頭の中で言おうと思っていた言葉を全て出しきる。漢沐熙は息を切らしながら必死になっている彼に瞬きをして少し噴き出した。  「分かったよ、全部忘れる。けど、それにしてもあの肖子涵と仲が良いのはすごいな。だって長男じゃないしたまにしか来ないだろ。なのにあんたが初めて出席したときに偶然出席した。なんなら宗主も他の門弟も連れずに一人でな。それ以来は閉関して今になっても一度も出てない。しかも世長会での報告もわざわざ前に出て言った。あんたが質問しても全部答えてたし、そのあともあんたと交流してる。最初からそうしようって決めてるみたいに感じたんだ」  宁麗文は扇子を閉じたまま顔の暑さを逃すように扇ぎながら口を閉ざした。  確かに思い返せば、初めて世長会に出たときに急に報告のために自ら前に出ていた。宁雲嵐曰く父親の宁浩然以外の宗主で今まで前に出る人はいなかったし、当然その子供も出なかった。つまり、肖子涵が世長会が始まって以来の初めての公開報告者なのだ。  宁麗文が担当した時に唐秀英も出たが、あれは宁麗文の報告を裏付けるためであって一人で言っているわけではない。本当に肖子涵だけが、それも一人で前に出たのだ。  宁麗文は扇子の先で顎を支えながら視線を上げて考える。そう言われてみれば肖子涵は先を見て自分に関わっているように感じる。それは宁麗文がただ単に世間知らずで元は病弱だったからという理由も存在するだろうが、しかしそれでも不可解な点は散りばめられたかのように在った。  「でも、たった二日だけ過ごしてそのあとに閉関したんだよ。それに世長会のことだって、私が何も言わなかったら肖寧も自分から言ってただろうし。ただの偶然なんじゃないかな」  「んん、そうか。俺の考えすぎかな」  「そうだよ。……とにかく、本当に忘れてくれ」  漢沐熙は笑いながら「分かってるって」と返し、宁麗文の代わりに唐秀英へ耳から手を離す仕草を見せる。  唐秀英は耳から手を離したが途中から顔を青くしたり赤くしたりと忙しなかった宁麗文に首を傾げる。聞こえていないと分かっていても、気まずい顔をしながらまた扇子を開いて口元を隠した。    数刻して馬車に揺られて広くて高くそびえる壁が見えた。秋都漢氏が手掛けた邪祟対策の壁だ。宁麗文は壁を見ながら桂城での時期を思い出す。あの頃は阿瑾がいて御剣で移動ができなかった。その代わりとして徒歩で向かっていたので二日ほど掛けて歩いていたが、今回は馬の|牽引《けんいん》のお陰でか到着が早かった。  門をくぐったすぐ先で商人が宁麗文たち四人を下ろしてから自分の馬ににんじんを与える。その様子を唐秀英が目を弧にしていて、なんとなく理由が分かった宁麗文と漢沐熙はただ呆れた笑いを浮かべるばかりだ。にんじんをあげた商人が振り返って皺が入っている眦を下げる。  「ありがとうございます。ここまで運んでくださって」  「いやあ、いいよいいよ。俺だって人を運ぶのは初めてだったんだ。なるべくゆっくり歩いてもらったが、道中で酔わなかったか?」  「はい。この人がぐっすり寝たぐらいには」  気前のいい漢沐熙と商人が穏やかに笑って少しだけ話をしている中で、宁麗文と唐秀英がまだ眠たげな秦麗孝の頬を何度か軽く叩いて起こす。しかしそれでも完全に起きないようで白目を剥いて空を仰いだ。そのうち商人との会話を終えた漢沐熙が秦麗孝を引っ張って秦氏の邸宅へ向かった。門の前に着いた漢沐熙が近くにいた秦氏の門弟に手を振った。  「おーい、帰ってきたぞ」  「沐先輩。今日も来たんですか?」  「ははっ、まあな。あ、こいつを部屋に投げてきてくれないか?」  