第三章 晴れの行方
十七 羊肉
よく晴れた朝に猫のように唸りながら伸びをして起きる。ぼんやりとした頭でうとうとと前に傾けては起きるを数回繰り返してのそのそと寝台から降りた。外から「起きたか? 飯あるから来いよ!」と元気いっぱいの秦麗孝の声が聞こえる。宁麗文は寝起きの顰めっ面のまま片手で耳を塞ぎながら着替えて外套を羽織って客室から出た。
食室に着くと夜とは違った食事の風景が広がっていた。艶のある|粟《あわ》の飯に牛の乳で煮込んだキジの肉、彩られている野菜の上には大きめの小籠包があり、そして別の皿にはてらてらと焼かれている羊の肉も置いてあった。どうやら秦麗孝は厨で家僕に『宁麗文は羊肉が好きだから出しておけ』と告げたようだ。
宁麗文は昨夜と同じ席に座って隣にいる漢沐熙に顔を向ける。
「朝ってこんな感じなのか?」
「そうだよ。というか昨日は大丈夫だったか?」
「何が?」
宁麗文は首を傾げる。
「あんた、酒飲んでる時ああなってただろ。だから姉さんに送ってもらってる間泣いてなかったかなって思って」
「なっ……」
片端の口元を上げてからかう漢沐熙に、少しだけ苛立った。
秦双子も席に着いて食事を始める。牛の乳で煮込まれたキジはふわりとしていてまるで飲めるような柔らかさだった。そして羊の肉は昨夜も同様に宁麗文を虜にしている。食事に舌鼓を打ちながら目を弧に描いていた。
(やっぱり美味しい。江陵にも出してほしい……本当にいつでも食べたい……)
しかし、やはり別の地域に出すとなっても鮮度はやや落ちてしまう。生肉なら尚更であり、荷車で運ぶとなると道に慣れない者だと数日も掛かってしまうだろう。宁麗文はそれに憂いを感じて落ち込みながら食べていく。その隣で漢沐熙が食事の途中で声を上げた。
「そういや昨日、広場で猿の芸達者を見たんだ。いつから外部の芸達者を入れるようになったんだ?」
秦麗孝は箸で粟を食べながら「先週からだよ」ともごもごと言う。秦雪玲は彼の口元についた粟を指で拭って続けた。
「ほら最近、江陵でもお店を出してきたじゃない。お父さんがもっと膳無のお肉とか乳製品を広めたいからって。あと皆の娯楽の一種になってほしいからって言ってたわ」
「へえ」
漢沐熙は興味のなさそうな返事をして羊肉を頬張る。秦麗孝は粟をかき込んでからキジの肉を食べる。宁麗文はやや呆れながら彼らの食べっぷりを見ていた。
(従兄弟でも似すぎてないか?)
「あ、そだ。今日は俺も姉ちゃんも仕事がないから観光に付き合ってやるよ」
秦麗孝が食べている途中で箸を止める。宁麗文は瞬きをして「そういえば」とあることを思い出した。
「君、よく散歩に行ってるって言ってたけど。仕事ってどのぐらいの頻度でやってるの?」
それに秦雪玲が答える。
「私たちの仕事は月に二回よ。体調管理以外のそれぞれ細かい担当は違うけど、小麗は牛の搾乳中心で、私は羊の毛刈り中心なの。だから小麗はよく外に出ているし、私もお家でのんびりしてるわ」
「たまには姉ちゃんも一緒に来てくれよ。俺一人だけだと淋しいよ」
宁麗文は初めて会った日のことを思い出す。その時は豪快に笑っていたのに、その実淋しい面もあったのかと考えていた。考えれば考えるほど分かるようで分からないのがこの秦麗孝という男なのかもしれない。
そのあとはトントン拍子で秦姉弟と漢沐熙との四人で膳無をまわることになった。
秦氏の邸宅から出て蒼茫亭に着き、秦麗孝は秦雪玲と相変わらず手を繋ぎながら住民に声を掛けられればにこにこと笑顔を浮かべて返すし、姉の秦雪玲のことを褒めれば「そうだろ!」と自分のこと以上に喜ぶ。二人の後ろを着いていく宁麗文は隣にいる漢沐熙に扇子で口元を隠しながら聞いた。
「あのさ、漢沐熙。秦麗孝が泣き虫だってこと知ってる?」
漢沐熙は瞬きをして腕を組む。
「当たり前だろ。昔から喧嘩する度にあいつが先に泣いてたし、姉さんがいなくて一人だった時はしょっちゅうだったぞ」
「喧嘩の時でも泣いてたのかよ……」
宁麗文は呆れながら扇子で軽く扇ぐ。視線を様々な場所に動かしていると昨日の広場が目に映った。そこは人はまばらで昨日のような騒ぎはなく閑散としていた。宁麗文はふと立ち止まって広場を見る。一歩踏んで隣に宁麗文がいないことに気付いた漢沐熙が振り返る。
「宁麗文くん? どうしたんだ?」
「……あ、いや、なんでもない」
宁麗文は我に返って三人の元へ慌てて着いていく。
広場には人があまりいない。しかし芸達者には見えない数人の男がいた。彼らの手元、足元にはいくつかの囊に入れられた大きな荷物がある。この場で広げることもせず話をしているが顔つきは他の人間のように朗らかなものではなかった。
(あの囊の中に入ってるのって。なんだろう?)
