第一章 始まりの君
四 凶窟
森の中を知らない宁麗文は肖子涵に連れられるがままに歩いていく。その中でも本で見た動物や草花に目を輝かせて一人で「こういうものなんだ」と声を弾ませたり「ねえ肖寧、これ見てよ」と時折その場でしゃがみ込んで自分で見たことのなかった草木に触れるなどと子供同然にはしゃいでいた。肖子涵は彼の様子に目を細めつつも何も言わず、頷いたりと返して開けた場所へと目指す。晴天の下で度々漏れ出る日に当てられながら歩き、半|時辰《じしん》を過ぎてようやく木々の空間も日当たりもいい場所へと辿り着いた。
「ここにしよう」
肖子涵は振り返って彼を見る。
「剣を抜いて」
「うん」
宁麗文は言われるがままに剣を鞘から抜き、肖子涵も続けて自分の剣を抜いて二本の指を口元に寄せて|剣訣《けんけつ》【剣を制御する手印】を行う。すると剣は日の焼けた分厚い手をすり抜けて、まるで自我があるかのように地面と平行へ浮かんだ。
「剣に霊力を込めて」
「うん」
宁麗文も彼と同じように口元に二本の指を寄せ、瞼を閉じて霊力を指先に集めるように意識する。すると剣は肖子涵と同様に、震えながらではあるが自分の手からすり抜けて地面と平行になった。瞼を開けて見れば見事に平行になっている祓邪がいて、腕を下ろして浮かんでいるそれを何度も回りながらまじまじと観察する。屈んだり上から眺めたりと、もの珍しそうに見つめる彼を肖子涵は微かに口角を上げて見ていた。
「すごい。平行になってる」
「あなたの才能がいいからだ」
「はは、そう言われると恥ずかしいかも」
宁麗文は気恥ずかしそうに頬を指で掻く。肖子涵は頬を掻いていた彼の手を取って一度握る。
「剣に乗って」
「うん」
肖子涵から握られた手を解くこともせず、両手で彼の手を握る。わずかに強ばる手に気付かれなかった肖子涵は少しだけ息を止めて祓邪の前に移動して彼と剣を挟んだ。
宁麗文が浮いている祓邪に片足を乗せて体重を掛けると、その重さに慣れていないからか祓邪の平衡感覚が崩れてすぐによろめいて咄嗟に両手を離して彼の頭を抱える。情けない声を出して顔を赤くし、両手を頭から肩に置いて眉を下げた。
「……ごめん」
「大丈夫」
肖子涵は宁麗文の片手を取りながら後ろにまわり、姿勢を整えさせながらしっかりと支えるように腰を掴む。
「これ、難しいな」
なんとか両足を剣に乗せて均衡を保つように空いた片手を斜め下に平行に伸ばし、やや猫背になった姿勢をもう一度正す。腰から手が離れていることに気付いて振り向けば、いつの間に乗っていたのか、肖子涵が御剣をしながらまた前にまわって彼の空いた手を下から取った。
「しばらくこのままでいよう。|一炷香《いっちゅうこう》【約三十分】ほどしたら手を離してみる」
「分かった」
宁麗文は頷いて彼の手をしっかりと握り、姿勢を崩さないように祓邪の上で踏ん張る。祓邪は彼の恐怖という感情と連動しているからだろう、カタカタと怖がるように震えていた。その度に肖子涵は瞼を伏せてから宁麗文を見る。
「霊力を意識して」
「うん……」
宁麗文は霊力と姿勢を意識して呼吸を乱さずにじっと集中する。まだ震えてはいたが、少しずつ和らいでくように見られる。冬になる前だというのに、宁麗文の背中には薄らと汗が滲んでいた。
一炷香ほど過ぎた頃に肖子涵が静かに彼から手を引く。宁麗文は彼の手を名残惜しそうに思いながらも体幹を意識した。長い間保たれ続けていた祓邪はしっかりと地面に平行になり、それに伴って宁麗文本人もまっすぐと立ち続けられた。そのまましばらく水平を保つ時間も長く続き、彼はできた喜びと嬉しさで肖子涵と祓邪を交互に見ては目を輝かせる。