「師兄をそんな風に扱えるのはあなたと|師姉《しし》だけですよ……」  秦麗孝の後ろ襟を掴んだ漢沐熙は目を弧にしたまま秦の門弟に押し付ける。乾いた声で笑う彼に片目を閉じてから目の前の門をゆっくりと開けた。  「えっ」  思わず声を上げてしまった宁麗文に漢沐熙が振り返る。  「勝手に開けていいのか?」  漢沐熙は眉を上げる。  「いいんだよ。といっても他世家の中だと父親と俺と弟ぐらいなんだけどな。まあ入れよ」  漢沐熙に促された二人も共に入る。  中は質素な造りではあるが所々に霊力を感じる。宁麗文は辺りを見渡しながら歩いて更に中に入った。漢沐熙に着いていくと戸から何かが外へ飛び出す。宁麗文がそれに驚いて大声を出して廊下で盛大に転んで尻もちをついてしまう。勢いよく上半身を起き上がらせてバクバクと鳴る心臓を抑えるように胸の辺りを押さえた。唐秀英は困惑した状態で瞬きながら漢沐熙へ顔を向ける。彼は苦笑しながら宁麗文を引っ張って立ち上がらせた。  「ごめんな。こいつ、ここの飼い猫なんだ」  「ね、猫……」  漢沐熙は頷いて猫の首根っこを掴みながら「こら、いつも飛び出すなって言ってるだろ」と小さく叱る。猫は長い鳴き声を出してから彼の手の中で暴れて下に降りた。一度宁麗文を見たが特に気にすることもなくどこかへ軽やかに歩いて去っていった。  宁麗文はまあまあ動物に好かれる質ではあるが、たまにこうやって驚かされることもあるのだ。過去には家僕が拾ってきた犬が興奮した様子で宁麗文に飛び上がって押し倒したまま彼の顔をひとしきり舐めて、満足したらその場から離れたり、ある時には無名で窓を背にして瞑想をしている最中に全く気配の感じなかった猫が窓から入って彼の頭を蹴るように着地したり……彼は、動物には好かれる質だが、こういう驚かしは苦手なのだ。  宁麗文は気落ちしながら服についた埃と手で払って、崩れてしまった髪も手櫛で直していく。その間の唐秀英と漢沐熙はひとしきり笑っていた。  しばらく廊下を進んでいくと一つの部屋に辿り着いた。その部屋の看板には『|驟雨《しゅうう》』と書かれている。  「姉さん、漢沐熙だ」  漢沐熙は戸に手の甲を当てて数回軽く叩く。少し間を開けて戸が開けば中から一人の女が出た。  「|沐沐《ムームー》。それに唐秀英さんも」  秦麗孝と同じく浅黒い肌をして、杏の種のような瞼の下に宝石のような深い青色の双眸が存在している。顔つきは秦麗孝にはやや似ているが、漢沐熙のように柔らかい。髪は左に三つ編みをして、後ろを漢沐熙より下にまとめていた。服装も深衣というわけではなく、秦麗孝と似たような軽めの服を着ている。  彼女が秦麗孝の姉で膳無秦氏の長女の秦雪玲だ。  秦雪玲は二人の顔を見た後に宁麗文を見る。瞬きをして「もしかして」と口元を手で隠す。  「あなたが宁麗文さん?」  宁麗文は口端を上げて頷く。彼女の前で両手を掲げれば秦雪玲も我に返って慌てて小さく頭を垂れて胸の前で手を掲げる。  「初めまして、秦雪玲さん。お噂はかねがね伺っております」  先に手を下ろした秦雪玲が両手を目の前で横に振る。  「やだ、そこまでかしこまらなくていいわ。とにかく入って入って。お茶を淹れてくるから、のんびりくつろいで」  「いや、姉さん……流石に男三人が入るのはちょっとダメなんじゃないか?」  「なんで?」  あまりにも不用心な返答に漢沐熙は答えをまさぐるように考えあぐねながら視線をあちらこちらと動かす。秦雪玲はそれでも首を傾げるばかりだが、それもやめて目を弧に描いて漢沐熙の手を引っ張った。  「別にいいわよ、沐沐と|小麗《シャオリ》の友だちなら。ほら入りなさい」  彼女に手を引っ張られる漢沐熙は半ば諦めた様子で宁麗文と唐秀英を見る。