宁麗文はまた小さく振り返る。男たちはこちらに気付いていないがまだ囊の口に触れていない。
(きっと取引とかだろうな。変な感じするけど、気のせいかも)
はたまたどこかで屋台を開くための準備段階に入っていて、その場所を決めているだけなのかもしれない。どの道些細なことだ、と考えを捨てた。
途中で秦麗孝が姉から手を離して店の中に入る。看板には乳製品のようなものが書かれていて、おそらく昨夜の乳の入った茶のようなものが売られているのだろう。少し時間が経って外へ出た秦麗孝は両手にいくつかの乳で固めたであろう固形物を手にしている。近くで待っていた三人の元へ駆けて相変わらずの笑顔でそれぞれを見せた。
「これは|乾酪《チーズ》って言うんだ。俺たちの先祖がずっと作ってて、今も続いてる。多分だけど江陵にはないんじゃないか?」
宁麗文は扇子を閉じてまじまじと乾酪を見る。固形物になっているそれからは少し乳の匂いがした。
「ないかな。初めて見る」
「だろうな。一応保存が効くようにはしてあるけど、夏場だとあんまり長くは続かないから結局はここだけだ」
秦麗孝は姉の口に一口分の乾酪を入れる。秦雪玲はゆっくりと噛み締めていて、それを見て目を弧に描くばかりの秦麗孝は次々に漢沐熙と宁麗文の口に乾酪を詰め込んだ。強引に詰められた二人は息を詰まらせて口から乾酪を吐いて大きく咳をする。
「おい死ぬだろうが! せめて渡すなりなんなりあるだろ!![#「!!」は縦中横]」
漢沐熙は眦を吊り上げて彼に怒りを向ける。秦麗孝は一口分よりも大きい乾酪を自分の口に放り込みながらただただ笑うだけだった。
四人で秦麗孝が買った乾酪を食べながら話をして蒼茫亭をぐるりとまわる。広場に戻って座れる石段を探して先に秦雪玲を座らせて、青年たちも彼女を囲むように並んで座る。
「宁麗文。膳無は楽しいだろ?」
秦麗孝がにこにこと歯を見せながら笑顔を見せる。
「楽しいな」
宁麗文は扇子を開いて口元を隠しながら花が咲くように微笑む。
「桂城でも思ってたけど各世家の特色がすごく現れてるし、他でじゃ見られない特産品だってある。しかも肉の鮮度も落ちずに新鮮なままだ。もちろん、加工品もあるけど江陵で食べるのよりもずっと美味しい。すごくいいところだな」
宁麗文が正直に話している間、三人は目を丸くしていたが徐々に笑顔に変わっていく。ふと三人からの注がれる視線に気付いた宁麗文がそちらへ顔を向けると満面の笑みを浮かべられているもので面食らってしまった。
「……え、何?」
「いや、そこまで褒めてくれるとは思わなかったから。姉ちゃん、聞いた? 膳無ってやっぱりすごくいいところだって!」
「聞いてたよ。ふふ、褒めてくれるってこんなに嬉しいのね。宁麗文さんが楽しんでくれているなんて、これ以上ない喜びよ」
双子の喜びに気恥ずかしくなってきて扇子で顔を全部隠す。扇子の中では顔を赤くしながらはにかんでいた。
宁麗文の隣に座っていた漢沐熙が彼の肩に肘を乗せて片方の口を上げる。
「あんたは素直に感想が言える人なんだな。そういう人間は中々いないから嬉しいよ」
「そうかな? 普通は皆、いいと思ったことを言わないのか?」
「言わない時もある。自分では良いと思っても相手にしてみりゃ悪いと思ってるかもしれないからな。そういうところは難しいんだよ」