「肖寧、できた。できたよ」
「すごいな。宁巴は飲み込みが早い」
肖子涵は頬を赤らめながら嬉しさを噛み締める彼に頬を緩める。そのまま少しの間だけ続けて、二人は剣から降りてそれぞれ鞘に納めた。
「そういえば、君の剣はなんて言うんだ?」
宁麗文は彼の剣をまじまじと見ながら問いを投げる。肖子涵は彼の顔を見て一息ついて口を開けた。
「|廓偲《かくさい》だ」
「廓偲。いい名前だ。意味も聞いていい?」
肖子涵は少し躊躇いながらも「大切な人を……」と歯切れが悪そうに小さく呟いて頭を振る。
「皆平等に、誰もが人を想うことを願った」
「そっか。肖寧らしいな」
肖子涵に向けて微笑んで再び鞘から自身の剣を抜く。
「私のは祓邪って言うんだ」
すらりと伸びているその剣は毎日の手入れによって輝きを増していて、鏡のように宁麗文を写している。
「邪気を祓うからか」
「そう。元々身体が弱かったこともあるから、そういう意味での邪気を祓うも重なってるかな」
「いい名前だ」
声色に柔らかさを含める彼に宁麗文は歯を見せて笑う。続けて御剣の練習を幾度かして、遂に日が暮れていく。茜と藍の境目が見える空を見上げた二人は森を抜けて江陵へ戻る──つもりだった。
そこに人の悲鳴が聴こえ、二人は同時に振り返る。互いに目配せをして、宁麗文は唾を飲み、肖子涵は微かに口を動かして眉を顰めた。
「今のは?」
「──行こう」
肖子涵は剣の柄に手を掛けながら向いた方へ足を変える。宁麗文も彼に続いて歩き出した。
どれほどの時間が経ったのかも分からない。辺りには点く灯りがなく、そして森の中にいるとのこともあって様々な木々に視界を阻まられている。そのため、正確な方向も時刻も分からないのだ。宁麗文は進んでいくうちに不安になって彼へ寄る。肖子涵は彼が寄ってきても決して拒むことはせず、むしろ彼の腰を掴んで引き寄せていた。
再び人の悲鳴が聴こえる。先程の同じ声に宁麗文は首を傾げる。肖子涵は何も動じない。
「こんな同じ人の声がするものなのか?」
「分からない。ここから更に暗くなるから、不安なら俺の服を掴むといい」
「ありがとう。君は優しいね」
肖子涵はそれに何も答えずに奥へ進む。草木を静かに踏む音を続けて行くと次第に開けた場所に着き、見上げればそこは岩が積み上がって構成されている洞窟だった。宁麗文は森の中にある洞窟に目を丸くして肖子涵に顔を向ける。
「この洞窟、なんでここにあるんだ?」
「ここは各地で点在する森で唯一の洞窟だ。他の森にはない」
「江陵から近くの森にこんなものがあるなんて……」
「息を潜めていて。中に何があるか分からない」
「うん」
宁麗文は彼の言う通りに静かに息を潜めつつ、不安と恐怖で震える手で肖子涵の服を掴む。肖子涵は懐から黄色の札を取り出して指先に霊力を込めて札に光を宿す。
『|点火術《てんかじゅつ》』──仙術の基礎として最初に学ぶものであり、修士にとって必要不可欠なものでもある。それはたちまち炎となり、周囲を軽く見渡して折れた枝を見つけてそれに点す。ぱちぱちと音の鳴る火は二人の顔をよく照らしていて、唯一の光源となった。
「進もう」
いつもより小さな声で呟く肖子涵に宁麗文も頷いて歩いていく。砂利と二人の足音がこだまする洞窟内では小さな鼠が歩きまわっていてそれに微かな恐怖と膨らみつつ不安に宁麗文の指先が震える。歩く度に土埃と石が靴を阻んでいて時には|躓《つまず》くこともあった。宁麗文はそれに声を出しそうになって慌てながら口を塞ぎ、肖子涵はその様子を見ずに彼を連れて歩く。
