第三章 晴れの行方
十六 双子
初めて羊の肉を食べた宁麗文はその美味さに、食べ終えて店を出ても道を行き交う羊を見ては口の中で唾液が出まくっていた。「こんなに美味しい食べものは初めてだ!」と同時に「なんで江陵で食べられないんだ……」と心の中で気落ちしながら再び秦姉弟の仕事場である草原へ向かう。
あまり目立つような場所にいては秦麗孝に見つかって仕事の手伝いをさせられるのが目に見えるので、そろそろと隠れられる大木の陰に移動する。漢沐熙が隣へ顔を向けると忽然と消えているのに気付いて、辺りを見回してみれば苦々しく木の幹の裏に隠れている宁麗文を見つけた。
「そんなに警戒しなくてもいいって。秦麗孝は俺たちに気付かないんだから」
「いや、気付くかもしれないだろ。そうしたら私に手伝いをさせてくるんだ。ぜっっったいする、間違いなくする」
「しないしない。あいつは自分のやることは全部自分でやる質なんだ。だからこっちに来いよ」
漢沐熙に腕を引っ張られていやいやと陽の当たる場所まで引きずられる。広い青空の下、広い草原の上に秦麗孝が牛の背中を軽く叩きながら話している姿が見える。その顔はとても優しく、また話している雰囲気も柔らかく見えた。
(あいつ、あんな顔もするんだ)
世長会で、怨詛浄化で、そして普段での態度とはまた違う顔に目を細める。
(本当にこの仕事が好きなんだな)
太陽の下にいる客人に気付いた秦麗孝が振り返って手を大きく振った。
「おーい、お二人さん! 来てたんなら言ってくれよ。分かんねえだろ!」
漢沐熙も手を振り返すと秦麗孝が二人の元へ駆ける。汗にもまみれているその姿からは牛たちと触れ合っていたからか獣の臭いがついていた。
「もう飯は済んだのか?」
漢沐熙が頷く。秦麗孝はにっこりと笑って宁麗文に顔を向けた。
「今の時間帯は牛と羊の乳搾りがあるんだ。といってももうあの牛で終わりなんだけど。お前もやってみないか? 体験だよ体験」
「乳搾り?」
秦麗孝が頷いて一頭の、先程まで彼が話しかけていた牛を指す。その牛は上機嫌そうに尻尾を横に振りながら草を食べていた。
「いいんじゃないか。どうせ一度きりの人生なんだし、せっかくなら乳搾りの体験でもしてみな」
漢沐熙が宁麗文の背中を叩く。呆気に取られる宁麗文だったが、体験というならばひとつ試してみてもいいだろう。
「いつでもいいぜ。牛たちは逃げねえよ」
「……なら、やってみようかな」
宁麗文の言葉に秦麗孝は太陽のように笑った。
「そうこなくっちゃな!」
一度牧舎に行って戻ってきた秦麗孝は二人を牛の傍まで案内する。その牛はつぶらな瞳で秦麗孝を見て「モゥ」と鳴いた。
「よしよし。今から乳を搾るからな。宁麗文、まずは手本を見せるからちゃんと見てろよ」
「分かってるって」
秦麗孝は持ってきたひとつの桶を牛の下に置いてその場でしゃがむ。浅黒い手がぶら下がっている牛の乳を掴んでそれぞれの指を笛を奏でるように動かす。それに刺激を受けたのか、牛は桶に向かって勢いよく母乳を出す。秦麗孝はそれを幾度かして立ち上がる。振り返って宁麗文と漢沐熙を見て「やってみな」と笑う。
宁麗文は秦麗孝と場所を代わってしゃがみ込む。この手でやっていいのかと心配をして振り返ったが、秦麗孝は首を傾げるだけだった。つまり牛を傷つけなければなんでもいいのだろう。
宁麗文はまた牛に顔を向けて乳に触れる。それはとても柔らかくて強く握ってしまえばちぎれてしまいそうだった。宁麗文はおそるおそる秦麗孝がやっていたように搾っていく。途端に勢いをつけた母乳が桶に注がれたのが少し飛んで膝を軽く濡らした。あまりにも強い勢いにただただぽかんと口を開けたままで固まってしまう。
(ち、乳ってこんなに勢いよく出るものなのか!?[#「!?」は縦中横] ていうか握られても痛くないのか?)
