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第三章 晴れの行方

十八 訪れた客

 秦雪玲の結婚まで残り三日。相変わらず膳無には人が押し寄せるように観光客が多く増えてきている。それでも江陵には適わないが、ほとんどは膳無にしかない名産品を求める者が多かった。  「広場でも芸達者も増えたよな。娯楽が増えるっていうのはいいことだ」  様々な技を披露する芸達者をご機嫌よく鑑賞する宁麗文に漢沐熙は胸の前で腕を組みながら彼へ顔を向ける。  「あんた、こういうのが好きなのか?」  観客の奥で姿勢を変えながら数枚の皿を細い棒で回す芸達者を眺める。宁麗文はひとつ頷いた。  「四年ほど前まではずっと家にいて全然観られなかったからね。今こうやって観れるのが嬉しいし、元々すごく好きなんだ」  「へぇ」  細い棒で回していた皿が遂に止まった。芸達者は皿を華麗に下ろして最後に拱手をする。周りからの歓声が上がって彼の目の前に置いてある箱に様々な貨幣が投げ込まれた。宁麗文も例にもれなくほんのわずかな銀貨を投げてその場を去る。  蒼茫亭を歩いている途中で漢沐熙が一度立ち止まった。続いて宁麗文も止まって顔を覗き込むとにっこりと笑みを浮かべている。  「どうしたんだ?」  「秦麗孝と姉さんのところに行こう。今日は牛の出産を手伝っているらしい」  「出産?」  漢沐熙が頷く。  「言ってなかったけど、二人は出産の手伝いもしているんだ。たまに動物の中で逆子だったり難産だったりがあるから、それを助けるためにやってる。もちろん二人ともその心得はあるし、ちゃんと他の酪農家とも一緒にやってるよ」  「へえ。二人ってやっぱりすごいんだな」  感嘆の声を上げる声に漢沐熙はまた口元を上げる。  「すごいだろ」  広場から一炷香ほどした頃に双子が働いている草原に着いた。見渡す限り複数の牛や羊はいたが、双子の姿は見当たらない。辺りを見回していると漢沐熙が宁麗文の肩を叩く。  「あそこにいるよ」  人差し指で示した場所へ向かえば、段々と場所が掴めた。そこはしっかりとした造りの牛舎で、辺り一面に獣と糞の匂いなどと流れる。宁麗文は形容しがたい思いを感じたが、杏華坊の頃を思い出せばなんとも思わなくなった。  中に入れば今まさに一頭の母牛が出産をするところだった。母牛の周りには数人の酪農家がいて、その中に当然の如く双子もいた。漢沐熙と宁麗文は声を掛けることもせずに彼らのやることに目を向けている。  母牛はよろよろと身体を揺らしており、尻尾の下から水が流れていた。秦麗孝が彼女をゆっくり座らせてそこから時間を掛けて酪農家は激励の言葉を掛け、母牛の尻から前脚が覗く。それをすかさず秦雪玲が引っ張り、残りの身体も補助をしながら外に出す。宁麗文はその出産にハラハラと心配になって漢沐熙と牛を交互に見る。彼は何も言わずにただずっと見守っていた。宁麗文は声も上げることもできずに両手で扇子を持って口元を隠す。痛そうな母牛の表情にいたたまれなくなって顔を全部隠した。  母牛は頭部まで出した辺りで子牛の身体を全て出す。一人の酪農家が子牛に引っついている粘膜を取り除き、息をしているかを確認してから子牛を逆さにして器官に詰まっているものを出す。全て終わったあとに秦麗孝たちはその場から数歩退いて母牛がと仔牛様子を眺める。振り返ってみるといつの間にやら宁麗文と漢沐熙がいると知ってすぐに笑みを浮かべる。  「お前ら。来てたのか」  「暇だから来た」  漢沐熙の言葉に宁麗文がも扇子を下げて頷く。  母牛が子牛を舐めていくところで秦双子を含めた酪農家はほっと息をついて牛舎から出る。秦麗孝も秦雪玲も胸を撫で下ろした。  「あとはあいつに任せよう」  弟の言葉に秦雪玲も頷いて出産を手伝った手を手拭いや服の裾で拭って、残された四人もまた外へ出る。  「どうだった? 牛の出産は。中々見れないでしょう?」  秦雪玲が宁麗文に問う。閉じた扇子を懐に仕舞って微苦笑を浮かべた。  「……すごかったです」  宁麗文の言葉に秦雪玲も小さく笑って、弟の隣へと進んだ。  (出産ってあんなに大変なものなんだな。