第三章 晴れの行方
十九 これからのこと
──秦雪玲の胸の中心に刃が入った。宁麗文は咄嗟に動けず、突き飛ばされた秦麗孝はふらつく足のまま地へと倒れる。そして秦雪玲は背中から倒れゆく中、ゆっくりと自分から噴き出す血を見た。
──自分の血を見ているさなかに、あの楽しかった日々を思い出した。
柳の葉のような瞼の中の、深い青の双眸は空気に触られて痛む傷と梅の花のような赤を見る。視線を流せば顔を青から白へと色を変えゆく弟が見えた。
(なんて、顔をしているの)
目の前が薄らと滲む。瞼を閉じて開ければ、秦麗孝の姿は幼い頃の弟が泣きそうに下唇を噛んでいた。伸びた小さな手は秦雪玲の掌を掴んでいた。秦雪玲の小さな指には羊の毛を刈るハサミの先に触れてしまって血を流していた。
「姉ちゃん、ごめんなさい」
「なんで?」
「ぼくがハサミを適当に置いちゃったせいで、姉ちゃんが怪我しちゃった」
背中まで伸びている黒髪には三本を合わせて編んだ形をしている。しかし所々崩れていたり歪になっているのは秦雪玲が覚えたての手でやっていたからだろう。
秦雪玲は今にも泣きそうな弟の前で苦笑う。
「そんなこと言わないで。わたしが気を付けなかっただけよ」
「でも……」
秦雪玲は笑いながら息を小さく吐く。秦麗孝はとうとうその場で泣き出した。
「もう、小麗ったら。あなた、男の子なのに情けないわよ」
秦麗孝は頭を強く振る。肩を震わせて、姉の血が出ている指を握る。ぐずぐずと鼻をすすっては涙を土砂降りのように流して、まるで自分がこの傷を受けたかのように見える。秦雪玲はその泣きまくってぐちゃぐちゃな顔になってしまっている弟にまた笑った。
「そんな、わたしが死ぬわけじゃないのに。小麗は本当に大袈裟ね」
「だって、だって……」
「もう。お父さんとお母さんが見たらしょうもないって怒られるわよ? 小麗はそれでもいいの?」
はっ、と秦麗孝が顔を上げて彼女を見る。深い青色にまた涙が零れ落ちた。
「やだ」
「でしょう? だから泣かないの。でも、怪我しちゃったから、お医者さんに見せてこなきゃ。着いてきてくれる?」
彼女の言葉に秦麗孝は懸命に何度も首を縦に振る。秦雪玲はそれを見て声に出して笑った。
一つ瞬いて、ぼんやりとした白を見る。
(あなたに編んだ三つ編み、綺麗にできてよかった)
幼い頃に母がよく二人に三つ編みをしていた。秦雪玲は簡単そうに見える結び方に、編んでみたいと母にねだってやり方を教えてもらった。
簡単そうに見えたものが実は難しかった。けれど秦雪玲はめげずに練習した。自分で自分の髪を編んで上手くできたあとに秦麗孝の髪を編んだ。
「ごめんなさい、上手く編めなくて」
自分でやる分には問題はないが、人に編むのはそうたやすいことではなかったようだ。秦雪玲は自分の不器用さに両手で顔を覆って、情けなさに己を恥じて度々落ち込んでいた。しかし秦麗孝が首を横に振っていつも変わらない笑顔で姉を見上げる。
「姉ちゃんが上手くなるまで、ずっと付き合うよ」
そしてボロボロでくちゃくちゃになってしまった三つ編みを両手で前に流す。
「それにおれ、姉ちゃんに編んでもらうの大好きだよ。姉ちゃんじゃなきゃやだ」
秦雪玲はそれに瞬いて、たまらなくなって噴き出して笑う。
「お母さんに編んでもらうのは嫌なの?」
「嫌じゃないけど、姉ちゃんがいい」
「あは、小麗って、どれだけわたしのことが好きなのよ」
きゃらきゃらと笑う姉に釣られて秦麗孝も笑う。
──この時間が好きだった。だから私がお嫁さんに行く前までもこうしていられると、当たり前のように思っていた。
(ねえ、小麗。私が行っちゃ嫌って言ってたけど。私の花嫁姿は見たかったでしょう?)
秦雪玲の瞼の裏に走馬灯が走る。生まれ育った場所。大好きな牛と羊たち。大好きな蒼茫亭の皆。大好きな両親、大好きな従兄弟。
そして、大好きな、小麗。収まりきれないほどに愛している弟。
(後悔してばっかりだったけど。けど、幸せだったのよ)
秦雪玲はまた、自分の血を見た。
「姉ちゃん!」
秦麗孝はすぐに起き上がって秦雪玲を抱える。宁麗文は胸から引き抜ききった男の刀を鞘から抜いた祓邪で下から弾き飛ばして振り上げた足で厚い胸板を蹴り落とす。
(甘かったか!)
