第一章 始まりの君
三 華伝投
|宁雲嵐《ニンウンラン》が|無名《むめい》に|肖子涵《シャオズーハン》の布団を置き、|青鈴《チンリン》が|宁麗文《ニンレイウェン》と|肖子涵《シャオズーハン》に|厨《くりや》から持ってきた二人分の杏仁豆腐を渡す。
「じゃっ、また明日な。絶対寝坊すんなよ」
「分かってるって……」
「明日は客間に来てね。衣装に着替えなきゃだから。|肖子涵《シャオズーハン》さんは客室で待っててください」
「分かりました」
|宁雲嵐《ニンウンラン》と|青鈴《チンリン》が|無名《むめい》から去ったあとの残された二人は卓を囲む。
「ごめん、ちょっと着替えるね」
「ああ」
|宁麗文《ニンレイウェン》は一度立ち上がって屏風の裏にまわる。手早く髪飾りを取り、寝間着に着替えてから白い髪紐で後ろを軽く下ろすように結う。屏風から戻って再び卓の前に座り、目の前の男を一度ちらりと見てからおずおずと杏仁豆腐の入っている椀と|湯匙《タンチー》を手に取った。
|宁麗文《ニンレイウェン》は気まずそうにもらった杏仁豆腐を一粒食べる。|肖子涵《シャオズーハン》は彼のその行動に椀を持ちながら瞬きをしていた。それに気付いた|宁麗文《ニンレイウェン》が椀を持ったままで固まっている彼を見上げる。
「ん? 食べないのか?」
「いや……夜はいつもこうなのか?」
「こうって?」
「寝る前に杏仁豆腐を食べること」
|宁麗文《ニンレイウェン》は目線を斜め上に向ける。昔からの習慣で特に気に留めることもなく淡々と過ごしていたのだが、他世家には夜に杏仁豆腐を食べる習慣がないのだろう。視線を目の前の|肖子涵《シャオズーハン》に戻し、杏仁豆腐を二粒ほど口に入れて舌で潰して飲み込む。
「もしかしたら私の家だけなのかも。他のところはまだ行ったことないから分かんないけど。君の家は何か習慣とかあるのか?」
「習慣」
|肖子涵《シャオズーハン》は戸惑いから瞬きを繰り返してから俯く。|湯匙《タンチー》を手に取って躊躇いがちに杏仁豆腐を一口分取り出して口へ入れる。少しの甘さからだろう、少し顔を顰めたが舌で潰してから喉に通してか細い息を吸って絞り出す。
「……俺は、そういうものに関心がない」
「関心がない? どうして?」
疑問を口に出す彼に|肖子涵《シャオズーハン》は困惑、戸惑い、動揺から視線をあちらこちらへと動かす。何も言えないままの彼に|宁麗文《ニンレイウェン》は自分の態度に「しまった」と己を恥じた。
(会って二回目なのに。なんてことを……)
途端に気まずくなった|宁麗文《ニンレイウェン》は焦って椀と|湯匙《タンチー》を卓に置く。慎重に置けるほどの余裕がなく、卓にやや大きい音が鳴る。突然の音に|肖子涵《シャオズーハン》は思わず顔を上げた。そこには焦燥感に駆られている|宁麗文《ニンレイウェン》がいて、予想もしなかった表情に面食らう。
「ごめん。言いたくなかったなら本当にごめん。ぐいぐい聞かれるのは嫌だよな。さっきのは……なかったことにしてくれないか」
「いや。……そうではない」
|肖子涵《シャオズーハン》はまた一口と食べて舌で潰してから喉に通す。その表情には顰めがあるが、それはどの意味かは分からない。
「ただ、俺は|洛陽肖《らくようシャオ》氏から、除け者に……されているだけで……」
言い淀みながら杏仁豆腐がまだ残っている椀を卓に置く。卓の下で、膝の上に握り拳を置いて、それに微かに震えるほどに力を込める。
|宁麗文《ニンレイウェン》は更なる気まずさに椀と|湯匙《タンチー》を手に取って自分の杏仁豆腐を急いで食べる。瞬く間に空になった|湯匙《タンチー》を入れた椀を卓に叩きつけるように置くと振動で椀が揺れ、そこから|湯匙《タンチー》が零れ床に落ちる。卓から落ちてしまった陶器の音が鳴っても|宁麗文《ニンレイウェン》は気にしなかった。いや、『できなかった』が妥当だろう。
「いい、いいよ。無理に言わなくていい。ただ、私が気になっちゃっただけで。嫌だったら言わなくていいから、そんな顔しないでくれよ」
|宁麗文《ニンレイウェン》は手で移動して彼の隣へ寄って肩を掴む。|肖子涵《シャオズーハン》は咄嗟に置かれた手に息を詰まらせて身を微かによじった。|宁麗文《ニンレイウェン》はそれに気が付いてはいないが、肩を掴む手は離さないままでいる。手を|肖子涵《シャオズーハン》から離してその場で顔を俯かせる。その視線はまたあちらこちらへと動いていて、杏仁豆腐で喉が潤っているのにも関わらず乾いているように感じた。
「私だって言いたくないことの一個や二個ぐらいある。聞かれても答えたくないものだってある。そういうことなんて誰にでもあるって分かってるのに、知ってるのに。でも他人の気持ちまで気付けなくて……失礼なことばっかりしてしまうんだ。本当に、ごめんなさい……」
他人と接したことのない|宁麗文《ニンレイウェン》は家族や|門弟《もんてい》、|家僕《かぼく》たちとは違う距離感を保つのが苦手なのだ。それもそのはず、この十七年もの間にろくに外に出ることさえ叶わなかったのだから、見知らぬ他人との会話をする術が分からないのだ。
家から出る直前までは「他人に嫌われたくない」「優しくありたい」という一心で話し方には何度も気を付けていた。しかし、実際に前にしてみると、悲しいことに失礼なことまで口に出してしまうのだから、その度に自責の念に駆られて自分を恥じて罵ってしまう。これを今日だけで、しかも|肖子涵《シャオズーハン》という初めての友人の前で何度やってしまったかも分からない。
|肖子涵《シャオズーハン》は俯いている彼を前にして口を開いては閉じ、目を伏せて眉を更に顰める。頭を小さく振ってから眉根を戻して自分の杏仁豆腐を全て食べてから椀を静かに卓に置いた。
「謝らなくていい。自分で自分の説明をするのは苦手なんだ。もちろん、|宁巴《ニンバー》が聞きたいのならいくらだって話す」
一つ息を吐いて、瞼を閉じてまた開く。
「だけど、今は待っていてほしい。いつか話すから」
|宁麗文《ニンレイウェン》は彼の言葉を聞いて顔を思いきり上げる。予想もしなかった返答に瞬きをして、自然と姿勢を正していた。
「うん、分かった」
(よかった、嫌われてなかった……!)