母上も私たちを生む時はあんな感じだったのかな)  今も江陵にいる深緑の身を案じながら息をつく。帰宅したら聞いてみようかと思ったが、それを子供から言われたらどう返せばいいのか困ってしまうだろう。宁麗文はやっぱりやめたと頭を振った。    夕方になり仕事を終えた秦双子と食事をしてから秦氏の邸宅へと帰る。談話をしながら道を歩いていると宁麗文の右肩に人がぶつかった。振り返ってみると自分よりも少し低い男がぎろりと睨むように見上げて、舌打ちをしてからどこかへ去った。  (な、なんでそんなに睨むんだよ? 私からぶつかったわけでもないのに……)  しょぼしょぼと落ちくれた表情を浮かべて肩を落としていれば漢沐熙に笑われ、彼の笑い声に双子が振り返る。  「どうしたの?」  「いや、宁麗文くんがさっき人にぶつかってさ。睨まれたのに落ち込んでるんだ」  赤裸々に告白する彼に宁麗文は内心苛立ち、双子は訳の面白さに漢沐熙と同様に笑う。宁麗文はただただ肩を落とす以外なく、心の中で泣いていた。  しばらくして秦氏の邸宅に着いた。双子は普段着へと着替えにそれぞれの部屋へ去る。案内された部屋の卓に着いた漢沐熙が眠たそうに欠伸をしてから伸びをした。  「それにしても。本当に人が増えたな」  「そうだな。乳製品も肉も売上が上がってってるらしいぞ」  「へえ」  宁麗文は出された茶を飲みながら目線を上にする。  (保存方法も確立してくれたらいいんだけどなぁ。また羊肉食べたい……)  あの肉の味を思い出して口の中で溢れる涎をどうにか抑えていると遠くの方から門が叩かれる音が聞こえる。それは漢沐熙も気付いたようで、二人して部屋の外へ顔を出せば焦ったような、もたつきながらも強く叩く音で近くにいた男の家僕が閂を抜いて開ける。すると外から飛び出したのは汗や血に塗れた男で、涙を流しながら家僕の両肩を掴んで何かを叫んでいた。家僕は男のその形相に悲鳴を上げて腰を抜かしてしまった。  宁麗文と漢沐熙はその只事でない状況にすぐに顔を見合せてから部屋を飛び出す。腰を抜かしていた家僕が大声で秦宗主である|秦峰風《シンフォンファン》を呼ぶ。あまりにも混乱している男たち二人に非常事態だと勘づいたのか、後ろから秦麗孝の声が掛かった。振り返れば普段着に替えた秦双子がやや心配そうに駆け寄る。  「何があったんだ?」  「分からない。ただ、よくない報せっぽい」  宁麗文が答えてまた門の前を見る。家僕の悲鳴を聞いた秦峰風もまた駆け寄って男の肩を持って家僕から剥がした。  男は涙や鼻水でぐちゃぐちゃで青ざめている顔で口を大きく開けて悲鳴を上げ続ける。その声は邸宅中に響いていて部屋にいた他の家僕や門弟も外へ出て様子を伺っていた。無論、四人も騒ぎに少しの疑問と焦燥で門の近くへと駆けていく。  「牛が……っ、羊も、盗まれて! おれァ、どうすれば……!?[#「!?」は縦中横]」  「落ち着け。まずは状況の説明はできるか?」  自分の背後に子供たち四人が来た気配を感じる。振り返れば秦雪玲が心配そうに父を見る。  「お父さん、どうしたの?」  秦峰風は苦い顔を浮かべる。  「どうやら、家畜の窃盗が発覚している。今から規制を行うから、お前たちも自分たちの持ち場へ行きなさい」  「──窃盗!?[#「!?」は縦中横]」  聞くことのない言葉に顔を青ざめた秦麗孝が、すぐに踵を返して邸宅に戻る。唖然とした空気の中、秦雪玲もまた顔を青ざめて弟のあとを追おうと身を翻すが、すぐに戻った秦麗孝の手に剣があると気付く。  「小麗!」  姉の言葉を聞かずに門の外へ飛び出す秦麗孝に、秦雪玲もまた門の外へと飛び出す。残された宁麗文と漢沐熙も続いて秦峰風と男を置いて共に邸宅をあとにした。  (嫌な予感がする)  からりと乾いた空の下、宁麗文の胸のざわめきが強くなっていく。    道行く人たちを避ける。どよめきがありつつも、秦の息子のただならぬ表情に恐れおののいて道を空ける。眉間に皺を寄せる秦麗孝は姉に結んでもらったひと房の髪を揺らしながら草原へ駆ける。着いた先の夕焼けに広がる草の原の中に見覚えのない複数人の男がいた。  「おい!![#「!!」は縦中横]」  秦麗孝の怒号に近くにいた男たちが振り返る。耳の後ろや頬、首元にと墨が入れられていて形相も悪い。