男が抵抗する間を奪うように足を押しつけながら懐から拘束符を胸に貼りつける。
祓邪を鞘に仕舞ってから双子へ顔を向ける。秦麗孝は浅黒い肌から徐々に色が消えていく姉を震えながら抱き締めている。その震えた口からは浅くて弱々しい息を乱していた。
「姉ちゃん、姉ちゃん……」
秦雪玲は小さく息をしながら口元を上げる。
「大丈夫よ」
秦麗孝は右手で姉の頭を支え、左手で姉の傷を覆う。
「今なら間に合う、漢沐熙が父さんたちを呼んだから。姉ちゃん、だから大丈夫。もう少しで来るから」
「小麗」
「ごめん、俺のせいだ。俺が無理に出しゃばったから。姉ちゃん、ごめん。俺が代わりに斬られればよかったのに」
「小麗」
秦雪玲は小さく弟の名前を二回呼ぶ。秦麗孝は目元を顰めながら二回目の呼ばれた声で姉の顔をよく見た。秦雪玲は弟の、傷を覆っていた方の手を握る。
「あなた、そういうところ、昔から変わってないわね。顔もだって、泣きそうじゃない」
自分の目を、怪我と色を失っていく顔と交互に見る秦麗孝に微かに笑う。
「小麗」
秦雪玲は弟の名前を呼んだ。
「私、小麗のこと。大好きよ」
その言葉に秦麗孝の深い青が見開く。顔は段々と青ざめて陰りを見せていく。
「……なんで……? なんで、今……言うんだ……?」
秦雪玲はまた優しく笑う。胸に負った傷は段々と深くなっていく。
「もう、髪の毛。編んであげられないね。一回でも、……あなたの散歩に付き合えばよかったね」
秦雪玲の顔から更に色が失せていく。秦麗孝は深い青色の双眸から涙を生み出しながら頭を振る。綺麗に整えられた三つ編みを震わせる。
「泣かないで、小麗。あなた、男の子でしょ。次期、宗主でしょ。泣くなんて。みっともないわ」
「……姉ちゃん……お願いだから……喋らないで……そんな、顔しないで……」
秦雪玲は口元を優しく上げた。少し咳をして、先程までは血色が良かった唇から赤い血が噴き出る。それが秦雪玲の顎と秦麗孝の顎を濡らした。
「笑わないで……なんで、そんな顔するんだよ?」
「あなたを。安心させる、ためよ」
深くなり行く傷は秦雪玲の心臓を突き破ろうとする。それでも尚、秦雪玲はあやすように笑う。秦麗孝は更に息を浅くしていく。
「姉ちゃん……ダメだ……ダメだって……」
秦麗孝は目を見開いた。秦雪玲は笑って口を開いた。深い青の双眸が潤んだ。
「小麗」
優しく笑う、双子の姉の最期の涙が零れる。
「ごめんね」
それは、血に染まって赤く落ちた。
「愛してる」
秦雪玲はただ、それだけ呟いて、深い青色から光を消した。弟を握っていた手の力も、温かみもゆっくりと離れていく。
秦麗孝は涙を零しながら呆然としていた。
宁麗文はあの日のことを思い出してしまって目を逸らして顔を顰めていた。
秦麗孝は顔を引き攣らせながら無理やり微笑んで姉の手を今度は自分から掴む。暖かくて今では自分よりも小さいその手はもう冷えてきている。温もりは感じられていてもそれは握っている自分の温もりだ。
秦麗孝はもう一度最愛の姉を抱き締める。
「……姉ちゃん、俺さ。……もう、一人で編めるんだよ」
ぽつり、ぽつりと口から出る声はいつもとは違った、姉に甘える声だった。
「散歩もさ。無理に連れていけばよかった。姉ちゃんが気に入るような場所、見つけたんだ」
その声は嗚咽を交えて震えていく。秦麗孝は鼻をすすりながら肩を震わせていた。
「……姉ちゃん……俺もさ……姉ちゃんのこと、好きだよ……大好きだよ……」
双子の弟の目から流れる涙は顎を伝い、双子の姉の頬に落ちて血と一緒に流れ落ちる。
「……俺も、愛してる……」
秦麗孝は秦雪玲の瞼を閉じて最後に強く抱き締め、首元に顔を埋める。
宁麗文は息を浅く吸って深く吐いた。
掛ける言葉は見つからない。たとえあったとしても掛けられるものではない。喪ってしまった秦麗孝のために何かをしてあげられることすらもできない。
宁麗文が顔を逸らしていると、他のもう一人、秦雪玲を掴んでいた男が額から血を流しながらふらりと立ち上がった。こめかみに青筋を一本立ててちて太い腰刀の鞘を抜いて投げ捨てる。
「バカな真似してくれたな!?[#「!?」は縦中横] 最初からこのアマを犯せばよかったじゃねえか!」