「うぅん……」
宁麗文は顔の熱さを逃すために扇子を動かしながら首を傾げる。乾酪の最後の一口をよく噛んでから飲み込んで、宁麗文は一度瞼を閉じて開けた。ふと江陵にいる宁雲嵐と青鈴を思い出した。
「ねえ、今から兄上と青鈴を呼んでもいいかな? 二人に羊肉を食べさせたいんだ」
秦麗孝に声を掛けると彼は眉を上げて親指を上げる。
「当たり前だろ! 姉ちゃんもそれがいいよな? 人数が多ければ多いほど楽しくなるんだよ。せっかくだし、一緒に食べよう!」
「いいよ。私もちょうど青鈴さんに会ってみたかったところなの」
嬉しそうにはしゃぐ双子を見た宁麗文は扇子を閉じて懐から札を出す。石段の上でやるには何かと邪魔になりそうなので自分の膝の上でやることにした。膝をしっかりと閉じて札に霊力を込めて宁雲嵐に連絡をする。
そこから半時辰ほど膳無の門の前で話しながら待っていると、連絡を受けた宁雲嵐が御剣で青鈴と共に膳無に降り立った。
「兄上。青鈴も。ごめんね、急に呼んだりして」
「いや、ちょうど暇してたから大丈夫だ。青鈴も退屈していたみたいだしな」
宁雲嵐は視線を弟から秦雪玲に向けて拱手をする。青鈴も続けて胸の前に重ねた手を掲げる。秦雪玲も二人に向けて拱手をして三人はほぼ同時に手を下ろた。
秦雪玲は青鈴の元に一歩進んで彼女の手を握って上げる。青鈴は瞬きをして握られた手と彼女の顔を交互に見る。
「あなたが青鈴さんね。宁麗文さんからお話は伺っているわ」
青鈴は宁麗文が自分のことを話したことに驚いて視線をずらして彼を見る。その目は「何か余計なことでも言ってないでしょうね」とでも言いたげだった。宁麗文はすぐに首を細かく横に振って否定した。
そのまま二人を連れて食事処に入る。夕方前だからか人は少なかった。六人だけでは人が多すぎるということで二階にある少し広い個室を秦麗孝に貸しきってもらって二階へ行く。宁麗文は青鈴を挟んで宁雲嵐と座り、他の三人は秦雪玲を挟んでそれぞれ隣同士に座った。
「皆は何が食べたい? 宁麗文くんは羊肉だろ?」
宁麗文は「うん」と即答して追加で宁雲嵐と青鈴の分も頼む。秦姉弟と漢沐熙は適当に注文して先に届いた茶を飲んでいた。
「そういえば、秦雪玲殿は確か嫁ぐんじゃなかったか?」
兄の発言に面食らって彼を見る。宁雲嵐は注がれる目線に呆れた息を吐いた。
「父上の代わりに会議に出席してたから知ってるんだよ」
「父上の代わりに? 何があったんだ?」
「ただの風邪だ」
宁麗文は珍しい、とただただ簡単に思ってはまた前を向く。この話は昨夜本人から聞いたものなので特に口を開くこともしなかった。
「そうよ。琳玩龔氏のところに嫁ぐの」
「琳玩龔氏!?[#「!?」は縦中横]」
次に面食らったのは青鈴だ。青鈴は元は琳玩の生まれであって、それなりの特色を知っている。まさかこの浅黒い肌を持つ女があの豪華絢爛な世家に嫁ぐとは思わなかっただろう。
秦雪玲は青鈴に微笑んで、隣にいる秦麗孝は眉間に皺を寄せたまま黙り込む。宁麗文はその顔を見て昨夜に彼女が言っていた言葉を思い出して「なるほど」と浅く呆れ笑ってしまった。
「龔飛龍と婚姻の儀を結ぶんだな。場所はやっぱり琳玩か」
「ええ。だけど、彼の顔も声も知らないの。当日になって初めて会うのかしら。でも前日に膳無にも来られるみたいよ」