「宁麗文? 何をそんなにぼーってしてるんだ?」
未知なる光景に固まっていれば秦麗孝が首を傾げながら声を掛ける。我に返ってまた搾っていって、瞬く間に母乳で満たんになっていた。宁麗文は立ち上がって牛の背中を優しく叩いてから撫でる。
「搾らせてくれてありがとうな」
牛はまた「モゥ」と言って尻尾を振った。振り返ると秦麗孝が牛の下に置いた桶を回収して、漢沐熙は腕を組みながら従兄弟のやることに目を向ける。宁麗文も牛から離れて秦麗孝の行動に目を向けていた。
「漢沐熙はやらないのか?」
漢沐熙は苦笑する。
「不器用だからやらないんだ。前にやったら牛に死ぬほど追いかけられたからもうやらない」
「そ、そんなに……」
口元を呆れながらひくつかせている宁麗文を気にすることもしない。秦麗孝は二人の会話を後ろ耳で聞きながらも乳でいっぱいになったその桶を抱えて少し遠く離れている、滑車がついている木箱に入れる。蓋を閉めてまた牛の元へ来てから何かを優しく話しかけて背中を叩く。
「なんで桶を木箱の中に入れるんだ?」
秦麗孝は顔を上げて二人へ向く。
「日に当てたら状態が悪くなるだろ。それにこれから工房に届けるんだ。木箱に入れて衝撃を与えないようにして運ぶんだよ。ちなみにこれは他の奴が回収するから、俺は搾乳と健康状態の確認ぐらいかな。他のは全部他の奴らがやるから実のところ俺がやることはない」
秦麗孝は牛を他のところに行かせるのを見送って振り返る。
「姉ちゃんのところに行こうぜ」
腰に手を当てながら口角を上げた。
秦雪玲は羊たちのいる場所に立っていた。彼女の手にははさみがあって、どうやらこれから仕事をするようだった。
「姉ちゃん!」
秦麗孝が大声を出して姉に手を振る。振り返った秦雪玲もまた弟へ笑顔のまま手を振り返す。三人は彼女の元へ進めば、そこには一頭の羊が呑気に秦雪玲の身体に擦り寄っていた。
「今から毛を刈るとこなのか?」
「そうよ。もうそろそろやらないとこの子たちが苦しそうだからね」
宁麗文は羊を見ていくうちに、先程の食べた羊肉を思い出してまた口の中の唾液が増える。このままではかぶりついてしまいそうだと顔を手で覆っていて、それを見ていた漢沐熙が首を傾げながら覗いていた。
「じゃあ、それも宁麗文にやってもらおう。こいつ、さっきは牛の乳搾りもやったんだ」
(またやるのか!?[#「!?」は縦中横])
口元を押さえていた手を離して目を白黒とさせる。ちょうど振り向いた秦麗孝は宁麗文の驚愕する表情ににやりと口角を上げる。そして隣に立って肩に肘を乗せる彼に宁麗文は心底嫌そうに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「なぁに、経験の一つや二つぐらいしたっていいだろ。江陵に戻った時に宁の兄貴に言えばいいじゃないか!」
「本当は秦雪玲さんの手を煩わせたくないからだろ……」
「そんなことねえって。確かに姉ちゃんの手を空かせるのもあるけど、お前の人生が豊かになる手伝いをしてるんだぜ? そう考えたら一石二鳥だろ!」
かつて三年前に宁雲嵐が宁麗文に怨詛浄化を共にすることを思い出して、目元をひくひくと呆れる。
(なんでもかんでも一石二鳥って言葉を使いたがるよな、皆……そんなに私が暇そうに見えるのか? やっぱりそう見えるのか?)