あまりにも諦めた表情なもので、二人は互いに顔を見合せたがつい小さく噴き出してしまった。  秦雪玲の部屋は質素だがどこか気品のある雰囲気であり、それは彼女の性格を表しているのだろう。きちんと整理整頓がしてあって、掃除もこまめにしてあるのか埃一つも見当たらない。宁麗文は青鈴以外の女の部屋に入るのはこれが初めてだったので、身を硬くしながら唐秀英の隣に座った。  「それじゃ、お茶を持ってくるわ」  秦雪玲は上機嫌のまま部屋を出ていき、中には男三人となる。漢沐熙は足を崩して片膝を立てているが、宁麗文と唐秀英は正座をしたままだ。  「そんなに硬くなるなって、何度目だよ」  二人を見た漢沐熙が歯を見せて笑う。  「姉さんは特に気にしない。俺だって自分ん家のようにくつろいでるんだから、あんたらもそうしなよ」  「初対面の人の部屋でいきなりくつろぐのは失礼だろ」  唐秀英も宁麗文の言葉に同意するように首を縦に振る。漢沐熙がまた笑った。  「まあいいや。それより、どうだ? 初めて膳無に来た時は」  宁麗文は少し考える。今まで江陵と桂城の二つの都市しか知らないからか、膳無ではまた違った雰囲気を感じ取った。  「楽しそうだなって思ってる」  伏せがちな瞼を上げて漢沐熙をまっすぐと見る。唐秀英もまた小さく頷いて彼へと顔を向けていた。  「膳無に入ったらいきなり知らない店が並んでるんだ、楽しそう以外の言葉が見つからないよ」  「そうだろうな。あとでゆっくり観光にでも行こうか。秦麗孝も着いてくるだろうけど気にするな。……あ、いや、あいつは家にいるままか」  二人はまた漢沐熙の発言に顔を見合せる。  家にいるままというのはどういうことだろうか。秦麗孝は元々家にいるのは退屈だ、任務には行きたくないと答える男だ。散歩をしに様々な場所へ行くのが宁麗文の印象であり、漢沐熙の言っていることと矛盾している。唐秀英はしばらく考えたあとに「ああ!」と掌と拳を縦に合わせた。  「秦雪玲さんがいるからなんですね」  「そういうこと」  「そんなに秦雪玲さんが好きなのか?」  漢沐熙は片方の口の端を上げながら頷く。二人がこうして口を揃えて「秦麗孝は姉の秦雪玲が大好きだ」と言うほどに、秦麗孝は本当に彼女のことが大好きでたまらないのだろう。  少し待っていると外の方から大声を出す男と笑いながら返す女の声が聞こえた。漢沐熙は片方の瞼を閉じている。唐秀英は目を弧にしながら笑っていた。宁麗文が二人の様子を見ていると、その男女の声が戸の外からより近くなっていって会話が聞こえた。  「姉ちゃん、俺が出すから。転んだりしたら危ないだろ」  「もう、小麗ったら。私はそんなにドジじゃないわよ。むしろあなたがドジっ子じゃない」  「んなわけねーもん! ほらほら、持つよ」  二人分の影が見えて小さい影が戸を開ける。外にいたのは目が覚めた秦麗孝と秦雪玲だった。  宁麗文は外の会話を聞いて「本当にあの秦麗孝か?」と面食らいながら口元をひくひくと動かす。  世長会での様子、普段の様子、そして姉の前での様子。  これは全員一人の人格から生まれたやつなのか? 実は三つ子とか、そういうものじゃないのか?  失礼なもの言いながらも宁麗文はただただそうとしか考えられなかった。あまりにも口を開けっ放しの宁麗文を見た秦麗孝が姉から離れて盆を卓に置いて彼の首に腕を回しながら隣に座る。  「どんな顔してんだよ!」  豪快に笑う秦麗孝にややうざったそうに眉を顰める。  「ちょ、うるさいな……あと離れてろよ。暑苦しい」  「暑苦しいってなんだ。別にいいじゃん、俺たちダチなんだからさ!」  「はあ」  宁麗文はせめてもの思いで秦麗孝側の耳を開いた扇子で塞ぐ。