「あいつはやめといた方がいいよ。というか俺が絶対止める」
急に駄々をこねる子供のような声を出す秦麗孝は茶を一気に飲み干して乱暴に茶器を卓に置いた。
「あいつは生粋の女嫌いなんだ。そんな奴に姉ちゃんを行かせるわけにはいかねえ」
不満という不満を口に出す秦麗孝は姉の肩に頭を乗せる。秦雪玲は微苦笑を浮かべていて漢沐熙は腕を組んで息を吐いていた。対して宁雲嵐は秦麗孝の表情に面食らって青鈴は義兄に怪訝な顔をしていて、宁麗文だけは扇子の奥から呆れ笑いを浮かべるばかりだった。
「そんなこと言ったって何も変わらないだろ。姉さんが龔飛龍の嫁に行くのは決定してるんだし」
「今すぐ破棄すればいいだろ。適当な理由つけてさ」
「たとえば?」
漢沐熙がやや腕を解くことなく問う。しかし秦麗孝はその先を言えずに口ごもってしまった。急に口を閉ざした彼に双子の姉以外の全員は答えを待つ。秦雪玲は目を伏せながら小さく笑って乗せられた肩の逆の手で双子の弟の頭を撫でた。
「あなたの言いたいことは分かるわ。けど、しょうがないことなの」
「姉ちゃん……」
秦麗孝は姉から離れてそっと手を握る。秦雪玲は目を細めてその手を握り返した。
注文が届いて大量の料理が卓に並べられる。肉に関しては羊肉が多めなのもあって、羊毛刈りの時からずっと待ちわびていた宁麗文は目を輝かせながら涎が溢れそうな口元を腕で覆う。
「と、とりあえず。二人共、羊肉食べてみてよ。絶対気に入るからさ」
出すぎていた涎をなんとか飲み込んで腕を離す。宁麗文に勧められた江陵宁氏の子供たちは箸でその肉を摘んで口に入れる。するとあまりにも美味しすぎて好みの味だったからか、目を輝かせて箸を動かす速度が上がった。宁麗文は二人の輝く目に目を弧に描いていたが、ふと器の中を見れば残りの一個になっていた。箸で慌てて掴んで心の中で泣きながら味わう。沈む宁麗文を見た漢沐熙がまた羊肉を注文して、今度は宁麗文も箸の速度を上げる。他にも牛、キジ、うさぎ──と多様な肉料理をそれぞれ食べて、二時辰も経った頃に宁雲嵐と青鈴が帰ることになった。
「お前はまだ帰らないのか?」
宁麗文は兄からの問いに頷く。
「まだ膳無について知り尽くしてないからね。それに、明日もまたまわるんだ」
「程々にしておけよ。俺も青鈴も暇じゃないんだし、そもそも父上が風邪をひいてるんだ。あんまり長く家を空けてたらまた心配されるぞ」
「はは……」
宁麗文は扇子を広げて呆れ笑う。
(もう二十一なんだぞ。いい加減にしろよ……)
「秦雪玲さん。琳玩に行かれるのでしたら、どうかお気をつけて」
青鈴が秦雪玲の手を握る。秦雪玲は微笑みながら頷いた。
「また一緒にご飯を食べましょう。今度は江陵で食べたいわ」
青鈴は彼女の言葉に顔を明るくする。きらきらと星のように煌めいた瞳で「ぜひ!」と返した。
そうして宁雲嵐は豪静に青鈴も乗せて暗い空を飛んで江陵へ帰る。それを四人で見送ってから秦氏の邸宅へと帰る。秦双子を前方に、宁麗文と漢沐熙を後方にと進む。
「そういえば、秦雪玲さんの婚姻の儀はいつなんだ?」
宁麗文が隣の漢沐熙に問う。婚姻の儀となれば日にちは重要だろうし、それまでの準備もしなければならなくなる。漢沐熙は彼を一度見てから前を向いた。
「二週間後だ」
「二週間後。速いような遅いような」