心の中で自分の胸に手を置いて安堵しながら、空になった椀を二つ重ねる。
「片付けてくる。君はもう寝てていいよ」
|肖子涵《シャオズーハン》の前で立ち上がって椀と|湯匙《タンチー》を片手に持ちながら引き戸を開ける。外は少し冷えていて、昼間よりも幾分か温度差があった。
「へっくしょん!」
思わず出てしまったくしゃみに|宁麗文《ニンレイウェン》は慌てて口と鼻を隠す。なんとも情けない声にぎこちなく後ろを振り返って見れば、|肖子涵《シャオズーハン》が瞬きをしながら彼を見ていた。
「寒いのか?」
「あ、いや、大丈夫。鼻になんか入っちゃったみたい、ははは……」
その場しのぎの誤魔化しをして部屋から出る。廊下に一歩踏み出すと小さい風が彼を包んだ。|宁麗文《ニンレイウェン》は身震いをしながら椀の音を立て、一歩、また一歩と足を出す。
(流石にこの季節だからな……分かってたけど冷え込みが強い。|華伝投《かでんとう》の前に風邪をひかなきゃいいけど)
「持つ」
後ろから椀を取られて反射的に取った方を見る。そこには灯りの影で表情が見えない|肖子涵《シャオズーハン》が立っていた。
「別にいいのに」
「大事な行事の前に風邪をひかれては困る」
そのまま彼の傍を通り過ぎて|厨《くりや》の場所を聞かれる。|宁麗文《ニンレイウェン》は唖然として、我に返ってから|肖子涵《シャオズーハン》の傍で歩く。
静かに冷え込む空気の中で二人は昼間のように話しながら厨へ向かう。
「そういえば、|凶鶏《キョンチー》事件って結局はどうなったんだ?」
|肖子涵《シャオズーハン》は彼を一瞥してからまた前を見る。
「|宁雲嵐《ニンウンラン》殿から聞いていないのか?」
「聞くも何も、いろんな任務やら|怨詛浄化《えんそじょうか》やらでまともに会話すらできてなかったんだ。今日はたまたま何もなくてずっと家にいたけど。でも、今日は君とずっと一緒にいたから、結局何も聞いてないや」
「そうか」
|肖子涵《シャオズーハン》はそれ以上何も言わなかった。|宁麗文《ニンレイウェン》はそれに首を傾げる。
「君も向かったはずだろ? 終わってないの?」
「多分終わった」
「多分ってなんだ……」
呆れで息を吐きながら彼を見上げる。ふらふらと彼を見上げながら歩いていたからか、|宁麗文《ニンレイウェン》の肩に柱が当たって小さく情けない悲鳴を上げる。ぶつかった肩を片手で摩りながら、羞恥に駆られて|肖子涵《シャオズーハン》から顔を背けた。
(最っ悪だ……)
今日はなんと不幸な日なのだろう。いや、|肖子涵《シャオズーハン》という初めての友人ができた、初めての|青天郷《せいてんきょう》を歩くことに関しては幸運と呼べるのだが、こうやって所々ぶつけたりするのは恥ずかしい以外の感情が見つからない。日中での|青天郷《せいてんきょう》では雑貨屋の敷居を跨ぐ時に躓いて転びそうになったり、|肖子涵《シャオズーハン》と話をしている間に行き向かう人々にぶつかったり、目の前にある屋台の骨組みに顔をぶつけてしまったり。とにかく、この|宁麗文《ニンレイウェン》という男は初めての外に興味津々ではあるものの、注意力があまりにもなさすぎてどこもかしこもぶつけてばかりだったのだ。
|肖子涵《シャオズーハン》の顔をまともに見られずに再び歩き出す。椀を持ったままの彼は視線を斜め上に向けてから|宁麗文《ニンレイウェン》に戻し、目を細めて口角を優しく上げてから彼の腰を抱いて自分へ寄せる。それに顔を上げて立ち止まった|宁麗文《ニンレイウェン》は目を丸くしたままだった。
「|肖寧《シャオニン》?」
「こちらに寄っていい」
「いいの? 君が動きづらいだけだぞ?」
「いい。あなたがまたぶつけるよりマシだ」
|宁麗文《ニンレイウェン》は頬を赤くしたまま微苦笑を浮かべる。確かに今日の彼はいろんなところでいろんな箇所をぶつけてばかりだ。またぶつけて恥を晒してしまうなら、|肖子涵《シャオズーハン》の言う通りに近くに寄れば済むだろう。
「あのさ」
「なんだ」
「なんとなくなんだけど。こういうの、どっかでやってもらったことある気がするんだよね」
それに|肖子涵《シャオズーハン》の身体が強ばる。|宁麗文《ニンレイウェン》は何も気付かない。
「……気のせいじゃないか」
「気のせいかあ。まあそうだよな。君と会ったのはこれで二回目だもん。きっと夢かなんかで見たんだ」
「……」
黒の|双眸《そうぼう》が一度伏せて、そのまま視線を|宁麗文《ニンレイウェン》から外す。また開けてから彼を掴んでいた手に力を入れてまた寄せる。|宁麗文《ニンレイウェン》はそれにまた顔を上げて、やはりまだ気恥ずかしい気分でいた。
|厨《くりや》が近くなるところで冷たい風が吹く。|宁麗文《ニンレイウェン》は服の隙間から入った風に身震いをして両腕を自身の両手で摩った。