鬱陶しく思いながら秦雪玲を見ればにこにこと笑顔を浮かべていた。  「ほら、小麗。宁麗文さんが困ってるからこっちにいらっしゃい」  「はあい」  秦麗孝は素直に宁麗文から離れて彼女の隣に引っつくように座る。この光景を見た宁麗文はますます素性が分からなくなって扇子を閉じて額を支えた。  「宁麗文さん、お茶をどうぞ」  秦雪玲の手が宁麗文のための茶器を前へ差し出した。礼を述べて茶器を手に取って一口含んだ。  その茶は爽やかでありながらも少し甘い。しかしその甘さは蜂蜜や|甘蔗糖《かんしょとう》【サトウキビ】などと今まで知った甘味料とは違った。  「このお茶、なんだか不思議な味がしますね。まるで違う世界のものみたいだ」  「それはな、羊の乳を入れているんだ。美味いだろ」  秦麗孝が得意げに片頬を上げる。対して宁麗文は目を丸くした。  (羊の乳?)  まさか茶に家畜の乳を入れて飲むとは!  宁麗文は今までの茶に対する情報に衝撃を受けて秦麗孝と茶器を交互に見る。戸惑う彼を見た唐秀英が先に口を弧に描いた。  「やっぱり驚きますよね」  唐秀英は続けて宁麗文に顔を向ける。  「ここ膳無秦氏の先祖は遊牧民族なのだそうです」  「遊牧民族」  唐秀英の、そして宁麗文の発言に秦姉弟が頷く。漢沐熙は茶器を回しながら最後まで茶を飲んだ。茶器を置く手を見た秦雪玲が手の先の男を見上げた。  「もっと飲む?」  「うん、飲むよ。いつ飲んでも美味い」  「ふふ、でしょう。淹れてくるから待ってね。唐秀英さんと宁麗文さんは?」  唐秀英も漢沐熙と同じく茶器を回して一気に飲み干し、宁麗文も慌てて飲んだ。秦麗孝も焦りもせずに茶を飲み干して唇を舌で舐める。  「俺もおかわり!」  四人分の茶器の中が空になったのを見た秦雪玲は手早く盆に置いてまた部屋から出ていった。  「それにしても、お茶に乳を入れるなんて。すごいな……」  ぽつりと呟いた宁麗文に秦麗孝が眉を上げる。卓に肘をついて顎を支えながら歯を見せて笑った。  「俺たちの先祖の先祖が考案したんだってよ。んで、膳無以外の場所から交易で手に入れた茶葉と羊の乳を合わせて来客に提供するなり仕事終わりに飲むなり、あとは寝る前に飲んだりするようになったな」  「へえ。確かに寝る前に飲んだら寝つきがよくなりそうだな」  秦麗孝は卓から離れて漢沐熙の肩に肘を置く。漢沐熙はすぐにその肘を退けた。秦麗孝は彼の行動に唇を尖らせながら立ち上がって部屋を出ていく。それを見送った三人は互いに顔を見合わせる。  「また姉さんのところだ」  「あはは、秦兄さんらしい」  宁麗文は扇子を懐に仕舞う。また開いた戸の向こうを眺めながら外の空気を感じていた。    秦雪玲も入れた五人で会話を繰り広げながら羊の乳が入った茶を楽しむ。何度も飲んだあとに邸宅から出て膳無の町──『|蒼茫亭《そうぼうてい》』の観光に行く。秦姉弟は共に着いていくことはしなかったので、三人で出掛けることにした。  膳無には江陵、桂城とはまた違う雰囲気がある。特徴のひとつをあげるとするならば、それぞれの道で猫や犬はもちろんのこと、たまに牛や羊も鳴きながら通ったりもしていることだ。  (急に知らない世界に来た気分だ。確か膳無は畜産物が特徴なんだっけ。それなら納得だな)  動物が行き来する姿を見て目が飛び出るかのように丸くする。しかしながら、今までに見たことのない光景に意外にも楽しくなってきたのか、宁麗文は開いた扇子で顔を扇ぎながら口元を緩やかに上げる。様々な屋台や店を見て地元と違った活気に気が付けばちょっとした鼻歌も歌いながら歩いていた。  「ご機嫌だな?」  漢沐熙が宁麗文の肩に腕を回す。