奥へ、奥へと進むとそれまで幅が狭かった道が段々と広くなっていく。到着したと思われる、周りが岩の壁に包まれている広場のような空間で、天に向かって伸びている道はぽっかりと穴が空いていた。その中心には山があるように見えていて、そこから漏れる大きな光源の、月の光がそれを|満遍《まんべん》なく照らす。時折降る、上空から流れる強風で松明の火が一瞬だけ止まり、すぐに音を立てて消える。消えた火を見た二人はその月光に照らされている目の前にある山に顔を向けた。
「うっ……!?[#「!?」は縦中横]」
宁麗文は顔面蒼白になって袖で自分の顔を隠し、一歩退いて背けた。
そこには血にまみれた人のような肉塊がごろごろと転がっていて、中には部分的に白骨化しているものさえもあった。崩れてぽっかりと空いた|眼窩《がんか》からは月光で照らされていないからか暗闇よりも暗く見える。だらりと唇から垂れ下がった舌は乾きつつありまるで首吊り死体のようで、今にも欠片となって落ちそうに見えた。老若男女問わず様々な年代の人間が積み重なっているこの山を直視したならば、きっと一生忘れることのできない、こびりついて取れない焦げとなって脳に刻まれるだろう。
異臭はそれほどしないが、未だかつてない凄惨な光景に、視覚、感覚を得たことがなかった宁麗文は肖子涵から離れて隅で胃液を吐いた。肖子涵は彼へ寄って背中を優しく擦りながら辺りを警戒する。
この山に積まれている屍たちはおそらく、己の不注意からなる転落によって死亡したと見られる。この洞窟の上にも道はあって、様々な草木で見えにくいが崖に似た構成にもなっている。慣れていない者なら容易に足を踏み入れて、穴に気付かないまま転落した衝撃に耐えられなくなって絶命したのだろう。異臭がしない原因は皆目見当もつかないが、もしそれもしていたのなら宁麗文はきっと気も失っていた。
「宁巴。大丈夫か」
何度か咳き込んだ宁麗文は首を弱々しく振る。
「ごほっ……大丈夫。急に離れてごめん」
「構わない。あなたが怪我さえしなければいい」
「はは、過保護だ」
宁麗文が自身の口元についたままの吐瀉物を袖で拭おうとすると、肖子涵が彼の腕を掴んで代わりに自身の指で拭って自身の服に擦りつける。それに面食らった宁麗文はぽかんと口を開けてすぐに我に返った。
「ちょっと、何してるんだ!?[#「!?」は縦中横] 汚いのにするなよ!」
突然の行動に慌てふためく宁麗文を前にしていながらも、肖子涵は嫌な顔一つもせずに、ただただ平然と立っている。
「他人のゲロを拭うバカがどこにいるんだ。私は自分でちゃんとするから、君は何もしなくていいんだ」
肖子涵は眉を微かに顰めて深く重い息を吐く。
「……あなたは十八もの間、世間を知らなかっただろう。この世にはあのような危険なものが多く存在する。それがいつか、あなたを脅かすかもしれない。殺される危機を感じてしまう瞬間だってある」
「はあ? それと私のゲロを拭うことと何が関係があるんだ? そんなこと言われたって分かんないよ」
「一緒だ」
肖子涵は一度口を噤んで更に眉根を顰める。厚い唇は微かに開いて閉じて、震える声を絞り出した。
「……俺は、あなたを護るんだ。たとえ死んでしまったとしても構わない。あなたを護るためにここにいる」
彼の言葉に首を傾げながらも、しかし苦しそうに『言わせてしまった言葉』に下唇を噛む。