「やはり寒いだろう」
「大丈夫。このぐらいなんとも……っくしゅん!」
「無理はするな」
「はは、君は優しいな。なんでそこまで私を心配するんだ?」
|肖子涵《シャオズーハン》は口を固く噤む。空の椀を握る手を見てから彼に向ける。
「友人だから」
至って当たり前の返し方に|宁麗文《ニンレイウェン》は歯を見せて口角を上げる。普通の人間なら誰しも、さも当然かのように言う言葉に、彼は初めて身に染みた。『友人』なのは|肖子涵《シャオズーハン》も同じだと、分かっていても嬉しい以外の感情がない。|宁麗文《ニンレイウェン》は摩擦で温かくなった両腕なら手を下ろして目を弧に描く。
「そりゃそっか」
|肖子涵《シャオズーハン》は彼の言葉に小さく頷いた。|宁麗文《ニンレイウェン》はいつしか、それまで少し冷えた身体が温かくなっていて、気が付けば寒さを自身から遠ざけていた。
翌日になって鳥の|囀《さえず》りで目を覚ます。天井から顔をずらすと、会った時と同じ服装を身にまとった|肖子涵《シャオズーハン》が|宁麗文《ニンレイウェン》に背中を向けて瞑想をしていた。
(いつ起きたんだろ。今は何刻だ……?)
小さく唸りながらごろりと身体を動かして起床する。小さい唸り声と布擦れに気付いた|肖子涵《シャオズーハン》が振り返る。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れた?」
「ああ」
|宁麗文《ニンレイウェン》はまだ|醒《さ》めない眠気に抗いながらも微笑む。伸びをして少し気崩れた服を正しながら寝台から降りて屏風に掛けた|外套《がいとう》を身にまとった。
「君は先に客室に向かってくれ。私は客間に行かなきゃいけないし、これから着替えるから」
「分かった」
|肖子涵《シャオズーハン》も立ち上がって軽く身なりを整える。|無名《むめい》から出る時にちらりと|宁麗文《ニンレイウェン》を見た。彼は|肖子涵《シャオズーハン》の目線に気が付くと手をゆっくりと振って返す。そうして|肖子涵《シャオズーハン》は|無名《むめい》から立ち去った。
残された|宁麗文《ニンレイウェン》は髪を整えて普段着へと身なりを変える。客間に向かうとのことで、髪飾りなどはつけずに後ろに軽く結んだ状態で|無名《むめい》から去った。
客間に着くと弟子や|家僕《かぼく》が慌ただしく準備を始めていた。その中でも|青鈴《チンリン》は自分の準備をよそにせかせかと衣装を運んでいる。彼女はたった今到着した|宁麗文《ニンレイウェン》に気付いてこちらへ来るように手をこまねいた。
「おはよう、|麗文《レイウェン》。来たところ悪いんだけど、先に|沐浴《もくよく》【風呂】してくれない?」
「沐浴?」
|青鈴《チンリン》は頷いて顎で行き先を示す。|宁麗文《ニンレイウェン》は顎の示す先に、湯が入った風呂桶と|家僕《かぼく》がいる場所へ向かった。たった数人の出席のために彼よりも早く起きた|家僕《かぼく》は眠そうにしながらも「宁二の若様、こちらへどうぞ」と呼び掛ける。戸惑う|宁麗文《ニンレイウェン》は沐浴を済ませてから客間に戻り、これまた飯を食わされながら衣装に着替えさせられる。普段とは違う、豪奢な身なりとやや重い髪飾りに心なしか逃げ出したい気持ちになった。
(最初からこんなに大変なんて……しかも重い。皆、これを毎年着てやってるのか? 最後までこの重さに耐えられるかな……)
不安を持ちながら最後の支度を終えて客間から出る。|肖子涵《シャオズーハン》のことを気にかけてはいたが、中々彼に会うことは叶わずそのまま舞台へと向かわされた。
馬車の中で揺られながらもの思いにふける。
確かに参加する昔まではこの|華伝投《かでんとう》に憧れを抱いてはいたが、実際に支度を行うとなるとまずは沐浴、食事をしながらの着替え、そして最終確認となる慌ただしさが身に染みる。しかも彼は生まれて初めての|華伝投《かでんとう》でもあるので、緊張も相まって身体を震わせていた。
対面している|宁雲嵐《ニンウンラン》もまた、|宁麗文《ニンレイウェン》とは多少違う衣装ではあれど豪奢な身なりだ。彼は|宁麗文《ニンレイウェン》と違い、髪飾りを着けてはいない代わりに浅い緑と対照である赤の耳飾りを着けている。
「大丈夫だって。すぐ終わるさ」
「終わる前に倒れそうだよ」
「心配すんな。倒れそうになったら俺が起こす」
「落とさないように頼むよ……」
|宁麗文《ニンレイウェン》は両手で顔を覆って膝に肘をつける。長い溜息をついたと同時に舞台の裏側に着いた。馬をひいていた|家僕《かぼく》が降りて扉を開け、二人は馬車から降りて舞台の近くにいる|門弟《もんてい》に長い裾を持ってもらいながら裏口へ入る。