密かに鼻歌を流しているのが気付かれて恥ずかしく思って、すぐに止めて赤くなった顔を扇子で隠す。  「……いや、なんでも……」  「ははは、遅いぞ。でも、楽しいだろ? もちろん肉屋は多いのは当たり前だけど、乳製品を売っている店もある。そこに看板猫や看板犬がいるんだけど──あ、ちょうどここだ」  三人が歩いてすぐ隣に乳製品を売る店がある。そこには看板犬だろうか、舌を出して息を吐きながら尻尾をブンブンと振っていた。漢沐熙は宁麗文から離れて店の前まで駆けて犬の顔をもみくちゃに撫で回す。毛に顔を突っ込んでいたりと、とても嬉しそうに撫でる彼らしく思えない様子を見ていた。扇子から顔を離した宁麗文はやや戸惑いながら隣にいる唐秀英に耳打ちをする。  「漢沐熙って犬好きなんですか?」  唐秀英は眉をあげた。  「ああ、漢兄さんは犬もですけど、動物が好きなんです。小さい頃から秋都と膳無を行き来してて、その度に秦氏の猫だったりここの犬と遊んだりしていたらしいです」  「そうなんですね」  漢沐熙は非常に満足したようで、手に大量に抜けた毛をつけたままで腕で額を軽く拭った。  「兄さん、ちゃんと手は洗ってくださいね」  「分かってるよ!」  唐秀英は呆れ笑いながら漢沐熙から一歩退いた。  それからしばらく歩いて広場まで行く。そこには人だかりができていて、宁麗文たちも後ろからつま先を立たせたりと工夫をして人だかりの前を見る。  そこには猿と芸達者が芸を披露していた。その猿は相当の躾をされていたからか、芸達者の持つ輪をくぐり抜けたり綺麗な一回転をこなしたりと、芸を一つこなす度に観客を湧かす。宁麗文もその光景に思わず拍手をする。と同時に前に見た猿の邪祟を思い出して複雑な気持ちになっていた。  「ここに芸達者が来るのは珍しいですね。いつもなら牛や羊の休憩所として使われるのに……」  唐秀英が気になって漢沐熙に聞けば「確かにな」と返る。  「俺も初めて見た。あいつなら分かるかな」  「きっと秦兄さんも知らないと思いますけど……」  二人が話していても宁麗文はまだ見続けている。次の場所に案内しようとまた身体の向きを変えた漢沐熙がその肩に手を置いた。  「ほら、行くぞ」  「ちょっと待って、今いいところ……」  宁麗文が一瞥してからまた前を向くが、不運なことに自分が見たかった場面が終わって観客が拍手をしていた。見られなかった悲しい声を出していれば呆れている漢沐熙に手首を掴まれてその場を離れた。  次に歩いて着いたのは様々な店から遠く離れた、先程の広場よりも広い場所だった。奥に秋都漢氏が建てた壁が薄らと見えるが、それを抜きにしてもかなり開放的に見える。そして地面には当然の如く丁寧に管理のされている草原が広がっていて、牛と羊──家畜がのんびりと歩いていたり、草を|食《は》んだり、寝転がったりと自由気ままに人生を謳歌している。  「ここは?」  「秦麗孝たちの仕事場だよ。ここで牛たちの健康状態を見たり飯を食わせたり、牛や羊の乳搾りなんかもしてる」  宁麗文は新たな事実に口をあんぐりと開ける。  ──まさかあの秦麗孝が仕事をするなんて!  おそらくだが彼は世長会で言われるような任務が嫌なのだろう。しかし生まれ育った自分の世家では違って、こういった酪農業という仕事には精を出せるのだという。  秦麗孝はただの自由奔放だと思っていた。しかしそれだけでなく、世話を滞りなくするほどに動物を愛しているのだろう。  宁麗文は辺りを見渡して牛たちの数を数える。手前に見えるものだけでも軽く五頭以上いるのだから、この広さではもっといるだろう。  「宁麗文くんもやるか?」  漢沐熙がからかうように声を掛ける。  