この男たちが先程の、酪農家が言っていた窃盗犯たちだろう。   憤りを隠さない深い青の双眸は近くにいた男を睨みつける。すぐに駆け寄って胸ぐらを掴んだまま倒す。  「さっきうちに来た酪農家から牛と羊を盗まれたと聞かされた。お前たちがやったのか?」  「……」  「答えろ!」  秦麗孝の激昂した声が聞こえる辺りで宁麗文たちも草原に着いた。宁麗文が押し倒された男を見て数日前の記憶を呼び起こす。そしてその行動は漢沐熙も同様で、二人して目を見開いた。  「あ、あれって」  「昨日の奴か!?[#「!?」は縦中横]」  漢沐熙の言葉に秦麗孝がわずかに振り返ったその時、隙を見つけた男が浅黒い手を強く払って起き上がってどこかへと駆けて去る。空を掴んでしまった秦麗孝は目を見開いてすぐさま地を蹴ってあとを追った。  「小麗! 待って!」  肩で息を荒らげている秦雪玲もまた弟を追って去っていく。双子がいなくなったあとの二人はしばらく目の前の状況に掴めずに立ち尽くしていると、南の方面から響くような怒号が聞こえる。宁麗文が顔を向ければそこは先程見学をしに行った牛舎で、中にいるはずの牛の母子を思い出す。  (──危ない!)  宁麗文も漢沐熙から離れて牛舎へと駆ける。  中へ通じるはずの戸は既に破られている。ドクドクと警鐘を鳴らすかのように動悸が治まらない。あちらこちらへと頭を動かすとぐったりと倒れている牛や興奮して柵の中を忙しなく動く牛などが見られる。そして前方、奥へ向かうと血が多く見えてきていた。  ──倒れている仔牛と、血にまみれていながらも立ち続けている母牛だ。  彼女の目の前には別の男がいる。先程宁麗文にぶつかって勝手にこちらのせいにして舌打ちをした者だった。  男は手に携えている腰刀の刃を下向きに持ち直してふらついている母牛へ振り上げる。宁麗文は声も出せず、顔を青ざめながらすぐに駆けて男の、刀を持っていない肩と脇腹を両手で強く押し飛ばす。飛ばされて壁に肩をぶつけて刀を落とす男は宁麗文へと顔を向けて口をぽかんと開けていた。  宁麗文は次に母牛の容態を確認する。所々切り傷が見られて出血が多い。痛そうに呻くような息も感じられるが、動物への応急処置の方法が分からない。  (どうしよう。このままだと死んじゃう)  青い顔を正せないまま外套を脱いで母牛の背中に掛ける。そして仔牛の状態を確認し、か細くではあるが息をしていると気付いて安堵の息を吐く。  しばらく固まっていた男は数刻前のぶつかった者の正体に憤りに顔を赤く染めながら立ち上がって腰刀を持ち直す。狭い牛舎の中、喚くような怒号を上げながら彼の背中へと刀を振り下ろす!  後ろからの気配に宁麗文は振り返って横に避ける。懐に忍ばせていた簡易な『|拘束符《こうそくふ》』を空を切って体勢を崩した男の顔面を鷲掴むように叩きつけた。男は抵抗もできないまま再び壁へと押しやられ、途中挟んだ木柵も巻き込む。  かなりの衝撃でか、男の鼻からは血が出ていて身体も術によって力を奪われてその場で崩れ落ちる。宁麗文は片膝を立てて落ちた腰刀を拾う。  「お前、なんのためにここに来たんだ?」  男は抵抗ができないものの、勝利を確信したかのようなへらへらとした薄ら気味悪い笑みを浮かべる。  「なんのためって? 肉のためだよ。お前ら膳無秦氏が外部からよこしたからな、俺たちはこの日のために計画を立てていたんだ」  (私は膳無秦氏じゃないんだけどな……)  内心呆れながらも息を整える。  「計画って?」  宁麗文は男の腰に佩いていた腰刀の鞘をまさぐって取り出して刃を仕舞う。立ち上がって男を見下ろした。  この時の男から見た宁麗文は、牛舎の中が薄暗いからか元より白い肌は更に白く見え、服の色も相まって遠目で見ても近くで見ても幽霊だと思わされるだろう。薄茶の双眸の底には軽蔑を見せていて、男は頭の頂点からつま先まで一気に北の氷山から突き落とされたかのような冷えを感じる。しかしそれでも虚勢を張るように口端を上げた。  「ここの羊肉は美味いらしいな。牛はどこでも食えるが、羊はそうはいかない。だからこいつらを殺して売り捌くんだよ」  薄茶の双眸が見開く。  この男たちは窃盗──それも秦双子を含む酪農家が大切に育てている羊たちを密猟するためにこの場に来たのだ。  