そこには灯りで照らされている広間があった。見た目こそやや小さく見えたものの中は広い。様々な剣や槍、弓や鞭、盾などの武器や宝玉などが置かれている。一見すると武器庫のように思えるが、それら全ては奪取されないように頑丈に術を張られてあった。
(こんなに明るいんだ。中は……武器ばっかりだ。知らないやつもあるし、宝玉もある。ここって元々はどういう目的で建てられたのかな)
「|麗文《レイウェン》。何をそんなに見てるんだ?」
|宁麗文《ニンレイウェン》は振り返って兄を見上げる。耳飾りを揺らしながら首を傾げる彼に微苦笑を浮かべた。
「いや、ここの中ってすごいなって思ってただけ。こんなに武器があるなんて知らなかった」
「まあ、ここは元々戦争に備えるための武器庫らしいからな。けど、今は|怨詛浄化《えんそじょうか》で俺たち人間の戦争をする暇なんてないだろ。だったらってことで確か……九代目の先祖が|華伝投《かでんとう》の舞台にしたってよ」
「? それじゃその前の|華伝投《かでんとう》はどこでやってたんだ?」
|宁雲嵐《ニンウンラン》は傾げていた首を戻して腕を組む。
「前は|青天郷《せいてんきょう》の広場でやってたって。でも、|江陵《こうりょう》のど真ん中、それも|青天郷《せいてんきょう》の中心でやりゃ民の距離が近くなる。それは危ないからここでやるようになったらしい」
「なんで危ないんだ? 距離が近くても別にいいじゃないか」
「暗殺だよ。いつかは知らんが、もうとっくの昔に滅亡した世家でそういう事件が遭ったらしい。だから近すぎると危ないからなるべく高くて遠いところでやるってよ」
「へえ……」
師弟に進む足の催促をされた|宁雲嵐《ニンウンラン》は腕を解いて苦笑をする。|宁麗文《ニンレイウェン》の背中を軽く叩いて階段の前まで歩いた。二人して振り返れば遅れて到着した|青鈴《チンリン》が中に入るのを見る。彼女もまた浅い緑と白を羽織っていて、|宁麗文《ニンレイウェン》と少し似ている髪飾りを着けていた。
「|青鈴《チンリン》」
踏まないように俯きながら歩く|青鈴《チンリン》が顔を上げる。|宁麗文《ニンレイウェン》と|宁雲嵐《ニンウンラン》を見て顔を輝かせて小走りで二人の元へ駆けた。
「|麗文《レイウェン》、すごく似合ってる」
「ありがとう。|青鈴《チンリン》も似合ってるよ」
「ふふ。あんたって本当にそういうところあるわよね」
「どういうところ?」
首を傾げる|宁麗文《ニンレイウェン》に二人は呆れ笑う。|宁雲嵐《ニンウンラン》は二人の背中を叩いて共に階段を上がって露台へ向かった。そこには|宁浩然《ニンハオラン》も|深緑《シェンリュ》も待っていて、両親二人が三人を見ては微笑む。|宁浩然《ニンハオラン》が|宁麗文《ニンレイウェン》に手招きをして目の前に立たせる。
「|阿麗《アーレイ》」
「はい」
「今から|華伝投《かでんとう》が始まる。その前にお前にはこれをやろう」
|宁麗文《ニンレイウェン》は父からひとつの浅い緑の石を持たされた。訝しげに首を傾げるとそれは光眩く輝く。その光はたちまち彼の左手首を覆い、薄緑の宝玉がはめ込まれている、一本の細い腕輪へと変化した。|宁麗文《ニンレイウェン》は目を見開いて父に向けて顔を上げる。
「父上、これは?」
「この日のために作った守護石だ。これはどの邪祟からも身を護ってくれる。大事に使いなさい」
何度も腕輪に手を触れて息を吐く。|宁麗文《ニンレイウェン》は|宁浩然《ニンハオラン》の前で腰を折って拱手をした。
「ありがとうございます」
|宁浩然《ニンハオラン》は口元を上げて小さく頷いた。
|家僕《かぼく》の声が掛かり五人は露台へと足を運ぶ。灯りが徐々に消えていった代わりに陽の光が|宁麗文《ニンレイウェン》の身体を照らす。緊張していた身体は気が付けば震えが止まっていて、むしろ胸を高鳴らせていた。
光が大きくなり、それはやがて景色を観せる。前を向けば遠くにそびえ立つ宁氏の邸宅、下を向けば|江陵《こうりょう》に住む人々の姿がそこにあった。彼らは宁氏たちをずっと見上げていて、|宁麗文《ニンレイウェン》はその中から|肖子涵《シャオズーハン》を探していた。自分よりも身体が大きく、そして|体躯《たいく》もいい。そんな彼を見つけるには時間は掛かると聞かれれば嘘になる。しかし、今日は|華伝投《かでんとう》ということで舞台の下には一寸足らずも隙間がない。しかも|宁浩然《ニンハオラン》が前日まで令を敷いていて、群衆は舞台に一人増えたことに興味を持っている。彼らは我先にと宁氏、それも|宁麗文《ニンレイウェン》を見上げているので、波のように押し寄せているのだ。
(困ったな。こんだけ多いと見つけにくい……ん?)