「い、いいよ……」  (また桂城の時みたいなやつは勘弁だ……)  ひくひくと口端を動かしながら首をぎこちなく横に振った。  しばらく日差しの柔らかく落ちる木々の下でゆっくりを風景と空気を楽しむ。  「えっ」  突然悲鳴にも似た声を上げる。宁麗文と漢沐熙が声の正体に顔を向けると、二人の近くで絶望したかのように片手で顔を覆っている唐秀英がいた。  「どうしたんだ?」  「……父が、今すぐ帰ってこいと。多分、任務です……」  宁麗文は遠い目をした。あの宗主のことだ、また復興だのなんだのと息子の経験になりうるものを押しつける気だろう。苦楽の経験を共に過ごした唐秀英もそう思っているに違いない。  「そうか、じゃあ帰らなきゃな」  唐秀英は微苦笑を浮かべる漢沐熙に泣きそうに弱々しく顔を歪める。  「はい。本当はもっと過ごしたかったのですが。それでは、僕はここで」  唐秀英は軽く頭を垂れながら胸の前で手を扇ぐ。二人もまた手を扇いで、御剣をして桂城へ帰る唐秀英を見送った。  「秦麗孝たちのところに帰ろう」  唐秀英が消えた空から顔を逸らした漢沐熙が眉を上げた。    来た道を戻っていると一つの店の前で聞き慣れた陽気な声が聞こえる。漢沐熙と顔を見合わせてから駆け足でその場に向かうと、邸宅にいた秦姉弟が外で店主と何やら会話をしている。二人は先程の服とは違ったものを身にまとっていて、秦麗孝に関しては三つ編みにぶら下げていた髪をほどいて上にまとめていた。漢沐熙は「ああ」と声を漏らして二人の元へ行く。宁麗文もまた、服装も髪型も違う姉弟に首を傾げながら着いていった。  「秦麗孝、姉さん。これから仕事か?」  「沐沐。そうよ、その前に交渉をしていたの」  「交渉?」  宁麗文が秦雪玲のあとに声を出す。秦氏の仕事は怨詛浄化だけではないのだろうかと疑問に思っていたのが感じ取れたのだろう、漢沐熙が薄茶の双眸に顔を向ける。  「膳無秦氏は全ての酪農家と店主の橋渡しをしているんだ。個人同士だと何か|齟齬《そご》があってからは遅い。そうなれば下手しりゃ喧嘩になって本来の|生業《なりわい》も疎かになってしまう。だから秦氏が代わりにこいつらの橋渡しになって、何かがあればすぐに報告してもらうようになっているんだ」  「そうなんだ。大変なんだな」  それに今度は秦麗孝が笑う。  「いや、そうでもないぜ。人の言い分をちゃんと聞いて理解するのとそれをきっちりと伝える。たとえどっちかが皮肉だか嫌味だかを俺たちに伝えても本質をもう片方にちゃんと伝えるんだ。そりゃあ大変な時もあるけどさ、こうやってお喋りするってのも悪くないぞ」  秦麗孝が姉の手を取ってブンブンと振る。秦雪玲は優しく笑いながら弟のなすがままだった。宁麗文は感嘆の声を漏らす。  秦麗孝は親の背中を見て育って、怨詛浄化だけではなく自分の世家の仕事もしている。宁麗文は輝いて見える男に視線を下にずらした。  (皆はこんなにちゃんとしてるのに。私だけは全然だな……)  頭を小さく振って顔を上げる。店主と話を交わした姉弟は手を離さないまま仕事場の草原へ向かった。漢沐熙と宁麗文は二人の姿が見えなくなるまで見送った。  「飯でも食いに行く?」  漢沐熙の提案にのめり気味に頷く。別に姉弟の仕事の見学に行っても構わなかったが、自分たちを見つけた秦麗孝から「お前もやるか?」と聞かれるのが目に見えて嫌だった。    漢沐熙が膳無一の食事処があると言うので目的の店へ着いていく。中に入ると年季が入っているのか、どこもかしこも柱は脆く見え、床は日焼け跡が見られる。卓と椅子は使い古されているからか所々欠けや小さな汚れが見受けられた。