秦麗孝の頭がぴくりと動く。顔を男に向けて深い青色の双眸が強く睨みつける。
「……宁麗文」
宁麗文は突然名前を呼ばれて頭を秦麗孝へ戻す。秦麗孝は振り向くことなく男を見上げて低い声を上げる。
「姉ちゃんを安全な場所に連れていってくれないか」
「え、あ、うん」
宁麗文は二人の元へ進んで秦麗孝から秦雪玲を受け取って横に抱える。ずっしりとした重みがあの日の可馨を思い出して強く瞼を閉じた。息を吐いて秦麗孝からゆっくりと離れる。その頃に応援を呼び終えた漢沐熙が戻った。
漢沐熙は自分が当てて倒したはずの男を見て、次に秦雪玲を抱える宁麗文を見る。
「お、おい。なんであいつが立ってる? ……なんで、あんたは姉さんを、……え……?」
漢沐熙も力を完全になくした従姉妹の傷を見る。宁麗文が首を小さく横に振る行為で理解してしまって、顔を青ざめてしまった。
「お前、俺の姉ちゃんを犯すって言ったか?」
秦麗孝の黒い声が聞こえた。漢沐熙と宁麗文は我に返って彼へ顔を向ける。
「姉ちゃんはな。三日後に結婚を控えていたんだ。こんな大事な時になんてもんをよこしやがった!?[#「!?」は縦中横]」
「秦麗孝!」
漢沐熙が名前を呼ぶ。秦麗孝は涙を垂れ下げながら剣の柄に指を伸ばす。浅黒い指を見た漢沐熙が躊躇いもなく宁麗文から離れた。
「死ね!![#「!!」は縦中横]」
秦麗孝が言い放ってすぐに剣を抜いた途端、漢沐熙の剣が男と秦麗孝の間を滑り込むように挟む!
秦麗孝は目を見開き、男は驚き固まり、漢沐熙は焦っていた。二人の交えた刃からは一瞬だけ火花が散った。
「バカお前、落ち着けよ! もう応援は来るんだ、こいつらだって捕まる。だから剣を納めろ!」
漢沐熙の声に秦麗孝は目を強く細めて睨みつける。
「捕まるって? 捕まえて何をするんだ? 尋問か? そんなもん甘っちょろいんだよ。こいつらは姉ちゃんを殺した、こんな奴らには死を与えられるべきだろ!」
「甘っちょろいって……お前、おかしくなったのか[#「!?」は縦中横]」
声を裏返す漢沐熙の後ろにいた男は腰刀を構える。気配に気付いた漢沐熙が片手に霊力を込めて剣を握り直し、離した拳を顎へと振り上げる!
少し浮いた男は顎を揺らしながら崩れ落ちた。漢沐熙は剣を両手で持ち直して秦麗孝を押さえる。ギチギチと刃同士が重なり合い、今にも両方の剣が折れそうな勢いだ。
「漢沐熙、今すぐそこを退け。でないと俺はお前を殺すしかなくなる」
「嫌だね。俺が退いたらこいつを殺すんだろ。いいのか? こいつらは罪人だ。どうして窃盗なんかしたのかも理由も問い質される。けど、今ここでお前が殺したらどうなる? お前も罪に問われるんだよ!」
「だからなんだ!?[#「!?」は縦中横] 姉ちゃんを殺したこいつらを殺すのは罪なのか!?[#「!?」は縦中横] 姉ちゃんを殺された、だから俺はこいつらを殺す。どう見たって復讐だろ!」
「黙れよ! 落ち着けって言ってるのが聞こえないのか!?[#「!?」は縦中横]」
漢沐熙の怒鳴り声が秦麗孝を更に押え込む。秦麗孝は再びこめかみと額に青筋を立てて奥歯を噛み締めた。
宁麗文は二人の気圧された空気に口も出せず動けなかった。離れた安全な場所に秦雪玲を置いてしまっては二人を止められず最悪な事態を招いてしまうだろう。防ぐためにも二人を、秦麗孝を止めなければならないが、代わりに秦雪玲を降ろすしかないのだ。
(どうすれば)
自分の無力さに己を罵る。秦麗孝か、秦雪玲かのどちらかを選ぶのは難しい問題だ。
痺れを切らせた漢沐熙は目を細めて刃を上から押しつけて従兄弟の剣を下げる。秦麗孝は抗うが漢沐熙の方が一枚上手で段々と下ろされていった。
「いいか。お前には信じられないかもしれないが、これは現実なんだ。直に伯父さんたちが来る。それまでに俺たちは窃盗犯たちをまとめて置いておく。頼むから怒りを抑えて協力してくれ」
秦麗孝は噛み締めた歯から獣のように息を荒らげるが、漢沐熙の言葉で徐々に憤りを抑えていく。
「……分かった」
瞼を伏せて押さえられた剣を支える力をなくす。剣を下ろす手に漢沐熙も一息ついて剣を下ろす。傍を一歩通った瞬間、目を見開いた秦麗孝が素早く剣を構えて地を蹴った!