|宁麗文《ニンレイウェン》は瞬きをしてある箇所を見つける。それは前日、彼を侮辱する寸前まで話をしていた男たちだった。彼らは|宁麗文《ニンレイウェン》を見て顔を真っ青にしていた。それに加えて目線を合わされているのでガタガタと震えている。|宁麗文《ニンレイウェン》は困りながら笑い、手を振るとその二人は泡を吹いて倒れてしまった。それを囲う群衆は「きっと手を振られたんだわ」と少し騒いで終わった。隣には|青鈴《チンリン》が友人であろう少女たちに手を振っていたので、男二人を囲んだ彼らはきっと彼女がやったのだと勘違いをしているだろう。
「諸君。この度はお集まりいただき感謝する。|華伝投《かでんとう》を行う前に一人知っていてほしい者がいる」
|宁浩然《ニンハオラン》ははっきりとした声で群衆に呼び掛ける。静まり返った景色の中に彼の視線は|宁麗文《ニンレイウェン》へと移った。|宁麗文《ニンレイウェン》は兄に背中を押され、一歩前に出て父と隣に立つ。
舞台の下に集まっている群衆は彼を一斉に見る。|宁麗文《ニンレイウェン》は今までにない大勢の|双眸《そうぼう》を目の当たりにしてつま先から脳天までに稲妻のような緊張が走り、一瞬にして身体が硬くなった。くらりと火花のような目眩がしそうになって瞼を少し伏せて足で踏ん張って立つ。
「これは私の二人目の息子で名は|麗文《レイウェン》、字は|巴《バー》と申す。前日、町を歩いていたので見た者はいるだろう」
|宁浩然《ニンハオラン》の言葉を聞く余裕がなく、緊張からなる寒さに息を浅く吸って吐くを繰り返す。後ろにいる|宁雲嵐《ニンウンラン》と|青鈴《チンリン》、そして|深緑《シェンリュ》が彼を心配する気配がした。
(世長会とはまた違う。……見られている大勢の前に立つってこういうことなんだ。世長会だと各世家の宗主と子供だけだった。こんな数えきれない人の前で立つのは……厳しいかも)
「|阿麗《アーレイ》。挨拶はできるか」
|宁浩然《ニンハオラン》は彼に声を掛ける。その声色は心配をしているように感じられる。実際、元々真珠のように白い彼の顔は青白く、日に当たると更に白く見えていた。当然舞台の下からではよく見えないので体調を気にかける人は見られないのが不幸中の幸いだった。|宁麗文《ニンレイウェン》は無理やり笑って頷き、公衆の面前で拱手を仰ぐ。
「皆様方、お初にお目にかかります。私は|江陵宁《こうりょうニン》氏の次男、|宁麗文《ニンレイウェン》と申します。此度から私もこの|華伝投《かでんとう》に参加します故、何卒お見知りおきを」
拱手をする手を下げるとあちらこちらから拍手が始まり、様々な声から鳴る歓声も響く。|宁麗文《ニンレイウェン》は自然と口元に笑みが浮かび、気恥ずかしさに眉を顰めながら手を振る。同時に頭がわずかに痛み始めてきていることにも気付いていて、それは緊張しているからと無理やり自分を納得させることに必死だった。
|宁浩然《ニンハオラン》は手を空に向けて指で術を描く。すると空から沢山の様々な形を、種類の花たちが雨のように振り続けた。
「今年も我らご先祖への手向けを」
|宁浩然《ニンハオラン》の声がまた高らかに空へと昇る。花々は様々な色を輝かせてながら落ちていき、群衆の頭や手に触れる。恥じらいを見せる少女は手に持った桃の花を髪飾りにし、勇敢な少年は地面に落ちた梅の花をしゃがんで掻き集めている。花々の中には|宁麗文《ニンレイウェン》の知らない花も存在していて、名前は知らなくとも夢中になって落ちていくのを見ていた。
ふと一輪の青い竜胆の花が落ちていくのを見た。それは他の花よりも存在が大きく、しかし小ぶりのものだった。それを目で追っていると上がっている誰かの手に落ちる。その人物の顔を見た|宁麗文《ニンレイウェン》は目を見開いた。
「|肖寧《シャオニン》」
声は届かないが小声で彼に呼び掛けると、|宁麗文《ニンレイウェン》を見つめ返して一つ頷く。今まで見つけられなかった友人をやっと見つけられた。|宁麗文《ニンレイウェン》はひと時の安心感を覚えてそれまで解しきれなかった心がようやく解れきり、肩の荷が下りたように気の抜けた表情を浮かべる。目立たず、はしゃがない程度に|肖子涵《シャオズーハン》に手を振ると、彼もまた|宁麗文《ニンレイウェン》に手を振る。竜胆の花は|肖子涵《シャオズーハン》の手にしっかりと握られていて、しかし潰れないように柔く包まれていた。
降りしきる花の中で二人は他のどれよりも目を配らずに、ただ相手だけをじっと見つめていた。
ひとしきり花が降りやんだところで|華伝投《かでんとう》が終わる。舞台の下にいた人々は多くの花を持って輝く笑顔を魅せながらその場を去った。|宁雲嵐《ニンウンラン》は弟の傍に寄って背中を叩く。
「お疲れさん。緊張したろ」
「うん……」
|宁麗文《ニンレイウェン》が一息ついたところで瞼が一度痙攣する。それが始まり、頭痛と息切れが激しくなった。全身に痺れる雷が広がっていく感覚がして膝から崩れ落ち、|宁雲嵐《ニンウンラン》に肩を掴まれる。