どれだけ過保護であっても両親のような心配を掛けられているような態度ではなかった。むしろ、まるで|昔《﹅》|か《﹅》|ら《﹅》|自《﹅》|分《﹅》|自《﹅》|身《﹅》|で《﹅》|決《﹅》|め《﹅》|つ《﹅》|け《﹅》|た《﹅》かのような口振りだった。それに厭な感覚というものではなく、|心做《こころな》しか似たような言葉を聞いたと錯覚させられる。実際に聞いたこともないのに、宁麗文はなぜかそう感じてしまった。宁麗文は瞼を閉じて下唇から歯を離し、代わりに己に傷害を与えるように奥歯を噛み締める。
(なんでここまで言われなきゃいけない──いや、私が言わせてしまったのか。私が肖寧に自分の昔のことを話したから。この前まで体調を崩してしまったのを見せてしまったからだ。なんとも情けない……)
瞼を更にきつく閉じて掌を爪で皮膚を食い破るように握り締める。
(とんでもなくバカでクソ野郎だ! なんでそんな最低なことをしたんだ!![#「!!」は縦中横])
宁麗文は大きく自分を侮辱してからその思考を打ち消すように頭を振る。
「いいよ、君の好きにすれば……とにかく、ここで何があったのか調べよう。なんで彼らが死んだのかも確認しなきゃ」
瞼を開けて彼を見ることもせずに顔を山に向ける。直視をしないように目を細めてから懐から扇子を取り出して口元を覆った。肖子涵は自分を見なかった彼に目元を歪めて下唇を噛み、頭を振ってから先に一歩出た。
月光に照らされた屍たちからはぬらりとした血がとめどなく流れている。先程見た情報よりも詳しく見える状態で、それらは四肢欠損、本来は曲がるはずのない関節の向き、衝撃で破れた皮膚から覗く骨が見える。眼球は山から落ちてそこら中にある石ころのように転がっていて、踏んでしまえばその柔らかさに恐怖心を抱くだろう。表情からはそのどれもが悲痛を訴えていて、何ひとつ和らげるものがなかったことを示している。また、山の下部にあった屍は上からの重圧によって酷く損傷していて、微かに見える隙間から蛆虫が湧いて見える。
顔を青くしている宁麗文は扇子で口元を覆いながら吐き気を堪える。それに肖子涵が気付いて顔を向ける。
「大丈夫」
「……」
肖子涵は瞼を伏せてから顔を再び山に向ける。
「それにしても、なんでこんなに死因が違うんだろう。穴から転落しただけでこれだけ違うのか?」
「転落の仕方によっては大抵のことはありえる。しかし、これは他より違う」
肖子涵は一体の屍の前に片膝をついて状態を確認する。宁麗文も続けてその様子を上から見れば、明らかに違う死因を示している屍がそこにあった。
「これは──頭部がない!?[#「!?」は縦中横]」
「ああ。凶鶏と同じ捕食の仕方だ」
「でも、事件はもう終わったんじゃ……」
目が慣れてきていた宁麗文が口元から扇子を離した時、また肖子涵が頭を上げて彼を見た瞬間だった。
「──あああああああああ!![#「!!」は縦中横]」
男にしては柔らかく、女にしては重々しく、子供にしては成熟しすぎていて、老人にしては若すぎる悲鳴が彼らを襲う。
──それも、また、同じ人間の声だ。
宁麗文と肖子涵は互いに顔を見合わせる。ありえないことだが、これは起こってしまった事実になる。
「まだ、ここに凶鶏がいる」
その悲鳴が段々と大きくなり、洞窟内にこだまする。宁麗文は青ざめて扇子を両手で持ちながら辺りを見回し、肖子涵は立ち上がって廓偲の柄に手を掛ける。懐からまた札を取り出し、少し抜いた刃に自身の指を切って乾ききらないうちに文字を書く。血で少し滲んだ札を前に向ければそれは瞬く間に四散して二人を包み込む。宁麗文はその術に見覚えがあった。
「|守霊術《しゅれいじゅつ》か」