「あっ!」
声を漏らした宁麗文に漢沐熙も振り返る。秦麗孝は大きく一歩をまた踏んで、両手で剣を構えて倒れている男の腹へと刃を振り下ろす。
「やめろ!」
目を見開いた漢沐熙は鋭く光る刃を軌道から受け流すために剣を秦麗孝の横から差した。
秦麗孝の剣先が下に向く。
力任せに振り下ろした、その先は。
「ぐ、ぁ──!」
血飛沫が宙を舞う。
ザクッと斬れたのは、漢沐熙の右手首。
怒りに任せた秦麗孝の力は凄まじかった。しかし幸いにも男への軌道を逸らせたが、その犠牲として漢沐熙の手首を骨ごと切断してしまった。
秦麗孝は一瞬だけ息を止め、漢沐熙はその場で崩れ落ちる。痛みで悶え苦しむ漢沐熙に見下ろす秦麗孝は顔を白くして戸惑いと混乱で剣を落とした。
「お……お前……なんで……」
痛みに脂汗をかいて顔を顰めながら従兄弟を見上げる漢沐熙は無理やり口元を上げる。秦麗孝は首を横に振って一歩退いて、足がもつれてその場で尻もちをついた。
宁麗文は動けなかった足に力を込めて二人の元へ向かう。漢沐熙の斬られた右手首と握り締めていた剣は秦麗孝の左に落ちていた。秦麗孝は息を浅く吐きながら地に落ちた従兄弟を見つめる。脂汗にまみれている漢沐熙が宁麗文に顔を向けた。
「漢沐熙、君」
「大丈夫だ。それより、もう応援が来た」
宁麗文は後ろを振り返る。草原の入口から数人の門弟たちがこちらへ向かって来ていた。宁麗文はもう一度漢沐熙を見る。漢沐熙は青白くなっていく顔で微笑んだ。
「姉さんを、頼むよ」
その後は秦氏の門弟たちが窃盗犯たちをまとめて牢獄へと連れて行った。彼らと共に宁麗文も秦雪玲を抱えたまま歩いて秦氏の邸宅へ戻る。すぐに秦夫人が寄って冷たくなった娘を見て口を両手で押さえながらその場で崩れ落ちた。守れなかった宁麗文はただただ下唇を噛みながら俯くばかりだった。
草原に転がった漢沐熙は秦峰風に起こされて門弟たちに預けられた。白い顔をしながら運ばれて行った甥を見送ったあと、秦峰風が剣を握り締めている手を拾い上げて剣と離した。剣と手を片手で持ちながら息子を引っ張り上げて立たせる。
「……父さん……俺……」
秦峰風は青白い顔をした、涙の跡が強く残っている息子の頭をあやすように軽く叩いた。
「何も言うな」
秦峰風は瞼を伏せる。
「家に帰ろう」
俯いた秦麗孝は肩を震わせながら頷いた。
秦の親子が草原が去る一方その頃、宁麗文は宿泊先の寝台に腰を掛けていた。伏せた瞼の裏では意識が霞んだかのようにぼやけている。
(まただ……また、守れなかった)
秦麗孝を前にして、ひとりは死を、もうひとりは手を失ってしまった。
秦雪玲は弟を護るために自ら犠牲になって死に至った。
漢沐熙は従兄弟を止めきれずに手首を失ってしまった。
宁麗文は杏華坊で起きたあり日の惨状を思い出して項垂れた頭を抱える。
──どうして私は、人を救えない?