「|麗文《レイウェン》!」
群衆に聞かれないように小声で彼の名前を叫ぶ。彼以外の家族は彼よりも白い顔色を浮かべて彼を囲う。
(|肖寧《シャオニン》、見てくれたかな)
|宁麗文《ニンレイウェン》は白くぼやける景色の中で冷静になっていた。白の世界が段々と暗くなって瞼が落ちる。彼は|宁雲嵐《ニンウンラン》に肩を掴まれたまま意識を失ってしまった。
次に目を覚ましたのは二日後だった。ぼやけた頭と視界のまま天井を見ていると、段々と視界が明瞭になる。同時に|華伝投《かでんとう》の直後に倒れたことも思い出して寝台から慌てて起き上がる。その頃に|深緑《シェンリュ》が|無名《むめい》に入り、|宁麗文《ニンレイウェン》が目を覚ましたことに気が付くと安堵の表情を見せた。
「わた、私は……」
「落ち着いて|阿麗《アーレイ》。まだ身体がふらついているでしょう。座ってちょうだい」
|宁麗文《ニンレイウェン》は狼狽えながら寝台の上で上半身を起こしたままで、|深緑《シェンリュ》は息子のいる寝台に腰を掛けた。|宁麗文《ニンレイウェン》は顔面蒼白の状態で頭を抱えながら「どうして」「なんで」と独り言を呟いている。|深緑《シェンリュ》は彼の背中を擦りながら微苦笑を浮かべて、しかし心配ながらに眉を下げる。
「あなた、二日も寝ていたのよ。初めての|華伝投《かでんとう》なのに。きっと緊張しすぎたのね」
「そ、それは……そう、そうでしたけど……」
過ぎた数日間に困惑しつつも、体調不良の理由に思い当たる節がない。|深緑《シェンリュ》の言う通りきっと初めて参加した|華伝投《かでんとう》での緊張が原因だろう。もしこれが違うのならば、一体何が原因なのだろうか?
|宁麗文《ニンレイウェン》は深呼吸をして|肖子涵《シャオズーハン》を思い出した。身体を|深緑《シェンリュ》に向けて戸惑いの表情を浮かべる。
「母上。|肖《シャオ》……|肖子涵《シャオズーハン》殿を見かけませんでしたか?」
彼女は怪訝そうに首を傾げる。
「見ていないわ」
(そんな……)
もしや、|肖子涵《シャオズーハン》は既に帰ってしまったのだろうか。|宁麗文《ニンレイウェン》は奈落に突き落とされたかのようにまた落ち込んでしまった。たった一人の友人と行事後に、一緒に行動することさえ叶わなかったのだ。それは彼の人生初の悔いであり、情けないと感じる瞬間だった。
膝の上に置いた手を握って震わせる。|深緑《シェンリュ》は背中を擦っていた手を止めた。
「今からお粥を準備するわ。あなたはもう少し安静にしていなさい」
「……はい」
|深緑《シェンリュ》は息子の言葉に頷いて|無名《むめい》から立ち去る。|宁麗文《ニンレイウェン》は母が向こうへ行ったことを確認して寝台の上で思いきり上半身を倒した。
(|華伝投《かでんとう》が終わったあとに|肖寧《シャオニン》と遊びに行く予定だったのに……ああ、もう!)
自分で自分に憤り、悔しさに|眦《まなじり》が涙で湿る。腕で|眦《まなじり》を拭うと手首にひんやりとしたわずかな冷たさが残っていた。それは|宁浩然《ニンハオラン》からもらった緑の宝玉が埋め込まれている腕輪だった。ツンとなる鼻を軽く啜ってからそれを眺めていると、戸を叩く音が聞こえて再び慌てて寝台から身を起こす。
「母上?」
しかしそこに立っている影は|深緑《シェンリュ》ではなかった。彼女の背丈は目の前の影より小さく、また長い|外套《がいとう》もあるので広がり方が大きい。しかし、目の前にいる者はどうか。彼女より幾分か背丈が大きく、そしてすらりとした佇まいだ。|宁麗文《ニンレイウェン》は寝台から身を離して戸へ向かう。
「誰だ?」
再び声を掛けると戸の向こうで身動ぎをした。|宁麗文《ニンレイウェン》より背が高いその人間にはなんとなく見覚えがあった。
「もしかして、|肖寧《シャオニン》か?」
戸に手を掛けて少し開ける。わずかな隙間から顔を上げるとそこにはやはり|肖子涵《シャオズーハン》がいた。彼は息を呑み込んだ様子で|宁麗文《ニンレイウェン》を見下ろしていた。
|宁麗文《ニンレイウェン》は突然の訪問に目を見開いて戸を勢いよく開ける。あまりの勢いをつけすぎてしまったからか、それは滑りがよすぎる反動で彼の身体を挟んでしまった。|肖子涵《シャオズーハン》は面食らって戸を静かに開けてから彼の両方の二の腕を優しく摩る。
「はは、いいよ。そんなに心配しなくても。たまにやってしまうんだ」
「あなたはもう少し、自分を大事にしてほしい……」
「皆に口酸っぱく言われるな、それ。まあいいや、とりあえず入ってくれよ。母上が粥を持ってくる間に君と話がしたいんだ。付き合ってくれよ」
|宁麗文《ニンレイウェン》は彼の腕を引っ張って|無名《むめい》に入れる。|肖子涵《シャオズーハン》は瞬きをして、引っ張られるがままに中へ入った。