肩から秦麗孝の肘を退かして助けを求めるように漢沐熙を見る。しかし思いは届かなかったのか片目を閉じて腕を組みながら片手の親指を立てていた。突き放されたかのような行動にただただ溜息を吐くことしかできずにがっくりと項垂れた。
宁麗文は袖を捲って長く垂れ下がっている袖を袖口にできるだけ仕舞い込む。ある程度動きやすくしてから秦雪玲の隣に立った。小さく浅黒い手が宁麗文の手に一つのはさみを渡す。
「羊はね。結構毛量があるから、切るのが大変なの。先に手を突っ込んで毛と皮膚の境目を探すのよ。……ああ、一回私がやればいいわね。ごめんね、一旦返してもらえるかな?」
言われるがままにはさみを返して、秦雪玲はその場から数歩離れる。その瞬間、秦雪玲は軽々しく羊を器用に自分の足元に座らせる。宁麗文は思わず声を漏らして自分に顔を向けている羊とその上でしっかりと足で固定している彼女を交互に見るた。
「最初は外側じゃなくて中側から刈るのよ。胸とお腹を一方向にはさみを動かして……」
秦雪玲は宁麗文に目もくれずに羊の毛を奥深くから刈っていく。羊はその間動かずに、ずっと呑気に草を食べていた。
「次は内股ね。あまり下を刈りすぎるとこの子が痛い思いをしちゃうからなるべく慎重にね。こうやって刈って、この子を寝かします。寝かすときは右でも左でもどっちでも構わないわ。その代わり、この子が苦しくないように肩の下に手を入れてね」
説明をしながら次々と毛を羊から離す。あまりにも鮮やかに刈っていくもので、宁麗文は段々と心配に顔を青ざめていく。
(あまりにも速すぎてよく分からない……これって相当技術力が高いやつなんじゃないのか? 簡単にやってるけど初心者の私でもできるのか? 無理じゃないか?)
「宁麗文。姉ちゃんの話聞いてるか?」
秦麗孝が氷のようにかちこちと固まっている宁麗文の背中を叩く。我に返ったものの、しかしそれでも心配と困惑でいっぱいだ。
確かに宁麗文のような初心者ではこの羊の毛刈りという行為は大変難しいものではあるだろう。それを慣れている秦雪玲の手を見ながら学べと言われるのだから、いくら要領がよくても完璧にこなせる自信がない。
秦雪玲が全て刈り終えた羊毛は一枚の毛皮のように繋がっていた。軽くなった羊が軽やかにその場から離れていったのを見送ってからまだ固まっている宁麗文を見て微苦笑を浮かべる。
「難しいみたい。宁麗文さんには荷が重いのかも」
「え、い、いや。そうではないんですけど。不器用なので上手くできるか不安で……」
宁麗文は胸の前で手を横に振って言い訳を述べる。それを聞いた秦姉弟は少しの間唖然として、そして噴き出した。宁麗文は段々と恥ずかしくなって顔を手で覆う。秦麗孝は背中をバンバンと叩きながら笑った。
「いいんだよ。最初は誰しも慣れないことはあるんだから。さっきだって、最初は驚いてたろ? でもそのあとにすぐに慣れて桶いっぱいに牛の乳を出してくれた。だから羊の毛を刈るのだってすぐに慣れるさ。ま、漢沐熙はてんでダメだったけどな!」
「おい。俺を話題に乗せるな」
不満そうに眉を顰める漢沐熙に笑う秦麗孝の腕は彼の肩へと回る。宁麗文は瞬きをしてから秦雪玲を見やる。はさみについた毛を服の裾で拭っていた彼女もゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「とりあえず、やってみましょうか」
……一炷香、いやそれ以上だろうか。脂の含んだ羊毛がたっぷりとついている、はさみを持ちながら膝と手を地面につけて項垂れている宁麗文の前には、|斑《まだら》のような毛の短長の目立つ羊が彼を見下して呆れの息を吐いている。
(こんなの……できるわけないだろ!)