宁麗文は生まれてから家訓を理解していると思っていた。しかし、それは単なる勘違いで、実際は何も成し遂げてすらいなかった。
髪を巻き込みながら頭を更に強く抱え込んで、自分に対する不甲斐なさと憤りで心の中で己を侮辱しながら震えていた。何度も何度も、自分を酷い人間だと罵っていく。
「宁麗文」
頭から手を離して顔を上げる。部屋を外界から閉めていた戸の向こうに自分より背丈の高い人影が見えた。
「……秦麗孝?」
「入っていいか?」
返事をすれば秦麗孝が戸を開けて後ろ手で閉めた。
浅黒い肌を持つ顔は涙の跡がくっきりと残っていて痛ましい。深い青の双眸は様々な事故を見てしまった証として疲労を浮かべていた。
「ごめんな。お前を巻き込んで」
最初に口に出したのは謝罪だった。宁麗文は俯いて瞼を伏せて頭を振る。立ち上がって秦麗孝の顔を見上げた。
「いいよ。むしろ、私こそ……間に入れなくて……」
秦麗孝は首を横に振る。
「仕方なかったんだ。あいつとの距離は近かったんだから。お前が入れないのは当然だよ」
「……でも、秦麗孝……」
秦麗孝は頬を引き攣らせながら笑った。無理やりな笑顔に宁麗文の胸の内も痛さに顔を歪める。
「無理に笑わなくていいよ。辛いだろ?」
秦麗孝は目元を歪ませてまた頭を振った。宁麗文の胸の中は潰れてしまった柔い果実のようで、顔を正せないまま視線を下にしてからまた上げる。
「……お前、秦雪玲さんのあとを追おうとか考えてる?」
秦麗孝は顔を強ばらせてすぐに俯いた。宁麗文の眉間が深くなって片手で肩を掴む。
「それだけは絶対にするな。秦雪玲さんはお前を守るために庇ったんだ。今ここでお前が死んだら彼女はどう思う?」
「……」
「秦雪玲さんはお前を誰よりも愛してた。お前よりも深く愛してたはず。だからこそ生きてほしいって願ったんだろ」
秦麗孝は顔を俯かせたまま黙る。肩を掴んだ手を振り払おうとせずにただただ拳を強く握り締めていた。宁麗文はその拳を見ていた。
「……あの時、お前を止めた漢沐熙を憎んだか?」
従兄弟の名前に秦麗孝が顔を上げる。引きつっている眦からまた涙が溜まった。
「……憎んでない……」
「なら、何に憎んでる?」
「俺の……。俺自身に……憎んでる……」
宁麗文は一つ深い息を吐いた。肩から手を離して小さく笑う。
「君は優しい人だな」
宁麗文は眉間を緩めて口元を上げる。秦麗孝は瞬きをして一筋の涙を流した。
「自分のせいで皆を傷付けた。自分のせいで大切な人を死なせてしまった。そんな後悔があるのは本当に優しい人だけだよ」
「……宁麗文」
「うん?」
秦麗孝は拳を緩めて涙を掌で乱暴に拭う。その表情は最初に会った時とは正反対だった。
「俺は、優しくなんかないんだ。初めて会った時のこと覚えてるか? ボロボロになってるお前を笑ってたろ。そのあとも……許してもらうために奢るって言って……」
宁麗文はつい噴き出して笑ってしまった。
世長会での姿、怨詛浄化で宁雲嵐を助けてもらったあの日の姿、青天郷で宁麗文にしつこく付きまとっていた時の姿が続く。そして膳無にいる時の姿、愛する姉といる時の姿。宁麗文は口元を綻ばせて見上げる。
「なんだ、そのことか。いいよ別に。もう最初から許してる。君は私を笑った時から自分を憎んでたのか? そんなことしなくていいのに」
深い青が丸くなって、口からは気の抜けた声が出る。宁麗文は口角を上げて秦麗孝の隣に移動して肩に腕を回した。
「私たち、友人だろ? 友人はこんなことも許してしまうのさ。知ってた?」
「友、人……」
「そうだよ。あれ、違った?」
宁麗文は口元を上げながら顔を覗き見る。秦麗孝はぽかんと口を開けていて、また見たことのない表情にまた笑った。
秦麗孝の肩の力が抜ける。しかし顔色は元に戻ってきていて、いつしか口元も上がった。
「違わない。俺たち、ダチなんだな」
宁麗文は目を弧に描いた。
「当たり前だ」
一炷香、二炷香した頃だろう。宁麗文は簡単に荷物をまとめて秦氏の邸宅を出る。見送りは秦麗孝のみで、いつもなら隣に秦雪玲もいたはずだった。しかし彼女はこの世にはいない。
瞼を伏せては開けて門の近くにいる秦麗孝に手を振った。振る自分の手に気付いて振り返して、泣き跡をものともせずに歯を見せて笑う顔に目を細めて、踵を返した。
夕方のさなかに膳無の門を潜り抜ける。一歩踏んで再び振り返ると秋都漢氏が建てた巨大で堅牢な壁があった。
膳無はこれからどうなるのだろう。夕陽に照らされ橙に染まったあの草原はどうなるのだろう。それは住む人々にしか分からない。
宁麗文はつま先の方向に向いてまた歩き出した。前は下を向いて歩いていたが、今は前を向いて歩く。
自分に救えない人はいたけれど、それでも進むしかないのだ。
歩いて歩いて、すっかり夜になってしまった。
「……野宿かなあ……」
一人での野宿は初めてで心細いところではあるが、御剣をするにも体力はないし、どこかへ寄ろうとも土地勘がなく、それに夜というのもあって迷いやすいのでできない。ということで仕方なく適当な場所で火を起こすしかなかった。
宁麗文は休める場所を探しつつ適当に夕餉用にうさぎを狩って、点火術を使って明かりを点けながら毛皮を剥ぎ取る。溜息を長く吐いて肉を火にかざす様子を見つめていた。
「最後に羊肉でも食べておけばよかったな……」
今から膳無に行くとしてもあの事件があったし、そもそも夜なのだから門は閉まっているだろう。今更戻っても宁麗文は何もしてあげられることはない。だから仕方なく一人で野宿をしてこのうさぎの肉を頬張るしかないのだ。
よく焼けた肉を食べながら夜空を見上げる。星はそれぞれ煌めきを持っていて輝いていた。
宁麗文の頬を風が撫でる。森の中の涼しい空気が鼻を掠める。散らばった星屑を見上げたままぼうっとしていると、周りからザクザクと雑草を踏む音が聴こえた。
(……何かいるのか?)