すぐに秦麗孝に伝えなければ。しかし、牛舎の中にこの男を置いていくわけにはいかない。拘束符で身体の自由を奪ってはいるが、もし剥がれてしまえば被害の二の舞になってしまうだろう。  宁麗文は眉を顰めて息を深く吸って吐く。逸る鼓動をどうにか抑えて地面に突っ伏している男の胸ぐらを掴んで引き上げて壁に押しつける。宙に浮かされた男は悲痛の表情と声を上げるが拘束符によって抵抗ができない。宁麗文はやや薄い腹を膝で一発喰らわせて、気絶した男の胸ぐらを掴んだまま牛舎の外へ引きずって適当な場所へ放り投げる。辺りを見渡せば大木の影に隠れている、白い顔をしている若い男の酪農家を見つけた。  「今、牛舎で牛が怪我をしています。早く手当を」  早口で言付ける酪農家は恐怖でがくがくと震えていてあたり言葉を聞き入れられていない様子だった。宁麗文はややイラつきながら彼の腕を掴んで無理やり立たせて引きずって牛舎へ押し込む。そして拘束符を貼られたままの窃盗犯の後ろ襟を掴んで牛舎から離れさせて、だだっ広い草原に放り投げてから三人を探しにまわった。  夕焼けに染まっている草原の中で秦麗孝は鞘から抜いた自分の剣を持っている。こめかみには青筋が数本立っていて奥歯を噛み締めながら周りを睨み、あとから追ってはぐれてしまった姉を探す。  漢沐熙は東の方に、秦麗孝は北の方角にいた。  では、秦雪玲はどこに?  「漢沐熙!」  東に向かって漢沐熙を呼びながら走る。彼を探す間、見渡していれば数人の窃盗犯の姿が見える。手には夕陽に照らされた長短様々な刀が握られていて、人によっては血にまみれていた。そして目の前には震えていたりぐったりと横たわる羊たちが見えていて、先程の牛舎で言っていた言葉に顔を青ざめる。  (こいつら……本気で狩るつもりだ!)  宁麗文は漢沐熙の元へは戻らず、刃を持って羊に近寄る男へ駆ける。届く三、四歩のほどの距離で地面に手をつけて反動を活かして足で脇腹を蹴飛ばす。しかし体幹が強いからか思ったよりも飛ばず、宁麗文の存在に気付いて標的を羊から彼へと移す。怒号を上げながら刃を振り下ろす前、宁麗文は下から先程奪った腰刀の鞘から引き抜く刃で刃を受け止めてから流す。抜ききった刃を地面に刺して身体を支え、伸ばした両脚で男の脛を目掛けて蹴り落とす。あっという間に崩れ落ちた男が次の抵抗を出す前に膝で胸を打ち付けて気絶させた。  懐から拘束符を取り出して背中に貼っつけて羊の状態を確認する。無事に傷ひとつもなく安堵して、優しく撫でてから男を羊から遠ざけるため、転がすように何度も蹴り飛ばす。  「もう大丈夫だ。怖かったな」  羊は恐怖による声色を上げて離れない。宁麗文はまた背中を撫でながら移動させて近くに隠れていた酪農家に任せた。  この草原は広く、夕方頃になればほとんどの牛や羊は牧舎に入っている。となれば今ここにいる彼らは呼ばれていたのに気付かずに取り残された動物だ。宁麗文は動物を見つけ次第安全を確保しながら酪農家へ届け、途中で襲いかかりそうになれば奪った腰刀で受け流して殴ったり蹴ったりを繰り返す。そうして動物たちを牧舎に送り届けてから周りを見渡して一頭も見当たらないことを確認してからようやく漢沐熙の元へ向かう。  漢沐熙も剣を持ったまま息を荒らげていて、周りには多少なりとも血は見えていた。これを見るに彼は怪我をしていないだろうが、既に殺されてしまった動物の血か、はたまた窃盗犯を傷付けたときに出た血なのかは分からない。漢沐熙が息を整えながら振り向いて宁麗文に気付く。  「牛たちは?」  「牧舎に突っ込んでおいた。それより秦麗孝と秦雪玲さんは?」  「秦麗孝は窃盗犯と戦ってる。姉さんはどこに行ったか分からない。俺は秦麗孝と協力して窃盗犯を捕まえるつもりで戦ってるんだけど……」  漢沐熙は顎に流れる汗を拭いながら宁麗文の身体を見る。血も土も何もついていない姿を見て口をぽかんと開ける。  「どうしたんだ?」  「いや……あんた、今まで何してたんた?」  「何してたって。牛舎に行ってあの母牛を傷付けてた男を殴って外に出してたし、君の元に来るまでに羊を殺そうとした男も殴ってきた。