宁麗文は羊の毛を刈る前に秦雪玲の手つきを思い出しながらあれがどうだのこれがこうだのと、訳の分からない方向へと突っ切ってしまった。その結果、あれほど呑気に草を食みながらぬくぬくと過ごしていたはずの羊が彼に軽蔑と呆れの目を向けて息を吐くほどに残念な姿へと変えてしまったのだ。
「まあ、あれだ。やっぱり慣れるところとそうでないところはあるし、人に向き不向きはある。お前は乳搾りは得意だけど羊毛の刈りはできない。これで分かったんだからいいだろ!」
秦麗孝は豪快に笑いながら隣に屈んで背中を叩く。宁麗文は叩かれて痛む背中をよそに「やかましい」と目を吊り上げたかったが、羊ですらも呆れの目を向けられたという衝撃に悲しみ暮れるしかできない。動物にそういった目を向けられるのは人としてなんとも情けないことだろう。
「お前は背中を叩きすぎだ。宁麗文くんが泣いたらどうするんだよ」
「え? こいつ泣くのか?」
「……ちょっと黙ってもらえるか……二人共……」
宁麗文は手を地面から離して正座に座り直す。はさみを持ったまま身体を震わせていた。叩かれすぎて流石に痛くなってきている背中もだったが、漢沐熙ただ一人が知っている、宁麗文の泣きようまでも秦姉弟に知られたくはない。宁麗文はあの日の夜に死ぬほど泣いたことを思い出して羞恥に駆られていた。
「それぐらいにしておきなさい。もう夕方だから家に帰りましょう」
秦雪玲が地面に落ち込んでいる男に手を差し出す。宁麗文は顔を上げてから手を取って立ち上がる。周りを見渡すと先程までいたはずの牛と羊たちがいなかった。おそらくそれぞれの牧舎に帰って今頃は夕餉を食べているのだろう。空にはカラスがカァカァと鳴いていて空を羽ばたいている。宁麗文は少しかいた汗を乾かすように扇子を取って扇ぐ。
「私は宿を取って寝ます」
その言葉に宁麗文以外の三人が面食らう。宁麗文はただ首を横に傾げるだけだったが、我に返った秦雪玲が自身の頬に片手を添えながら首を手の方に傾げる。
「別に家に泊まってもいいのよ?」
「え!?[#「!?」は縦中横]」
「そうそう。無理に宿なんて探すなよ。しかもこの時間だから行っても無駄だ。大人しく俺と姉ちゃんの家に泊まれ!」
秦麗孝が宁麗文の肩に腕を回して頬をぐりぐりと拳で突く。宁麗文は唖然としながら、浅黒く押しつけてくる拳を引き剥がそうと腕を掴む。そのうち扇子で彼の顔を離すように押しつけていた。
「泊まれよ! 肉いっぱい食わせてやるよ。なんの肉がいい?」
『肉』という言葉に引き剥がそうとした手が止まり、扇子を下ろして秦麗孝に顔を向ける。口内に溢れんばかりの唾液が出ていて、頭の中で輝く羊肉が浮かんだ。
「羊が食べたい」
「まさか、ずっと口を押さえてたのはそういうことだったのか?」
またもや面食らう漢沐熙へ顔を向けてひとつ頷く。羊肉の次に思い出したのはムラのある羊で、すぐに忘れようと手を振った。
秦氏の邸宅に戻った四人は食間へ続いた。宁麗文はこの間に客としての不安に落ち着かなかったが、秦麗孝が真っ先に気付いて彼の肩に腕をまわしてはつらつとした笑顔を見せる。
「俺たちは着替えてくるから二人はそこで待ってな。すぐに戻るから寝るなよ!」
「寝ない寝ない。早く行け」
秦麗孝は従兄弟の呆れ顔と手を振る様子にへらへら笑いながら退室し、秦雪玲も弟に手を引かれながら退室していく。
「本当に仲が良いんだな」