宁麗文は咄嗟に火を消して肉を全部飲み込む。立ち上がって祓邪に指を掛けて音の鳴る方向を確かめる。ザクザクと踏む音は近付いてくる。息を潜めてつま先を軸に身体をゆっくりと回す。その音が一番近くなったところで薄茶の双眸を強く見開く。
(後ろだ!)
宁麗文は祓邪を抜いて振り返り、風を切って鋭い線を描く!
ガキンッと硬い銀の音が鳴った。訪れる静寂の中、宁麗文は眉を顰めながら相手の顔を目を凝らした。
「おい!?[#「!?」は縦中横] いきなり攻撃を仕掛けるなバカ弟!」
「え?」
木々が揺れて風の音と共に漏れた月の光が相手の顔を照らす。そこには頬をひくつかせている宁雲嵐が立っていた。
「あ、兄上? なんでここに?」
「それはこっちが聞きたい。お前こそどうしてここにいる?」
兄弟は剣を鞘に納める。
「私は膳無から帰る途中だよ」
「御剣は?」
「疲れきっててやらなかったんだ。兄上こそ、なんでここにいるんだよ」
(いつもそう言ってるだろ……)
宁雲嵐は呆れを表に出しながら胸の前で腕を組む。
「怨詛浄化の帰りだよ。ついでに膳無に寄ってお前を連れて帰ろうとしたんだ。まあ、手間が省けたからいいか」
「どちみち連れて帰るつもりだったのか……」
宁麗文は片眉と口元をひくつかせながら呆れる。宁雲嵐は溜息をついて弟の肩に手を置いた。
「今から膳無に行くのは無理か」
そう問い掛ける宁雲嵐の顔は静かだった。宁麗文は見上げてから瞼を伏せる。
弟の考えることなど既に分かっているのだろう。宁雲嵐は弟の肩を二回軽く叩いた。
「帰ろうか」
宁麗文は俯きかけた顔を上げて兄の顔を見た。
「うん」
三ヶ月が経った。
宁麗文は怨詛浄化での経験を重ねに重ね、遂に一人での任務も任された。今までは宁雲嵐も着いていたが、桂城、膳無での行動をしていたこともあって「そろそろ一人でもできるだろう」と宁浩然が判断したのだ。……それでも両親は、特に深緑は相変わらず宁麗文を気にかけている。当の本人は二人からの心配から逃げるように怨詛浄化の任務を遂行していた。
世長会では膳無秦氏、秋都漢氏は宗主のみの出席となり、秋都漢氏に関しては次男の|漢沐阳《カンムーヤン》が漢沐熙の代わりに出席していた。宁浩然を始めとした他の世家の者たちは疑問に思っていたが唯一部外者で事件を知っている宁麗文は何も言わなかった。
今日もその怨詛浄化に向かって最後の邪祟を倒して祓邪を納める。
空の下の空気を吸って吐く。
季節は既に春を迎えていて、そろそろ夏を待つ頃だ。少し前までは寒かったのにと心の中で呆れ笑いながら森を抜ける。ようやく離れた道端に足を踏み入れた時だった。
──麗文、今すぐ帰ってこい。
それは宁雲嵐からの連絡だった。宁麗文の胸が動悸を立てて息を浅くする。
(江陵に……何かあったのか?)
宁麗文は急いで祓邪を抜いて足を掛ける。焦りのまま真っ直ぐと住む家へと向かった。
秋都漢氏が建てた壁を越えて青天郷も越える。邸宅の前に着いて祓邪から降りて鞘に仕舞いながら門を開けた。駆けながら兄の姿を探すが人ひとりすら見当たらない。
(どうして誰もいないんだ?)