送っている途中でも襲いかかってくるんだ、殴ったり蹴ったりしてたらこんなに遅くなっちゃって。あ、大丈夫、今は拘束符で大人しくしてるよ」  にっこりとした笑顔と淡々とした答えに漢沐熙はまた唖然とする。そして心の中でこう決めた。  (こいつを怒らせないようにしよう)  宁麗文も腰に佩いている祓邪を引き抜き、奪った腰刀を放り投げる。秦麗孝の応援に向かおうとした矢先、全ての動物を牧舎に放り込まれたのが惜しかったのか、複数の男たちが二人を囲んだ。  「なんで羊を帰した!?[#「!?」は縦中横] 俺たちの計画が無駄になるだろうが!」  一人の男が怒鳴り散らかしながら漢沐熙に向かう。漢沐熙は男が振りかざした刃を下から流す剣で受け止め、それを火花を散らしながら力強く押し込む。男は何歩か退いて、足を滑らせたところで漢沐熙の手が彼の長刀を奪って胸を蹴った。相当力強く蹴ったのか、その男は気絶したのを見た漢沐熙は奪った刀を放り投げる。一息ついてから背後に別の男が襲いかかってくるのに気付いて地を剣ごと手を押して重心を下ろし、垂直に振り上げた後ろ足で男の顎を蹴飛ばす。飛ばされた男は白目を向いて一瞬だけ宙に浮いてから倒れた。  「どうもこうも、動きが単純すぎなんだよ」  手を叩く漢沐熙は呆れながら他に襲いかかる男に立ち向かう。  一方その頃、宁麗文は長刀を持つ巨漢を前にしていた。身長は自分よりも高く、おそらく六尺【大体二三〇センチ】ほどだろう。体躯も分厚く宁麗文の首よりも太い腕には血管が浮き出ている。普通ならばその巨大な男に恐れおののくだろうが、宁麗文は至って平然とした佇まいで見上げていた。  「邪魔をするな。今すぐ家畜を出せ!」  鈍く低い声が轟音のように怒鳴り上げる。巨漢は自分の背丈に見合った長刀を構えながら彼へと向かい、その刃を振り落とす。宁麗文はそれを祓邪で火花を散らしながら受け流し、完全に軌道を逸らして相手の足元が掬われたところで一度片手を剣から離し、強く握った鉄拳を顎に突き上げる!  しかし、巨漢がすぐに体勢を立て直し掛けていたからか、それほど力が伝わっていなかったようだ。宁麗文は巨漢からすぐに離れて拳を握りながら苦い顔を浮かべていた。  「おのれェ……」  「もうちょっと強く上げてればなぁ……」  余裕のある言葉に癪に障ったのか、巨漢は持っていた長刀を横に放り投げる。怒りに任せて身体を前のめりに屈み草を引きちぎるように地を蹴って宁麗文へ走る。  宁麗文はすぐに祓邪を鞘に納めて巨漢が近付く瞬間に身体を翻す。巨漢の視界が狭まっているこの瞬間、目の前の男を見失って前のめりのままぐらっと傾いた。  宁麗文は傾く隙に流すように身体を後方へ向け、巨漢の腕をするりと両腕で絡めるように掴んで、自身の重心を下に向けて剣を振り下ろすかのように投げ落とした!  浮遊感に脳が揺らぎ背中から地へと叩きつけられた巨漢は息を吸うことも吐くこともできず、揺れた脳から目が回ってから白目を向いてぐったりと意識を失う。宁麗文はその巨漢を見下ろしながら両手で互いの掌についた土埃等を払い落として振り返った。  まだ数は多い。宁麗文は顔を顰めながらまた祓邪を抜く。  (どんだけいるんだ? 倒しても倒してもキリがない。秦麗孝と秦雪玲さんのことも心配だし……)  思考を巡らせていた中、ひとりの女の悲鳴が上がった。漢沐熙も宁麗文もその声に気付いて顔を上げる。  その方向は──西だ。  まだ迫ってくる男たちの刃を受け止めて殴る蹴るを繰り返し、自分たちの周りに人がいないことを確認した二人は息を荒らげながら西へ向かう。    秦雪玲の叫び声が聞こえた先に着く。彼女は秦麗孝の前で、それもこめかみに血を流しながら前へと倒れていた。  「てめぇ……」  秦麗孝は剣を持つ手に力を強く込める。秦雪玲の傍らにひとりの脂ぎったような笑みを浮かべる細身の男が立ち、彼女の襟首を掴みながら持ち上げる。  「ハハッ、このお嬢ちゃん。いい面してんなぁ? こめかみに怪我なんてしちまって。ごめんなあ?」  男は持っている腰刀を秦雪玲の頬に添わせる。それに宁麗文と漢沐熙は顔を青ざめて秦麗孝は黒くする。  「姉ちゃんに何するつもりだ?」  「姉ちゃん? へえ、あんたの姉か。えらいべっぴんさんだな。俺にくれないか?」  