残された二人のうち宁麗文がぽつりと呟く。
「私には青鈴がいるけど、秦麗孝と秦雪玲さんみたいにあんなに手は繋がないぞ」
「青鈴さんって養子の子か? たまに買い物してるのを見かけるぞ」
「そうなの? あの子、よく買い物に出てるから見かけやすいのかも」
宁麗文は視線を上に向けて思い出す。
青鈴は元から外に出るのが好きなのだ。それが普通の買い物でも、外でできた友人と遊びに行く時でも機嫌よく門をくぐり抜ける。青天郷では彼女をよく見かける人が多いので、江陵宁氏の世家内では一番親しみがある人物と言えるだろう。
漢沐熙は腕を組んで「そうなんだ」と笑う。背もたれに自身の背中を預けて眉を上げた。
「秦麗孝と姉さんは特別でさ。実は双子なんだ」
「双子!?[#「!?」は縦中横]」
これは思いがけない事実だろう。秦麗孝が秦雪玲のことを『姉ちゃん』と呼ぶので、てっきり歳の離れた姉弟だと思っていた。
口をあんぐりと開ける宁麗文に漢沐熙が口端を上げながら頷く。
「二人は春生まれで。花が芽吹いた後に生まれたんだって。生まれたあとに隣に並べるんだけど、その時に二人共手を握りあって離れなかったんだとよ」
漢沐熙は腕を解いて卓に肘をついて頬を支える。その先には食室の空いている戸から見えた、廊下で手を握りながら歩く二人が見えた。
「二人は喧嘩なんてしたことないんだって。たまに俺と秦麗孝が喧嘩するけど、姉さんはちゃんと止めてくれるし、なんなら秦麗孝と一緒に怒られるんだよ」
「はは、子供だ」
「うるさい。今はしてないぞ」
「はいはい。でも、不思議だな。生まれた後に手を握ってたって。何をしたらそんなに仲良くなれるんだろう」
「さあな。でも、少なくともあの二人の間には、俺たちに言わない何かがあるんだろうな」
遠くで双子が楽しそうに話をしているのを見つめながら、宁麗文は肖子涵のことを思い出した。四年経った今もどうしているか分からない彼を案じながら二人を自分と肖子涵に重ねて見ていた。
(肖寧は私のことをどう思ってるんだろう。大切な友人だと思ってくれてたら嬉しいんだけどな)
ぼんやりと思い出して、それから瞼を一度、二度と瞬く。あの夜の日を思い出して、また瞬いた。
(私に言えないことも、いつか教えてくれたらいいな)
瞼を伏せて卓に視線を移す。俯きがちのその表情は少し引き攣らせながら、無理やり笑うことしかできなかった。
それから一盞茶が過ぎた頃に秦姉弟が元の服に着替えて戻ってきた。既に厨で頼んでいたようで二人が帰ってきた頃合いに料理がずらりと並べられる。膳無の特産品として当たり前のものでほとんどが肉だったが、それに負けない量の野菜と一緒で華やかな彩りがなされている。宁麗文の目の前には昼に食べた羊の蒸しものが置かれていてすぐに涎でいっぱいになった。
全ての料理が届いて人数分の酒も最後に置かれたあとに各々料理に手をつける。特に宁麗文という来客もいてか、その時間は大いに楽しく過ごしていた。
程よく酒が回ってきた頃、酔ってきていたのだろう、浅黒い肌に赤らみが増えた秦麗孝が姉の肩に頭を乗せた。
「あら、小麗。眠くなったの?」
「ううん……」
秦麗孝は小さく頭を振る。その声は小さい子供のような甘える声だった。
「あなたったら、嘘ついちゃって。ごめんね、小麗はいつもこうなの。お腹いっぱいで眠くなったらこうやって私の肩に頭を乗せてこのまま寝ちゃうのよ」