「姉さんにとっては速いだろうな。あっちにとっては遅いと思うけど」
「琳玩はもう準備の段階に入ってるのかな」
漢沐熙は肩を上げて落とす。それを聞かれても琳玩龔氏の人間ではないから答えようがない。宁麗文は一つ息を吐いて双子を見た。
二人は柔らかな灯りの中でも手を繋いでいた。互いに顔を見合わせて話をしながら笑い合う。宁麗文はこの二人に少し羨ましいと思った。
この双子の周りは沢山の愛で溢れている。春に共に産まれ、最初から手を繋いで生きている。そして互いに離れることなく多くの愛を受けて育ってきていた。
そんな双子は二週間後に、秦雪玲の婚姻によって離れ離れになってしまうのだ。
「……ねえ、漢沐熙」
宁麗文が漢沐熙へ小声で掛けながら首を傾ける。
「あとでさ、秦麗孝も誘ってお酒でも飲もうよ。絶対秦雪玲さんのことずっと言うよ」
同じように宁麗文の方へ首を傾けていた漢沐熙も一度瞬いて小さく噴き出す。
「そうしようぜ」
二人はニヤニヤと彼を見ながら笑う。当の本人である秦麗孝は後ろから来る視線に悪寒を感じた。
秦氏の邸宅に着いた宁麗文と漢沐熙は姉から引き剥がされた秦麗孝を引きずって漢沐熙がいつも泊まっている部屋へと移動する。『|曇天《どんてん》』という看板が掛けられていて、中に入れば結構マメな性格なのか、部屋の中はきちんと整理整頓されていた。
「なんで俺を連れてきたんだよお!?[#「!?」は縦中横]」
部屋に入る前、そして入ったあとでも二人に両腕を掴まれた秦麗孝が叫ぶ。当の本人たちはニヤ……と口の端を上げて何も言わずに卓の前に座らせる。
漢沐熙が通りすがりの家僕にひとかめの酒と人数分の盃を頼んで持ってきてもらった。部屋に届いた酒と盃を卓に並べて宁麗文がなみなみと盃に酒を注ぐ。漢沐熙が肘を卓に置いて盃を持って秦麗孝に聞く。
「今の気分はどうだ?」
「いいとは思ってねえ」
「どういう意味で?」
「……ここに連れてきた意味だよ」
秦麗孝はぶつくさ言いながらも盃を持って待つ。宁麗文も持ち上げてから三人で乾杯をして一気に飲んだ。
「お前、二週間後の姉さんの結婚についてどう思う?」
秦麗孝は自分で酒を注ぎながら不機嫌に唇を尖らせる。酒かめを置いて盃を持ったまま飲まずに水面に映る自分を見ていた。
「そりゃあ嬉しいよ。……けど、けどさ。ここから離れんのが嫌」
秦麗孝はまた酒を飲んで一つ息をつく。
「なんで結婚なんかするんだよ……それも龔飛龍なんかと……あいつは女嫌いだって言われてんのに……」
「なんで龔飛龍は女嫌いって言われてるんだ?」
疑問を口にしたのは宁麗文だ。彼は世長会で秦麗孝たちを見ても関わったことがあるのは唐秀英、秦麗孝、漢沐熙、そして肖子涵の四人だけだ。当然の如く龔飛龍の顔と名前を知っていても性格までは知らない。漢沐熙は片方の口端を上げて酒を注ぐ。
「それを説明するにはまず琳玩の特徴からだな。あそこは花街と呼ばれていて、複数の遊郭と青楼が並んでいるんだ。遊郭と青楼の違いは知ってるか?」
「知らない」
違いの分からない宁麗文は即答し、漢沐熙はそれに笑う。
「遊郭は主に春を売る。春ってのは……まあ、あれだ。身体を売るってことだ」
薄茶の眉は顰めて首を傾げる。
「身体を売るってなんだ?」
漢沐熙と秦麗孝は口をぽかんと開ける。
まさかこの宁麗文という男は女の春を知らないとは!