彼は数日前に羽織っていたはずの|臙脂《えんじ》の分厚い|外套《がいとう》を肩に掛けていなかった。こうした姿の彼は髪も目も合わさって全体的に黒く、金と|臙脂《えんじ》がなければ暗闇に浮かび上がることも困難だろう。
戸を閉めた|肖子涵《シャオズーハン》は彼の顔をよく見ては自分の篭手を外して露わになった手の甲を彼の首に押しつける。|宁麗文《ニンレイウェン》は急に押しつけられた彼の手の甲に息を止めて身体を強ばらせる。しかし『熱を測っている』と気付いてからは優しく笑った。
「大丈夫。熱は出てない。ただ、緊張しすぎただけなんだ。君のせいじゃない」
彼に添えられた手の甲を優しく剥がす。それでも|肖子涵《シャオズーハン》は心配そうに眉を顰めていた。|宁麗文《ニンレイウェン》がそれに首を傾げていると、|肖子涵《シャオズーハン》の瞼が伏せって唇が震える。
「……あの夜に、俺一人で。……|厨《くりや》に行けばよかった」
少しの沈黙が訪れ、|宁麗文《ニンレイウェン》が先に噴き出した。
「君だけで|厨《くりや》に行ったら迷子になっちゃうだろ。ここに住んでる私か、それかこの家に住んでる他の人に聞かなきゃ。……あ、それだったら私たち以外の人に渡せばよかったな」
先程の自分のようだと|宁麗文《ニンレイウェン》は少し笑う。理由は違えど、自分に感じる怒りの度合いは同じようだ。相手に不幸があれば、それが『自分のせいでこうなってしまった』と思ってしまう。それを|宁麗文《ニンレイウェン》は自分一人だけなのかと思っていたが、|肖子涵《シャオズーハン》もまた同じように思っていたようだった。
そのまま二人は前夜のように卓を囲んで座る。|宁麗文《ニンレイウェン》は正座に、|肖子涵《シャオズーハン》はあぐらをかいて互いに前を向いた。
「そういえば、君はいつ|華伝投《かでんとう》の会場に来たんだ? 最初は舞台の上に乗ってから探したんだけど、どこにもいなかったんだ。それで父上が花を降らせた時にやっと見つけたんだよ」
「ここの者から時刻を聞いた。客室にいると呼んでくれたんだ」
「まだ家に人がいたんだ」
|肖子涵《シャオズーハン》は頷く。
「でも父上が花を降らしてからだろ? すぐには辿り着かないと思うんだけど。走ってきたのか?」
「|御剣《ぎょけん》で来た」
「|御剣《ぎょけん》? |御剣《ぎょけん》って、あの剣に乗るやつだよな?」
「ああ」
|宁麗文《ニンレイウェン》は修士ではあるが、今までに一度も|御剣《ぎょけん》をした試しがなかった。その理由は二つあり、一つは遠くへ行く機会がないだけで、家の中でやっても仕方がないこと。もう一つは|宁雲嵐《ニンウンラン》か|宁浩然《ニンハオラン》に教わろうとも思ってはいたが、「二人のことだから教えてくれなさそう」と放棄したのもあって、つまるところどうでもよさが|勝《まさ》って試みる姿勢を見せなかったのだ。
|肖子涵《シャオズーハン》は彼の呆然とした顔に首を傾げる。首を戻して数回瞬かせてから口を開く。
「|御剣《ぎょけん》をしたことは?」
「ないよ。一度もない。いつかできたらいいなって思ってるだけで、一回もやってないんだ」
(まあ、もうほとんど諦めてるんだけどさ……)
心の中で己に対する呆れに笑っていると、|肖子涵《シャオズーハン》は顔をやや俯かせて黙った。
(やっぱり、|御剣《ぎょけん》をしてこそ修士だろうな……呆れられてそう)
|宁麗文《ニンレイウェン》はしなかったことに対する後悔で顔を俯かせていく。しょぼしょぼと瞼を伏せて肩を竦めている彼に|肖子涵《シャオズーハン》は視線をやや上にしてから顔を上げる。
「なら」
|宁麗文《ニンレイウェン》も顔を上げれば、彼がまっすぐと自分を見つめていることに気付いた。
「あなたの体調が回復したら、練習に付き合おう」
「え?」
|宁麗文《ニンレイウェン》は思いがけない言葉に思わず声が漏れる。|肖子涵《シャオズーハン》は彼の返答に眉を下げた。
「ダメだったか?」
「えっ……あ、ああ、ううん、違うんだ。まさか兄上とか父上とか、皆以外に練習を見てくれる人がいるとは思わなかったから……うん、よろしく頼むよ。君に見てもらえるなら頑張って治す」
|宁麗文《ニンレイウェン》は意気込みを見せるように両手で拳を作る。その頃に戸が叩かれて外から自分を呼ぶ声がした。
「母上」
戸に顔を向けるように上げる彼に|肖子涵《シャオズーハン》は一度横目で後ろの戸を見て、また彼を見てから席を立つ。
「俺はしばらく|江陵《こうりょう》に滞在する。|竹桐《ちくどう》という宿で待っているから、治ったら来てほしい」
「うん、分かった。なるべく早く治すね」
「ああ」
|宁麗文《ニンレイウェン》も彼に続いて立ち、|肖子涵《シャオズーハン》が戸を開ける手を見る。
戸を開けると自分より幾分か背の低い女──|深緑《シェンリュ》が粥を持って肩を小さく震わせてから顔を上げる。
「すみません」
|肖子涵《シャオズーハン》は瞼を伏せてからその場で軽く腰を折って拱手をして、彼女の脇を通って邸宅の門へと去っていく。
「あの方が、確か……」