けれども桂城でのあの半年間の任務をこなしていた宁麗文にとってはもう慣れっこで、まだ土にまみれすぎて沐浴をしたいと強く願っていた時期よりかは幾分とおおらかになっていた。  漢沐熙が空席を探して見つけたところへ宁麗文を連れて行く。席について卓に置いてある品書きを眺める。この店には江陵にある飲食店よりも品数が多いようで、品書きの枚数が多くて思わず目を丸くしてしまった。  「宁麗文くんは何にする? 俺はキジの汁物にしようかな」  「えっと、私は……なんだこれ、ひ、羊の蒸しもの? 見たことないよ」  「ああ、それか? 確かに江陵にはないよな」  漢沐熙は目を弧にしながら上半身を乗せるように腕を卓に乗せた。  「羊の肉はな、膳無しか食べられないんだ。もちろん他の世家に行って一生懸命探せばあるかもしれないけど鮮度は落ちてると思う。ここは鮮度がいいまま飯として提供できるから、そのうち名物になったんだ」  「へえ、そうなんだ。まだ知らないことだらけだな。勉強になるよ」  濃い茶の目が姿を現す。  「そうか? まあ、知るってことはいいことだ。詳しいことは秦麗孝か姉さんに聞いてみてくれ。姉さんは羊の世話もしているからもっと教えてくれると思うぞ」  「そうしようかな。とりあえず、羊の蒸しものにするよ」  宁麗文も料理を選んで漢沐熙が店員を呼んだ。肉を調理するのでしばらく時間が掛かると言われたが時間に余裕があったので大して気にならなかった。その間も膳無の話を続ける。  「膳無秦氏の先祖は遊牧民族だって、さっきは唐秀英が話していたよな。初代はなんの変哲もないただの遊牧民族だったらしくて、よく牛と羊の世話をしながら地を転々としていたらしい。それで初代宗主の霊力と共鳴した場所がここ。最初は名前なんてつけてなかったんだけど、まあ、初代宗主が『飯がなければ羊たちの世話ができない。羊たちの飯がなければ出る乳もない』っていう理由で膳無ってつけたらしい。それで初代宗主と強く結びついている霊力を拡げていくうちに今のような地形になって、それから膳無秦氏としてここまで発展していったんだと」  漢沐熙の話の途中に届いた料理を頬張る。  桂城唐氏は村にいた農民から始まって、膳無秦氏は遊牧民族から始まった。宁麗文は食事をしながら秋都漢氏の起源も知りたくなった。  「それじゃ、君の先祖はなんだ?」  「俺の先祖か? 建築士だな。まあ、建築士って言っても整備をする人や建物を建てる人、住民の要望を聞いてつけ足す人……色々いるよ。初代はそれはもう村一番の建築士だったらしい。元から霊力を持ってなかったんだけど、持ってた工具に宿ってたらしい。んで使っていくうちに自分の身体に霊力が宿ってきたもんで率先して地域を発展させていくようになって、それで今に至る。うん、まあ、うちのは膳無秦氏や桂城唐氏みたいな特別なものはないよ。パッとしない人間が頑張ってここまで来ただけだ」  漢沐熙は湯匙を持って旨みのある汁を啜りながら眉を上げる。宁麗文もまた、蒸した羊肉を咀嚼して飲み込んでいた。  「それでもすごいよ。皆、何かしらの功績を挙げているんだろ? 聞けば聞くほど偉いと思うよ」  漢沐熙は言われるとは思わなかったようで、一度瞬いてから小さく噴き出した。呆然とする宁麗文を眦に溜まった涙を指で拭いながら笑いを抑えた。  「いや、変な意味じゃない。ただ、あんたにそう言われるのは恥ずかしいんだ。俺たちは自分の世家のことで精一杯だったからさ、これが当たり前だと思ってたんだ。……でも、あんたに言われて初めて気付いたよ。確かに俺たちは偉いな」  「特別に分けてやるよ」と漢沐熙は彼の器に一つのキジの肉を置く。宁麗文は礼を述べてそれを頬張る。  ……いつも食べている鶏よりとても美味かった。