「何するつもりかって聞いてんだよ!![#「!!」は縦中横]」  秦麗孝が強く一歩踏み出す。男は踏んだ足と連動するように秦雪玲の頬に添わせていた刃を突き立てる!  ぬらりと鈍く光る刃に秦麗孝の足が止まってしまう。  「おいおい、そんなカッカすんなって! これ以上動くとこいつの命はねえぞ」  宁麗文と漢沐熙も剣を構える。  しかし、確かにこれ以上動いてしまえば小さな刃によって秦雪玲の命は奪われてしまうだろう。  (それだけは避けないと)  宁麗文が眉を顰めて下唇を噛みながら目線を下に、突破方を探し出そうとあちらこちらへと流す。秦麗孝は釣り上がっている眦を更に上げて血走らせていて、身体の至る箇所の青筋を破れんばかりに浮き上がらせている。息もまた、憤りに任せていて頭の中には姉の笑顔が浮かんでいた。  「俺たちの要望は肉だよ。肉って言っても……羊肉だな。膳無にしか味わえない最高の肉が欲しいんだ」  俯かせていた瞼を上げて、宁麗文が問う。  「それなら普通に買えばいいんじゃないのか? なんでここに来るんだよ」  男は鼻で笑う。  「普通に買う? そんな野暮なことはしない。俺たちはここで羊を狩って売りさばくんだよ。膳無で獲れた羊です〜〜ってな!」  ねっとりと唾にまみれた歯を剥き出して息で笑ってから三人を睨むように見上げる。  「……だがなぁ、まさかすぐにバレちまうとはな。先にあの男を殺せばよかったぜ」  「……もしかして、昨日あの路地裏で話してた奴か?」  漢沐熙の声に男の目元が動く。徐々に黒くなる顔色の中、声色も黒く響いた。  「おい。それをどこで見た?」  「どこでって。路地裏からちょっと離れたところから見かけたんだよ。怪しいと思ってたけど普通に談笑してたし、遊郭に行く話でもしてるのかなって思ってたんだ」  返す宁麗文から発される『遊郭』という言葉に漢沐熙が思いがけず噴きそうになる。  (今ここで言わなくても良くないか?)  抗議するように宁麗文を見るが、悲しいかな、彼はその視線に気付かない。  「ハッ。あの琳玩にか? あそこはダメだ。女ばっかりで楽しいけどよお、女だけだ。身体を売るだけで他には何も取り柄もない。飯はそんなに美味かねえ」  男の顔色は暗いまま、掴む襟首に力を入れて片方の口端を上げる。  「それに比べてここはどうだ? 新鮮な肉もあればここにしかない肉もある。なんならこの嬢ちゃんもいるときた! なあ、あんた。このお姉ちゃんとやらは頭はいいか? 科挙に受けたことは? なんてな、冗談だよ」  秦雪玲の後ろにも数人の男がいる。彼らは歪んだ顔で笑っていて秦雪玲の襟首を掴んでいた男が襟首を離して地へと落とす。草と地に落とされたか細い身体に秦麗孝の血走った深い青の双眸が見開いた。  「こいつか?」  男は秦雪玲の背中を足で軽く揺らす。  「あんたんとこのこの嬢ちゃん。えらくべっぴんさんだから俺たちにくれよ。なあに、悪いことには使わないさ」  漢沐熙の目元も侮辱に顰む。剣を握る手の力が強くなって、地を踏む足に力を込めた。  秦麗孝は我を見失わぬように冷静に口を開く。今まで聞いたことのない冷たい声色で、まるで一生溶けることのない氷のようだった。  「離れろ」  「なら羊肉をよこせ。そうしたらこの嬢ちゃんを返すよ。取引だ、簡単なことだろ?」  粘ついた脂を滲ませるようにほくそ笑む男たちに秦麗孝の奥歯がぎり、と音を立てる。  秦麗孝にとって、秦雪玲も家畜もどちらも大切な存在なのだ。どちらかを天秤に量って重さを確かめるという行為をしたくはなく、どちらも喪いたくない。  だからこそ、この窃盗犯への憤りが収まらないのだ。  男の後ろにいた、体躯のいい二人の男が秦雪玲の両腕を引き上げる。倒された地面から引き上げられつま先だちのようになったままだがまだ気を失っている。しかしむしろ失ったままが彼女にとって幾らか良いだろう。  (どうすればいい? また動けば秦雪玲さんに何かされてしまう……)  宁麗文は視線をまた動かす。握った剣から離さず、揺らぐ目は瞼をも揺らしていて、横の漢沐熙、前の秦麗孝、そしてその先の秦雪玲を見る。  (どうにかしてこいつらから秦雪玲さんを救わないと。