二人は純粋潔白の彼に、そして自分のあまりにも汚れた知識を持っているという恥に心の中で頭を抱える。漢沐熙は盃を置いて肘をついた方の片手で額を押さえて眉を深く顰めた。
「……あのな……身体を売るっていうのはな……」
ちらりと助けを求めるように秦麗孝を見るが目も合わせてくれやしない。漢沐熙は小さく舌打ちをしてそのまま睨む。宁麗文の顔を見ればまだ首を傾げて盃を持っていた。
「……秦麗孝、お前もなんか言え……」
「お前から始めたんだろ」
「クソ……」
「身体を売るっていうのは労働力って意味なのか?」
宁麗文は自分の中の解釈を噛み砕いた。
「なんでそうなる?」と呆れつつも、漢沐熙の心の中では「このまま勘違いで生きてくれ」とありがたみに手を合わせていた。
「ああ、そういうこと。遊郭はそんなもんだ。金さえ払えば誰でも行けるし簡単な仕事をしてくれる。で、青楼ってのは教養がないと入れない。科挙にも合格できるような頭のいい女性がそこにいて、そこに行く人は金と教養がなけりゃ入れない。主に政治家とか俺たちみたいな者とかな。そういう人から頼まれた仕事をするのがほとんどかな」
「君たちはそこに行ったことがあるのか?」
それに二人は断固として「ない」と答える。
「行ったら行ったで変な噂が立つだろ。そもそも俺たちは修士なんだから修練しなきゃダメだ」
「なんで変な噂が立つんだ?」
次々と矢継ぎ早に湧き出る宁麗文からの問いに漢沐熙は遂に両手で顔を覆った。
(誰か助けてくれ! なんでこんなに質問攻めされなきゃならないんだよ!![#「!!」は縦中横])
しかし彼を助ける者はいない。秦麗孝には突き放されてしまうし、宁麗文は今だ分からないままなので意味がない。
「……」
「……」
「おい、なんで黙るんだ? 教えてくれよ」
宁麗文は漢沐熙の肩を揺らす。しかしいつまで経っても口を閉ざしたままで一向に開いてくれはしない。また秦麗孝も然りで何も言わず、宁麗文は納得のいかない顔のまままた酒を呑んだ。
「……それで、龔飛龍はその花街に囲まれて生まれて育ってきたんだ。当然暇になったら町に行って遊んだりする。もちろん遊郭にも顔を出したりするだろうし、中に入るかまでは分からないけど。まあ、そんなことはどうでもいい。で、あいつはそこで事件だか事故だかに巻き込まれたんだと」
「巻き込まれた?」
漢沐熙は酒を飲んで頷く。
「俺も秦麗孝も詳しくは知らない。ただ、それのせいで塞ぎ込んで遊郭にも顔を出さなくなった。そこから修士として修練するようになって、たまに所用で女性と話をするときも距離を置くような冷たい態度を取るようになったんだってさ」
「ふうん」
宁麗文は酒を飲みきって盃に残りの酒を注ぐ。空になってしまった酒かめを卓に置くと秦麗孝が戸を開けて家僕に追加の酒を頼んだ。
少ししてほどよい酒の回りが来たところで秦麗孝が口を小さく開く。
「……俺ってさ。本当に昔から、それこそ生まれた時から姉ちゃんのことが好きなんだよ。他の誰よりも俺のことを理解してくれて、考えてることも分かってくれて。このまま姉ちゃんと生きたかったんだよ。だけど……けど、結婚するから。姉ちゃん、きっと俺に姉離れしてほしいとか思ってる」
自分の中の想いを呟く彼を二人はずっと聞く。
「姉ちゃんは俺の髪の毛を毎日編んでくれるんだ。手も優しくてさ、ずっと編んでいてほしいんだよ。それももうできなくなるんだ。俺は次期宗主になるし、いつまでも甘えられるわけにはいかないのは知ってるし分かってる。いつか俺にも妻ができて姉ちゃんから離れるんだって分かってる。分かってるけど、それでも、俺の中では姉ちゃんが一番なんだ」
秦麗孝は瞼を伏せて残りわずかの盃の中の酒を回す。くるくると回って手を止めれば小さく渦巻きを止めていく。それを彼はずっと見ていた。
「どうすればいいんだろうな。結婚するのは嬉しいことだけど、してほしくないんだ」
「……決まったことだからな。俺たちにはどうすることもできないさ」
漢沐熙は酒を一気に飲んで息を小さく吐く。
「喜んであげるしかないよ」
背中を軽く叩く手に秦麗孝は眉を下げて小さく頷く。