「|洛陽肖《らくようシャオ》氏の|肖子涵《シャオズーハン》殿です」
|深緑《シェンリュ》は溜息混じりに「そう」と小さく呟いてから息子を呼んで卓の前に座らせる。卓の上に盆に乗せられた粥と|湯匙《タンチー》を置いてにっこりと笑う。|宁麗文《ニンレイウェン》も釣られて笑って|湯匙《タンチー》を手に取った。
「ありがとうございます」
「おかわりがいるなら言ってね。余分に作ってしまったからまだ余ってるの」
「はい」
粥を|湯匙《タンチー》で掬って一口食べる。|深緑《シェンリュ》が作るこの粥は昔から風邪や何かしらの軽い病に罹った時に必ず食べるものだ。|宁麗文《ニンレイウェン》は一つ息をついて身の中心から温かくなるのを感じる。一口、また一口と食べ進めて母におかわりを告げた。彼女はにっこりと微笑んで空になった椀を持っていく。帰ってきた頃にはまた粥が入っていて、|宁麗文《ニンレイウェン》はそれを食べるの繰り返しを数回した。
「これだけ食べられるなら、明日には治るわね」
「はい」
「それはそうと、さっきは彼と何を話していたの?」
急に|肖子涵《シャオズーハン》との質問を投げかけられ、食べかけていた粥を少し噴き出す。幸い椀の中に散っただけなので周りを汚すことはなかった。|宁麗文《ニンレイウェン》は咳を数回して動揺しながら椀と|湯匙《タンチー》を置く。
「……彼が見舞いに来てくれたので、少し世間話をしていただけです」
「そう。二日前の|華伝投《かでんとう》の時にもいたわね」
「はい」
(なんだ? 母上は|肖寧《シャオニン》のことを私の友人だって認めてないのか?)
背中に冷や汗を途切れなく流しながら|深緑《シェンリュ》の口から紡がれる言葉を待つ。しかし、彼女は口を開くことなく視線を横にずらした。|宁麗文《ニンレイウェン》はその態度に呆気にとられたが、また椀と|湯匙《タンチー》を手に取って最後の一口まで食べきる。
「もうお腹いっぱい?」
「は、はい」
「そう。ならもう片付けておくわ。しばらく休んでいてちょうだい」
|深緑《シェンリュ》は|宁麗文《ニンレイウェン》の頬を掌で撫でて椀と|湯匙《タンチー》を回収して|無名《むめい》を立ち去る。|宁麗文《ニンレイウェン》は彼女が去っていても怪訝に首を傾げて腕を組む。
(母上は何を聞きたかったんだろ)
「まあいいか」
寝台に寝転んで布団を身体に掛ける。温かい粥のお陰なのか身体はまだ温かった。しばらくすると睡魔が|宁麗文《ニンレイウェン》を襲い、為す術なく瞼が閉じられた。
それから数日経った頃、|宁麗文《ニンレイウェン》は|肖子涵《シャオズーハン》のいる|竹桐《ちくどう》という宿を目指した。そこは他の宿よりも大きくて目立つようだ。
歩く道先で彼は様々な人に興味津々、好奇心に駆られた視線に包まれていた。|華伝投《かでんとう》でのあの光景を思い出して今更ながら歩くこと自体が恥ずかしく思う。
(早く会いに行こう)
羞恥からなる頬の赤らみに感じながら、なるべくその視線から逃げるように足早に宿へ向かった。
店内に入れば向こうの卓に|肖子涵《シャオズーハン》の背中が見えた。|宁麗文《ニンレイウェン》が彼の元へ歩を進めると、残り一、二歩のところで|肖子涵《シャオズーハン》が後ろを振り返る。
「|肖寧《シャオニン》。遅くなってごめん」
「構わない」
|肖子涵《シャオズーハン》は席を立って卓に銀貨を置いて二人で外へ出る。相変わらず人々は|宁麗文《ニンレイウェン》をチラチラと顔を輝かせたり赤らめたりと様々な表情で見ていた。|宁麗文《ニンレイウェン》は懐から扇子を取り出して開いてから口元を隠す。やや伏し目がちになりながらまた顔を真っ赤にしつつ、|肖子涵《シャオズーハン》の隣で歩いていた。
「なぜ顔を隠すんだ?」
「恥ずかしいからだよ……|華伝投《かでんとう》での私の言ったことを聞いただろ。今思えばあんな恥ずかしいもの言いは初めてだ。何も打ち合わせなんてしないであんなことを言ったのは……なんていうか……自分でもすごいなって思ってるんだよ」
口元を隠しながら|肖子涵《シャオズーハン》の顔と地面を交互に見る。|肖子涵《シャオズーハン》は小さく何かを呟いて歩く方に前を向いた。
「そういえばどこで練習を見てくれるんだ?」
|宁麗文《ニンレイウェン》は顔を扇子で隠したまま彼に行き先を聞く。
「|江陵《こうりょう》から出た森の中に。少し歩くが、開けた場所がある」
「そっか。今日はずっと晴れそうだから、早く行こう」
町を端まで歩けば門が見える。そこから外へ踏み出した|宁麗文《ニンレイウェン》は扇子を閉じて懐に入れた。整備されている道とそうでない道の境目ははっきりと分かれていて、その先からは森や河などの自然が姿を現していた。|宁麗文《ニンレイウェン》は胸を高鳴らせながら息を深く吸う。
「すごく綺麗だ」
|肖子涵《シャオズーハン》は目を輝かせている彼を見て、瞼を一瞬だけ伏せてから前を向く。|宁麗文《ニンレイウェン》も彼に続いて歩き出し、森の中へと入っていった。