何か、何かあるはず)  先程襟首を掴んで引き上げていた男が秦雪玲の頬を力強く掴んで上げさせる。か細い息を吸い込んで浅黒い瞼が開いて覗く深い青が姿を現す。途端、青くなって双眸からは潤みが見られていく。眼で掴んだ男たちを回すように見て瞬いて涙を一粒落としてから目の前の弟を見つける。恐怖に変わる事実に目が揺らいで肺が急激に小さくなったかのように息が荒くなっていて今にも死にそうに見えた。  「おっと。起こしてしまったみたいだ」  「……あ……ぅ……」  秦雪玲は恐怖と動揺のあまり何も言葉にできない。眼の下から生み出させる涙で目の前がぼやけて瞬いてまた男を見て、そしてまた弟を見る。  目の前の秦麗孝は、姉ですら見たことのない鬼のような表情を浮かべていて今にも殺しにかかるかのように見えた。  「し……小麗……」  「姉ちゃん!」  彼女の目からまた涙が零れる。掴まれた頬を震えながら横に振って小さく口を音もなく動かす。  「なあ、どうする? このお嬢ちゃんか羊か。選べよ」  男は秦雪玲から手を離す。今度は細い首筋に鈍く光る腰刀を近付ける。掠れそうな刃に秦雪玲の息が詰まったかのように小さく悲鳴を上げていて歯をガチガチと震わせた。秦麗孝は姉の顔に黒の中から青い顔色を露わにしてしまう。  「ダメ……小麗、ダメ……」  「……っ」  あの男の腰刀を見て眉を顰めながら、宁麗文の唾が喉に押しやられる。  (あの腰刀。確か、ほとんどの奴らが持ってた。なら、さっきのところにもたくさんあるはず。あの鞘を……)  宁麗文は小さく頷いて隣の漢沐熙へ目線を流す。気配に気付いた漢沐熙が宁麗文に目を向けた。  「どうした?」  「いいことを思いついた。手伝ってくれないか?」  漢沐熙は眉を少し顰めて瞬く。この現状に余裕のある口を開くのは隙を見せているのと同義だ。しかしこのままでは膠着状態でどちらも動けない。ならばこちらで宁麗文の言うような裏を作れば多少なりとも好機が得られるだろう。  「分かった」  漢沐熙は秦麗孝に声を掛ける。前方を警戒しながら目線だけが振り向くが顔色は変わらない。それどころか怒りの対象がこちらにも掛かっているかのように感じられる。  漢沐熙が剣を鞘に納めて秦麗孝へ近付く。歩む足に男の手が秦雪玲の首筋に刃を少し食い込ませた。秦雪玲はわずかに痛む傷に恐怖が止まらず涙を流すばかりだ。  従兄弟の手が秦麗孝の肩を叩く。窃盗犯たちと秦雪玲を一瞥してから耳元に口を寄せた。  「落ち着け。俺たちは一旦離れる。その間にあいつら……特に、姉さんに刃を突きつけている奴に隙ができたらブッ叩け。いいか?」  歯を剥き出して自身を抑えている秦麗孝はひとつ唾を飲む。漢沐熙の表情を見て瞼を閉じて、小さく頷いてから瞼を開けて前方に顔を向けた。  「……ああ」  下唇を噛んでから頷いて、漢沐熙が自分から離れたと同時に剣を鞘へ仕舞う。息をゆっくりと吸って吐いて瞼を閉じてから開けて、黒くなっていた顔色を戻していく。  深い青の双眸は窃盗犯たちを睨んだままだったが、姉の秦雪玲を見る時だけは優しく笑った。  秦麗孝はこの状況下に置かれてもただ微笑む弟に戸惑う。涙を止められることなく頭の中は絡まった糸で張り巡らされていてまともに考えられなかった。  「分かった。羊をやるよ」  「小麗!」  「姉ちゃん。大丈夫だ」  秦雪玲は下唇を噛んでまた大粒の涙を零す。それが顎に流れて滴り落ちた。  窃盗犯たちは秦麗孝の言葉に笑い声を上げた。弛緩する引き上げられた腕の筋肉と細身の男が持つ刃が彼女の首筋から離れていくが、秦雪玲本人は状況の恐怖と弟への絶望で気付かなかった。。  「ッハハ! そう来なくっちゃなぁ!?[#「!?」は縦中横] なんだあんた、話が分かる奴じゃないか! いいぜ、じゃあお嬢ちゃんを返すよ。そのあとにお話しようぜ。利益とかな。楽しみにしておけよ?」  秦麗孝は嘲笑する。目の前の数人の前、秦雪玲を除いた全ての男たちの隙を探しながら。  「……そうだな」  それは完全に油断した獲物を捕らえようとする、獣の眼だった。    一方その頃。  秦双子と窃盗犯から離れた位置に着いた二人のうち、宁麗文が辺りを見回して落ちている腰刀を見つけて拾い上げる。  (これなら)  刃を抜いて捨てて鞘だけを持って、状態を確かめる。