「ああ」
『守霊術』──これは使う者の霊力によって左右され、また自由に厚さと強度を操れることのできる術だ。霊力が強ければ強くなるほどその壁の強度も厚さの操作が容易く、弱いものだとある一定の強度と厚さしか操作ができない。つまり、『自分が思うように操作をしなければならない』術の一種なのだ。
例として挙げれば、宁雲嵐が使用する際は怨詛浄化ではなく鍛錬のみで、霊力や武力による建築類や草木の損壊や騒音を防ぐためにあえて強く、厚く操作をしていた。しかし肖子涵のものは彼とは違って音がよく聴こえていて、それは神経を尖らせなければ聞こえないはずの明瞭な聴力を備わっていると錯覚させているほどだ。それに加えて宁雲嵐ほど、いや、彼よりも圧倒的に薄い膜であり、しかしながら術を使って広がった瞬間に壁の外にあった石や眼球が更に外へと押し寄せられたか、叩きつけられたかのような音を立てて爆散するほどに強い。
宁麗文は押し寄せられた石や眼球が潰される光景を目の当たりにして彼と地面を交互に見る。宁雲嵐の時と全く違う術の程度に口が微かに開いて扇子を持つ手が静かに下がった。
直後、洞窟の上から悲鳴と共に何度か縦に揺れるような振動が起こる。宁麗文は顔を青から元々の自身の肌よりも白に染め上げて扇子を閉じて彼の左腕にしがみつく。肖子涵はそれに動じることもなく眉を顰めて臨戦態勢に入る。
「助けて、たすけて、たすけてぇ」
「いたいぃ。いたいよぉ」
「おかあさぁん。しにたくなぁい」
「ころさないでえ。おねが──ぎゃああああああああ!![#「!!」は縦中横]」
この叫び声は聞いた何ものを怯えさせ、恐怖の渦へと押し込めていくだろう。現に宁麗文が家の中では知りようのなかった実際の悲鳴に震えが止まらず、腕を掴んでいた力を更に強める。肖子涵は剣を更に鞘から引き上げて空へと顔を上げた。
そして遂に、天空から一里弱の大きい魔がけたたましい音を立てながら山の上に落ちた。
月光に照らされたのは黒い身体で、紫色の双眸をぐるぐると回してから二人を捉える。その奥からは憎悪、貪欲、好奇心などが見える。首を動かさず二人を捉え続け、それはまるで品定めをしているかのようだ。宁麗文は次第に息が浅くなって気絶寸前の筋肉の弛緩を感じる。その薄茶の双眸の奥には絶望が見えていた。
(こんなの──)
「見るな」
腕から手が離れそうになっている彼に肖子涵が耳打ちをする。我に返った宁麗文はそれでも、首を横に強く振った。
「今更見ないなんて無理だ。あいつは私たちを食べようとしてる。あんな大きい化け物なんてどうやって倒せって言うんだ!?[#「!?」は縦中横]」
「大丈夫。俺がいる」
宁麗文は彼を見る。肖子涵もまた、彼を見ていた。
「俺を信じて」
肖子涵は自身の左腕から彼の手を離して銀の音を鳴らしながら廓偲を完全に抜いて守霊術から出る。その時の膜は水面が揺れるように彼を外に出しきった。宁麗文は目を見開いて、白になっていた顔のまま彼の服の裾を掴もうとする。しかし、瞬く間に離れてしまったせいでそれは上手く掴めなかった。
「肖寧!![#「!!」は縦中横]」
宁麗文が彼を呼ぶ声と同時に凶鶏も轟音を上げるかのように鳴く。肖子涵は廓偲を片手で持ちながら懐から札を何枚か取り出してそれに投げつける。頭を中心にびたりと札がつき、そこから通常よりも強い青い炎が上がる。凶鶏は突然の熱さに更なる叫びを上げながら首を振って風を起こす。肖子涵はその隙を見て更に走る速度を上げ、壁を足で蹴るように上がって、青い炎にもがく首を柔らかいものを扱うかのように断ち斬った!