宁麗文は焦りを持ちながら滅法へ向かう。途中で見回しながら進むが誰も存在せず、息が更に浅くなった。
廊下を走って角を曲がれば滅法に着く。角で足を大きく踏んで曲がろうとした時、前方に影が見えた。
「う!」
どんっと鈍い音を立てて互いにぶつかった衝撃で尻もちをつく。相手も壁にぶつかったからか腕に衝撃を受けたようで呻き声を上げた。
「いったい! どんだけ速く走ってるの!?[#「!?」は縦中横]」
顔を上げるとそこには痛みで眦を釣り上げている青鈴がいた。壁にぶつかった方の腕を擦りながら宁麗文の元へ歩いて、しゃがみ込んだと思えば汗まみれの額を指で弾く。宁麗文は一点の衝撃に瞼と口を思いきり瞑った。
「ご、ごめん……誰もいなかったから、皆に何かあったんじゃないかって」
「あー……」
青鈴は白い手を引っ張って立ち上がらせる。宁麗文は服についた埃を払うように手で叩いた。青鈴を見るとまだ腕を擦っていて申し訳なさでいっぱいだった。
「着いてきてよ。そこに皆いるよ」
青鈴は顔を見ずに踵を返す。宁麗文も続いて歩を進めて、曲がり角を二回曲がって着いたのは戸を閉めきった客間だった。
「客間?」
青鈴は何も言わずに戸を開ける。
目の前に広がるのは赤だった。それは濁った血の色ではなく綺麗で鮮やかな色だった。といっても決して客間の装飾をしているわけではなく、まるで誰かのために拵えているような準備の仕方だった。確かに家僕も門弟も家族もそこにいて、それぞれ準備を進めている。宁麗文はぽかんと口を開けて何も言えずにいて、呆然としている義兄へ振り返った青鈴が噴き出した。
「どう? びっくりしたでしょ」
「う、うん……これは何? なんでこんなに赤色があるんだ?」
青鈴が先に歩く。宁麗文も慌てて着いていくと、宁雲嵐が赤い布を持っているのを見る。二人に気付くと布を近くの家僕に預けて二人の元へ進んだ。
「やっと来たか」
「やっと来たか、じゃなくて……なんなんだよあの連絡は。焦ったじゃないか」
不満そうに唇を尖らせる弟に宁雲嵐は目を弧に描きながら肩に腕を回す。
「実はな、三日後に青鈴の婚姻の儀が行われるんだ」
「……婚姻?」
薄茶の双眸が丸くなる。兄を見てから義妹へと顔を向ければ、小さく笑う姿があった。
「ど、どことだ?」
「桂城唐氏とよ」
「桂城唐氏……唐公子との結婚か!?[#「!?」は縦中横]」
頷く青鈴に宁麗文は面食らった。まさか、養子である彼女が結婚するとは思わなかったのだ。
通常なら直系の人間と別の世家の人間が結婚するのだが、青鈴は養子である。世間からしてみればそれはなぜか、相手の世家に失礼ではないのかと言われるのかもしれない。しかし、現に青鈴は唐秀英と結婚する。彼女が直系の人間であろうと養子の人間であろうと関係がないのだ。
宁麗文は兄の腕を肩からどかして義妹の肩を掴む。混乱しながら視線をあちらこちらへと流してからまっすぐ見つめた。
「い、い、いつ決まったんだ? 私、そんなこと知らなかったぞ。ていうか、私以外の皆はもう知ってるのか?」
「麗文、落ち着いて。慌てすぎよ」
「これが慌てないでいられるか!」
青鈴は宁麗文の言葉にまた噴き出して笑う。わざと義兄の頬を抓って目を細めた。
「一ヶ月前から。その時はあんたは怨詛浄化に行ってたでしょ。帰ってきても報告書と向き合って、終わったらまたすぐにどこかに行く。だから中々言えなかったのよ。少しぐらい家にいなさい」
少し叱ってから抓った頬を撫でる。宁麗文は眉間に皺を寄せて眉尻を下げ、瞼を伏せて下唇を噛んだ。青鈴はその顔を見て面食らって焦った。
「やだ、なんで泣きそうなのよ! あたしが悪者みたいじゃない!」
「泣くもんか。絶対に泣かない……」
宁麗文は青鈴の肩を優しく掴みながら、自分の肩を震わせて俯く。目の奥から熱さが込み上げてきて下唇をずっと噛んでいた。宁雲嵐と青鈴は互いに顔を見合せて少し笑って、黒の髪の少女が宁麗文の背中に手を回す。
「青鈴……」
「うん」
「結婚、おめでとう」
「ありがとう」