粗のある造りはおそらくこの日のために拵えたのだろう。ぬらりと刃は丹念に研かれていて草をいとも容易く斬っていた。中身よりも粗末な鞘は所々亀裂が走っているものもある。鞘を見つめている宁麗文に漢沐熙が息を上げながら眉を顰める。  「それで何をするんだ?」  「秦雪玲さんを掴んでたあの二人いるだろ。そいつらに向かってこれを投げる」  「なっ……」  「バカだと思うか? 今はこれしかないんだ。一か八かになるけど、よろしく頼むよ」  思ってもみなかった提案に一瞬だけ目を丸くした漢沐熙だったがすぐに我に返って辺りを見回す。やや離れたところで見つけて急ぎで刃を捨てて粗作りの鞘を持って宁麗文の元へ戻った。  二人で並んで秦雪玲を掴んでいる男二人に標的を合わせる。  「君、|投擲《とうてき》の経験は?」  「ふふん。言ってなかったけど。実は弓技が得意なんだ。これくらいどうってことはないよ。あんたは?」  宁麗文は微苦笑を浮かべる。  「やったことないんだ。不安だけど、まあなんとかなるだろ」  二人で口角を上げてから顔を引き締める。鞘をしっかりと握って奥の男に向ける。宁麗文が息を吸った。  「せぇー……のっ!![#「!!」は縦中横]」  言い終わった瞬間に二人は力強く平行に鞘を投げる!  修練を重ねた修士による投擲は当然一般人には敵わず、そして荒い作りで所々ごつごつと欠片が飛び出ている。秦雪玲を掴んでいた二人の額に見事に命中して両腕を離して白目をぐるりと回して後ろへと倒れる。拘束が解けて瞬く秦雪玲と細身の男が後方を見て固まっているところ、秦麗孝が一歩強く踏んで強く握った右の拳を振りかぶる!  左へと飛ばされてしまった細身の男は双子から少し遠い草地へ転がり落ちる。脳まで揺れてしまったのかぐるぐると目を回してから白目を剥いて気を失っていて、秦麗孝が姉をすぐさま抱き締めて容態の確認を行う。秦雪玲は涙を零して嗚咽を流しながら首を横に振った。  「小麗、私は大丈夫よ。大した怪我なんてしてないわ」  秦麗孝は眉を顰めながら姉の顔を覗き込む。  「そんなわけねえだろ! 血が出てる。それに泣いてるだろ」  「それは怖かったからよ。でも今は本当に大丈夫、ここもそんなに深くない。助けてくれてありがとう」  秦雪玲はが笑みながら弟を安心させる。秦麗孝も胸を撫で下ろして息を吐いてから再び強く抱き締めた。  秦双子の後方から宁麗文と漢沐熙が駆け寄る。  「あー、よかった。当たってたみたいだ」  宁麗文は投げた側の腕を回しながら目を弧に描く。漢沐熙は彼の笑みに呆れ笑うしかなかった。  (やっぱり敵にまわさないようにしよう……)  秦麗孝は秦雪玲から離れないまま辺りを見回して、不審なものがないかの確認を終えてから漢沐熙へ顔を向ける。  「漢沐熙。父さんを呼んできてくれ」  「分かった。すぐに行く」  三人から離れて邸宅へ向かう漢沐熙を見送ったあと、秦麗孝が宁麗文へ顔を向けた。  「宁麗文、助かったよ。まさか鞘を投げるなんてな。あれはこいつらのだろ? よく全員持ってるだなんて分かったな」  「嫌でも大勢の相手をしてりゃ分かるよ。投げるのは一か八かだったんだ。漢沐熙はともかく、私は投擲なんてしたことがなかったから。才能でもあるのかな?」  宁麗文は頬を掻きながらはにかみ、秦麗孝も口角を上げる。  安堵で肩の力が抜けた瞬間、秦双子の背後にひとりの男が立つ。先程まで秦雪玲を掴んでぶら下げていた片方の男で、宁麗文が当てた男でもあった。  額の中心からずれた位置から流れるように擦り切ったような傷から血を流していてぎらつく双眸は憤りを露わにしている。  そして、腰に携えていた腰刀から刃を抜いて下向きに持ち構えていた。  「えっ!?[#「!?」は縦中横]」  頬から指を離した宁麗文の目の先へ双子も振り向く。  男は振り向きざまの双子の間合いに入り込み、鈍く光る先端を秦麗孝の胸へと振り下ろす。  秦麗孝が息を掠めて秦雪玲を庇うように背中を向けた時、秦雪玲の手が弟の胸を力強く突き飛ばしした!  「姉ちゃ──」  秦麗孝の深い青色の双眸が戸惑いに揺らぐ。その中には、優しく笑う秦雪玲の顔が映っていた。  そして、彼女の胸の上に、刃が入った。