彼が地面に着地した瞬間、わずかに時が流れる。すぐに首を斬られ大量の黒い血を流した凶鶏はその場に崩れ落ちた。廓偲を鞘に戻して顔についてしまった黒い血を腕で乱暴に拭いとる。一瞬と呼ぶべきであろう、鮮やかな手際の良さに口を開くだけの宁麗文に肖子涵が声を掛ける。しかし彼はそれに気付かず、ただただ呆然と立ち尽くすだけだった。
(これは──夢なのか? 本当に、あったことなのか……)
「宁巴」
宁麗文は彼からの二度目の呼びかけに我に返る。いつの間にか肖子涵が目の前に立っていて、薄く強大な守霊術は既に解かれていた。
「他にはいないようだ」
「え、あ、うん……」
また宁麗文から離れた肖子涵は今しがた絶たれた凶鶏へ戻り、廓偲で黒く異様に膨れ上がっている腹部を静かに斬る。中から大量の黒い砂が出て瞬く間に彼の足元を黒く染めあげた。
(あれは、確か──)
宁麗文は過去の怨詛浄化の報告書で見た記録を思い返す。
凶鶏の腹には大量の黒い砂が|充填《じゅうてん》されていて、腹部に『突く』『斬る』などの衝撃が当たればすぐに破れる構造になっている。それは他にいる凶鶏または邪祟が砂嵐に紛れて対象者に反撃をする隙を狙うためで、己の命と引き換えに敢えて腹部を主張して弱点の首よりやや下を守っているのだ。
凶鶏は基本的には一般的な鶏と構造は変わらないので、浄化をする際にはその弱点を理解しなければならない。しかも彼らは死んだその後も厄介であり、浄化した直後に腹を裂いて砂を出さなければ爆破して棘のような砂嵐を起こして仲間等を呼び寄せることもある。今のように狭い範囲の、周りに他の凶鶏がいない場合は警戒するほどではないが、もう少し広めの、それこそ森の真ん中辺りなどの範囲だと速やかに処理をしなければならない。二次災害を防ぐためにも早急に腹を裂いて砂を出しきり、他の邪祟をおびき寄せることもなく塵にさせるのが修士の中で取り決められているのだ。
魔は亡くなった人間の怨念から様々な形で生まれる。種類は豊富であって、それは食虫植物や動物、魚やごく稀に人になり損ねた形容しがたい物体にもなる。その中でも凶鶏は『人の言葉を真似る』特徴からして、知識に飢えていると推測されている。その訳は随分前に解明されていて『ろくに生きる術を与えられてこなかった』人間が怨みを募らせていたからだ。
そしてなぜ家畜の中でも鶏を選んだか、その理由は「動物の脳は頭にあり、鶏の脳は頭に|非《あら》ず」という、鶏自体の構造を熟知したが故だった。
「……凶鶏の脳は、普通の鶏と同じ場所にあるって聞くけど。君は見たことある?」
「ない」
「そう……」
宁麗文も彼の隣に立って少しずつ塵になっていく黒い物体を見る。構造を確かめるように切断された頭部と|頸椎《けいつい》の間を覗くが、月明かりで照らされているはずの中身は暗く、先も裂かなければ分からない。宁麗文は少し息を吸って、固唾を飲んで指で祓邪の柄に触れる。肖子涵は彼を一瞥したが特に何も言うことも止めもせずに口を噤む。
宁麗文は銀の音を立てながら祓邪を抜き取り、両手で持って刃先を横にして凶鶏の首元に添える。一度入って、本人の意思とは関係なく勝手に動くかのように腕が剣を横に引いて肉をいとも簡単に破っていく。徐々に感じる動悸、荒い息遣い、震えていく腕を飲み込んで一気に肉を斬り裂いた。
血肉を破られたそれからもう聞こえないはずの悲鳴が洞窟の中を満たしたように感じられる。砂ではなく代わりに黒い血が吹き出して宁麗文の身体を酷く汚した。
「──……」