宁麗文は顔を上げて手を肩から青鈴の背中にまわす。首元に顔を埋めて、結局流れてしまった涙で小さな肩を濡らした。青鈴は涙で濡れた肩に気付いていながらも、何も言わないで笑いながら宁麗文の頭を優しく撫でていた。
そしてまた三日が経った。青鈴は無事に婚姻の儀を迎えて正式に唐秀英の妻となった。門の前で兄弟が彼女の乗っている|花轎《かきょう》を見て、桂城へ向かう花嫁行列に少し憂いを感じた。
(もう、青鈴はいないのか)
互いに幼い頃から知り合い、養子として家族に迎え入れられた青鈴。宁麗文は最初に彼女を見て、あまりの汚さに卒倒し体調を一気に崩した。青鈴もまた、幽霊のように何もかも白すぎる彼を見て恐怖で泣き喚いた。最初の印象はどちらも「怖い」が勝っていたが、宁麗文が体調を回復した頃には青鈴も綺麗にされていた。そして再び会えばまるで最初から家族だと言わんばかりの仲がそこにあった。
たまに二人はいたずらをして、その度に二人して怒られていた。宁麗文に嫌なことがあって、裏庭の大木の下で泣いていれば必ず青鈴が迎えに来てそっと傍にいてくれた。青鈴が風邪をひいた時は宁麗文が率先して看護をして、結局もらってしまった彼を今度は青鈴が看護した。宁雲嵐が入れば三人で草原の中で宁雲嵐の鍛錬を見て、夜になれば三人で杏仁豆腐を食べていた。そうして十何年も過ごしてきた。
宁麗文は視線を下に向ける。夏の風が薄茶の髪を撫でた。少しだけ、ほんの少しだけでも行ってほしくなかったと願ってしまった。それはかつての秦麗孝の思いと重なっていた。
(こういうことなんだろうな。青鈴にわがままを言ってうちにいさせるのって)
「何しんみりした顔してる。嬉しくないのか?」
宁雲嵐は腕を組みながら弟の顔を覗き込む。宁麗文は慌てて顔を上げて正面へ向ける。
「べ、別に」
瞬いた瞼の裏にまだ青鈴との思い出が蘇る。
「嬉しいよ! 嬉しいけど……」
口を噤んで、小さくまた開く。
「淋しい……淋しいよ……」
口から一言ずつ出す度に小さくなる。泣きそうに顔を歪ませながら服を握りしめた。
「淋しいなぁ……もう、いないんだ……ご飯も、作ってくれないんだな……」
宁雲嵐は鼻から一つ息を吐いた。弟の背中を軽く叩く。
「そうだな」
宁麗文の背中を優しく撫でる。夏の風はまた二人を包んだ。
「青鈴もそう思ってるよ。俺たちともういられないんだって。これからは桂城唐氏の人間として生きていくんだなって」
宁麗文は熱くなった目頭を押さえずに涙を零す。握っていた服から手を離して両手で顔を覆った。
「別に、桂城にはいつでも行けるさ。あいつもいつでもウチに来れる。お前、青鈴が結婚する前に言ってたの覚えてるか?」
からかうように笑う兄に鼻をすすって顔から両手を離す。手の甲で何度も目元を擦ってまた鼻をすすった。
「……覚えてるよ。『嫌なことがあったらすぐ帰ってこい』だろ。それの何が悪いんだよ」
「完璧な過保護だなって思ったんだよ」
「うるさい」
宁麗文は涙を零しながら悪態を吐く。宁雲嵐はそれでも笑って弟の背中をまた叩いた。
「でも気持ちは分かるぞ。いつか唐秀英殿に愛想が尽きるかもしれない。いつか桂城が嫌になるかもしれない。だからそうなる前にウチに帰ってこいってことだろ」
「そこまで言ってない。普通に嫌だったら帰ってこいって言ったんだよ」
「同じだろ」
宁麗文は頬を膨らませて兄の脇腹を思いっきり殴る。宁雲嵐は突然の衝撃に涙の跡がある頬を抓った。
「なんで殴るんだよ!」
「うっさいばーーか! 違うったら違う! そこまで言ってないからな!」
「だから同じだって言ってんだろ! いい加減認めろ!」
「いーーやーーだーー!」
門の前から響く兄弟の声が花轎の中にいる青鈴の耳にも届く。|蓋頭《がいとう》の下で微笑みながら二人の声を聴く。
「ふふ、またやってる」
一つ息を吐いて瞼を伏せる。彼女の眦には涙が溜まっていた。瞼を閉じて開けばその涙は頬を伝って零れ落ちた。
「……兄さん、麗文。本当に嫌だったら。帰ってくるからね」
その声は愛おしい兄弟には届いていないだろう。それでも青鈴は優しく呟いた。