「まだ眠くないよ、姉ちゃん……」
秦麗孝は彼女の首元に深く顔を埋める。秦雪玲は弟の肩を抱いて背中を軽く叩く。またもや面食らった宁麗文が漢沐熙に顔を向ける。おどけた様子で掌を上にして肩を上げて下ろしていた。秦麗孝に顔を向けるとややつり目の切れ長はうとうとと瞼を動かしていて、口は半開きになっている。しばらくじっとしているとその目は遂に閉ざされて寝落ちてしまった。
(あれ、秦麗孝って昨日はすっごい笑いながら唐公子の背中叩いてなかったっけ……あんまり覚えてないけど……覚えたくないものしか覚えてないけど……)
宁麗文は昨夜の様子を片手で額を押さえながら思い出す。けれども自分が言ったことしか出てこずに諦めた。
秦雪玲は微苦笑を浮かべながら従兄弟へ顔を向ける。見た漢沐熙が鼻で息を吐いてから立ち上がって、秦麗孝の脇の下に手を突っ込んで秦雪玲から引き剥がす。当の本人は気付かないまま口を開けながら小さいいびきを上げて従兄弟の腕を振りほどこうともしなかった。
「部屋に放りこんでおくよ」
「あんまり乱暴しちゃダメよ」
「分かってるって。宁麗文くん、姉さんに部屋を教えてもらってくれ」
漢沐熙の言葉に頷く。秦麗孝の夢見心地の良さそうな寝顔につい困り笑いを浮かべてしまった。
秦麗孝を引きずって食室をあとにする漢沐熙を見送った、残された二人も食間から出る。長い廊下を肩を並べて歩いていると秦雪玲が静かに口を開いた。
「宁麗文さんはあの子のことをどう思ってるの?」
「えっ?」
不意の問いに思わず立ち止まる。一歩遅く立ち止まった秦雪玲が振り返って微笑んだ。
「変な意味じゃないのよ。聞かせてほしいの。あの子、私にはああだけど沐沐にはふざけたりするでしょう? もしかしたらあなたにも私がいる時以上にふざけてるんじゃないかなって」
宁麗文は視線をあちらこちらと動かす。
最初の印象は最悪だった。邪祟から助けてもらったのはいいけれどボロボロのぐちゃぐちゃな格好を見て笑われたし、そのあとも悪びれた様子を見せなかった。
しかし、膳無に入ってからの彼はそうではなかった。まるで無邪気な子供でいて動物にも民にも優しい。もちろん普段のおちゃらけた態度も忘れてはいなかったが、この態度の中でも優しさが見えていた。いつしか宁麗文の思う秦麗孝は『生真面目で優しい姉想いの男』という印象に変わっていった。
「もちろんふざけてますよ。私が最悪な格好になった時に笑うし、許してもらう時に奢るとか言ってて」
「あはは、やっぱり。ごめんなさいね、うちの小麗が」
宁麗文は口角を上げながら首を横に振る。
「いえ。それでも親しみやすいと思っています。実際、彼がいなければ私も兄上も邪祟にやられていたし、彼がいたお陰で世長会の不満も一緒に吐き出せることができた。あの人は優しい人です」
秦雪玲は微かに目を見開いてからまた微笑む。
「そう言ってもらえて私も嬉しい。ここだけの話なんだけどね、あの子ああ見えて泣き虫なの」
「えっ」
秦雪玲は花を咲かすように笑った。
「私が風邪を引いた時も、怪我をしちゃった時も泣いて『姉ちゃんの代わりになりたかった』って言うのよ。怪我なんて、指をちょっと切っただけでも言うのよ? 大袈裟だと思わない?」
「……そ、そうですね……」
宁麗文は頬をぴくぴくと動かす。
(いつもはあんなにはっちゃけているような態度なのに姉の前では泣いてるのかよ!)