宁麗文は昨夜の自分の中での思考を思い出す。
(私もきっと秦麗孝みたいに悲しくなるだろうな。決まったことでも。離れたくないし……)
持つ盃に入っている酒の中に映る自分を見て、くるりと一度軽く回して水面を作った。小さくうずまく水面は自分を掻き乱してからゆっくりと元に戻す。
(うん、やっぱり嫌だな。私も青鈴と離れたくない)
秦麗孝がほぼやけくそで追加の酒かめを頼んで全員で消費するを繰り返すと漢沐熙の部屋に転がっているのは三かめの酒壺だった。その頃には漢沐熙以外の二人は机に突っ伏したまま寝てしまっていた。
「またやらかした……」
漢沐熙は遠い目をしながら卓から落ちて転がった酒かめを回収して家僕を呼んだ。
それから一週間が経った頃。宁麗文は相変わらず秦氏の邸宅にずっと泊まっていて、家に帰ろうともしなかった。漢沐熙が帰ろうと思った時に一緒に着いていこうと思っていたが、彼は従兄弟で親に連絡もしているのだろう、特に帰る素振りもせずにずっと膳無にいた。
蒼茫亭の中をまわっている二人は秦麗孝が教えてもらった乾酪を食べながらだべっていた。
「漢沐熙はまだ帰らないのか?」
宁麗文は流石に心配になって彼に聞く。漢沐熙は乾酪を食べきってから頭の後ろで腕を組みながら笑う。
「別に。長くて一ヶ月ぐらいここにいたことあるし、気にすることはないな。あ、もしかしてもう帰りたいのか?」
「いや、そうじゃないんだけど……親が心配しないのかなって。いくら従兄弟でも一回は家に帰った方がいいんじゃないのか?」
漢沐熙は腕を解いて歯を見せながら手を横に振る。
「父さんももう分かってる。元々俺は動物が好きでずっと膳無にいるんだ。もちろん秋都にだって動物はいるけど、うちは工芸品とかもあるからさ。動物の立ち入り禁止の場所とかもあるんだ。だからほとんどここにいるんだよ」
膳無に来た初日に唐秀英が言っていたことを思い出す。自ら動物が好きと言うのなら自他公認なのだろう。
「犬と猫だったらどっちが好き?」
宁麗文も食べきって扇子で扇ぎながら聞く。漢沐熙は片方の肘を支え、支えられた方の手で顎を支える。ずっと唸りながら熟考を始めた。
「やっぱなし! どっちも好きなんだな!?[#「!?」は縦中横]」
「いや、そうじゃないんだ。犬と猫とでいいところがありすぎてそれぞれ紹介しようかなって思って……」
「き、君……よっぽど動物が好きなんだな……」
扇子で口元を隠すがピクピクと動く。引き呆れている宁麗文に漢沐熙は頬を指で掻きながら照れていた。
蒼茫亭を歩けばここ一週間の中で人の数が増えていることに気付く。扇子で小さく顔を扇ぎながらあちらこちらへと視線を変えて行く。
(商人以外の外部の人間を入れ始めたのが二週間前って言ってたけど、それにしても多すぎるな。まあ、ここでしか食べられないものだっていっぱいあるもんだし。こんなもんだろ)
ふと見た路地裏辺りに数人の人影が見える。ここからはあまり聞こえはしないが、話し声も聞こえた。漢沐熙に目配せをすると宁麗文と同様に気付いたようで、二人は路地裏から見えない場所で息を潜める。
他の喧騒からは到底見えないはずの男二人はまるで何かを企てているかのように腰刀の鞘をいじっている。そして手には小さく薄い囊が握られていて、それは数個も見えた。談笑をしているようだが、どこか怪しく──いや、良からぬことを考えているかのような笑みを浮かべている。これに宁麗文と漢沐熙は怪訝に首を傾げた。
「なんだあの二人」
すかさず漢沐熙が口を出す。
「良くないことでも企んでるんじゃないか? まあ、大方遊郭に行く話でもしてるんだろ」
「なんで遊郭の話が出るんだ?」
またもや繰り出された質問に漢沐熙は無の表情へと変えた。何も言わない彼に宁麗文は怪訝に首を傾げて見る。
「漢沐熙?」
しかし漢沐熙は一向に宁麗文を見ようとはしなかった。聞かなかったふりをして男たちの様子を見る。
「あ、もう出てきた。なんだったんだろうな」
彼らは人混みの中に入ってしまって探すのも無理な状況になってしまった。宁麗文と漢沐熙は互いに顔を見合わせて首を傾げながらも、そのまま大通りの中に入って見てまわった。