やはりあの男のことは分からない。しかし秦雪玲がいる手前で秦麗孝への悪態は付けられない。
「でも泣くのは私と沐沐の前だけよ。あなたは泣いてるところは見たことある? ない?」
「ないです。ずっと笑ってますよ」
「ふふ、でしょうね。やっぱり私と沐沐の前だけなんだわ」
秦雪玲は拳を口元に寄せて笑う。
弟の話をするのが好きなのだろう。その顔は仕事をしている時よりも柔らかかった。宁麗文はそれを見てより一層秦麗孝の気持ちが分かった。
(あいつ、すごく愛されてるんだな)
「そうだ。少し来てほしいの」
浅黒い手が促すように手を招く。続けて進む間に廊下の外を見た。
|今日《こんにち》は春冷えでか既に冷えていた。しかし、この邸宅だけはずっと暖かい。外をぼうっと見ていると進む歩が遅く見えた秦雪玲が宁麗文へと振り返る。
「どうしたの?」
「いえ。今日は冷えると思っていたのに、暖かいと思って」
「ああ、これはね。膳無全体に快適な温度を調整して掛けているのよ」
「術ですか?」
秦雪玲は頷く。
「秋都漢氏……沐沐の住んでいるところの壁があるお陰でより頑丈になったわ。だから雪が降っても寒くなんてならないの。あなたのところはどう? 寒いのかしら」
「そうですね、寒いです。ここよりも寒いけど、他のところよりかはまだマシかもしれません」
秦雪玲はまた目を細める。
しばらく廊下を歩いた先は露台【テラス】だった。先に秦雪玲が露台に腰を掛けて宁麗文もあとに続いて座る。
「小麗から私が嫁ぐことは聞いた?」
「聞きました」
「どこに嫁ぐかは?」
問いに首を横に振る宁麗文に秦雪玲が弱々しく口端をあげる。
「琳玩龔氏よ」
宁麗文は目を丸くして彼女へ顔を向ける。深い青の双眸はじっと自分の脚の先を見つめていた。
「政略結婚っていうのかしら。お父さんと龔宗主が話し合って決めたの」
「琳玩龔氏の息子は確か、|龔飛龍《キョウフェイロン》でしたよね」
「ええ。でも、彼の顔は見たことないの。顔も声も知らないまま結婚するのよ」
秦雪玲はただ前を向く。目の先は遠くに広がる草原だった。
暗い空の下の草原は闇に包まれている。どれだけ目を凝らしても見えないのは、きっと彼女の嫁ぎ先で起こるであろう不安な人生を表しているのだろう。
深い青は苦しげに揺らいでいて闇を見つめるばかりだ。宁麗文はしばし黙って、細く辿るように口を開く。
「……そう、なんですね。秦麗孝はその婚姻にどう思っているんですか?」
「ふふ、やっぱりね、嫌だって。私が嫁ぐのは嫌なんだって」
秦雪玲は俯きながら背中を少し丸めて露台にぶら下げた脚を軽く振った。不安定そうにゆらゆらと前後に振ってから力なくだらりと脚を止める。
「あの子ね、いつまでも私の元にいるのよ。私が結婚するんだから、少しぐらい姉離れしてくれたっていいんだけど……でもね、無理よね。私も嫌なの」
宁麗文は彼女の頭を見るばかりだ。
「今までここで生まれて育ってきたのに、急に知らない場所に嫁ぐのよ。牛も羊たちも、暖かいこの空気も小麗たちもいない……私の知らない場所に行かなくちゃいけないの。そんなの、怖いでしょう」
「……」
「ふふ、だからね、私も嫌なの」
秦雪玲は一つ息を吐いた。
「……私ね、毎朝あの子の髪の毛を編んでるのよ。今日も元気にいられますようにって、願いを込めて編んでる。私がいなくなったら、誰があの子の髪の毛を編んでくれるのかな……」
優しいはずの声色は段々と萎んでいく。しかしすぐに顔を上げて宁麗文へ笑いかける。だが、その表情は強ばっていて今にも泣きそうに見えた。
「しんみりさせちゃったね」
宁麗文は首を横に振る。
「私にも一緒に暮らしている女の子がいるんです。その子は私と兄上にだけ本当の自分を出してくれて。怒る時はしっかり怒ってくるけど、慰めてくれる時はちゃんと慰めてくれて……」
宁麗文はそこで口を噤む。
青鈴は琳玩の生まれだ。彼女の琳玩での生き方は知らない。けれど、彼女は今は江陵に住んでいる。
もし、青鈴も嫁ぐのならどこへ去ってしまうのだろうか。不安ながらも秦雪玲の話を聞いて心做しか淋しい気持ちを抱えてしまった。
瞬く深い青ににっこりと微笑む。
「青鈴は……あの子はあなたの嫁ぐ先の生まれなんです。でも、色々あってうちで暮らしてます」
秦雪玲は小さく声を漏らす。
「あの子の記憶は多分、江陵で暮らしている時の記憶しかないけど……あなたの話を聞いて、私も、あの子が嫁いだらきっと……淋しくなるなって思いました」
宁麗文はすぐに頬を指で掻きながら微苦笑を浮かべる。
「全然関係ない話しちゃってすみません」
秦雪玲は首を横に振った。
「楽しかったからいいわ」
先程までの憂いのある表情は少しばかり安堵へ変わっている。
「明日は小麗から聞いてみて。多分だけど、あの子ね。不機嫌になっちゃうかも」
「自分で言っちゃうんですか……」
「ふふ」
先に秦雪玲が立ち上がった。宁麗文も続いて立ち上がる。
「もう夜も遅くなるわ。早く案内するわね」
露台から踵を返す秦雪玲をあとを追いながら、軽く振り返って草原の奥の闇を見る。しかし空を見上げれば星が綺麗に瞬いていた。
秦雪玲に案内された客室の卓の上にある燭台のろうそくに火を点ける。ぼんやりと揺らめく柔らかい光は点けた人物を優しげに温めた。
脱いだ外套を屏風に掛けてから髪飾りを外して卓に置いて着替えを済ませる。寝台に腰を掛けてろうそくの光を見つめながら、あの双子のことを考えていた。
(あんなに仲の良い姉弟は初めて見たな。秦麗孝は最初は嫌な奴だと思ってたけど、蓋を開けてみれば憎めない奴だったし……秦雪玲さんが心配するのも分かる気がする)
一つ息を吐いてから窓を見る。白い紙が貼られていて小さな光が橙色に染めていた。窓に映る柔らかな明かりと自分の影を見つめながら、次は青鈴を思い浮かべた。
(青鈴もいつか、お嫁さんに行っちゃうのかな)
青鈴が嫁ぐのはこの上なく喜ばしいものだ。しかし共に過ごしていて急にいなくなってしまう淋しさも増えていくだろう。
青鈴と宁麗文は生まれこそ違えど、生活を共にして互いに唯一の理解者として生きてきていた。この人生の中で彼女を超える理解者などどこに存在するだろうか。
宁麗文の半生の中で青鈴がいなければ耐えられない事実もあったし、宁雲嵐や他の宁氏に関わりのある者から与えられる感情を覚えることもなかっただろう。更に兄である宁雲嵐や少数の師兄へ出せる感情も出せずに自分を苦しめていたに違いない。
青鈴は、宁麗文にとってそう思えるほどに大切な存在なのだ。
(行ってほしくないなぁ……)
切なそうに鼻から息を吐いて、手を振って火を消す。橙が消えて暗くなった部屋で布団に潜り込んで強く瞼を閉じた。