初めて斬った感覚、既に死んでいるのにまだ生きていると錯覚してしまった感情、三半規管が貫かれたような|悪心《おしん》に身体が震える。それほど経ってはないが数刻が経ったかのような体感を得てやっと我に返った。
祓邪を両手から片手に持ち替えて、空いた手で肉を少し持ち上げる。噴き出した血でぬめって更なる不快感に顔を強ばらせてしまったが、それでも持ち上げて中身を見た。
切断された頭部の下、頸椎よりもやや上のその場所には脳──ではなく、何もない空間があった。
「ない」
小さく、静かに呟く宁麗文の、肉を持つ手の隣でちぎるように引き上げる肖子涵もまた確認する。
「ないな」
「凶鶏はただの鶏じゃない。あくまでこの形を模しただけで、魔は……邪祟は完全なものにはなれないんだ」
宁麗文が呟いた直後に塵になる速度が速くなる。上空から流れる風が塵を巻き上げていく。その様子を見ている宁麗文に肖子涵は彼の手から祓邪を取って自身の服の裾で黒い血を丁寧に消していく。汚れを消し去って彼に何も言わずに渡した。
「ありがとう」
宁麗文は少しだけ顔を上げて、疲弊した様子で微笑んでから祓邪を鞘に収める。次に汚れてしまった頬に手を伸ばそうとする肖子涵に首を横に振った。
「自分のことは自分でやるよ」
静かに彼から背けて自分の裾で顔を乱暴に拭う。肖子涵の手は小さく虚を掴んでゆっくりと下がった。
パキ、と小さい音が聞こえて肖子涵が振り返る。月光の下で凶鶏によって潰された屍たちの山の上に一本の白い細い棒が天に向けて伸びていた。肖子涵は正体を確かめに廓偲に手を伸ばしながらそこへ向かう。
顔を拭き終わった宁麗文は隣にいるはずの彼を見失って顔を右往左往へと動かす。洞窟内の月明かりが降り注いでいる真下へと彼が歩いていた。彼に追いつこうと一歩踏み出すと、青白く照らされている棒が軽い音を立てて曲がって屍たちを叩きながらもう一本の棒を出す。その動きは生きている人間のようで、気味の悪い光景だった。また青ざめる宁麗文は眉を顰めて肖子涵の元へと駆けていく。彼は至って平然とした佇まいでそれの足元にまで登った。
屈んだ瞬間、急に慌ただしく動く二本の白い棒が何度も山を叩く。振動によって屍が動いていって、わずかな隙間が徐々に作られていく。肖子涵はそれに眉を顰めて更に屈もうとすれば、白い二本の棒がすぐに引っ込み、その代わりだと言わんばかりに無数の細い針が彼を襲う!
「危ない!」
針に襲われ姿勢を崩す肖子涵を庇おうと一気に山へ駆け上って脇腹を押す。黒の双眸が針から彼の白くなった表情、脇腹を押された手、彼に切り替えて迫る鋭いそれへと動き、咄嗟に廓偲を剣訣で引き出して宁麗文から針を遠ざける。穴から出たそれからは「ガキンッ」と鋭い音が聞こえ、まるで硬い金属と刃を交じったかのようだった。
片手で剣を持ち直して弾き飛ばした攻撃を再度防ぎ、もう片手で屍の山から転げ落ちそうになる宁麗文を抱える。一度に二つの行動を行ったせいか、肖子涵は足を滑らせて抱える彼と共に山から転げ落ちた。頭から落ちたのにも関わらず、下には多くの屍がいたからか、多少の緩衝となったようだ。怪我もなく済んだものだが、警戒を解かない肖子涵と震える宁麗文は改めて山の頂点に立つ何かを見上げる。
それは屍たちを四方八方へと動かし、中央の穴を大きく広げていく。青白い光は雲に邪魔をされ、終いには洞窟の中を照らさなくなってしまった。肖子涵は懐から点火符を取ろうとしたがまた攻撃をされてしまっては元も子もない。|迂闊《うかつ》に出すべきではないと手を下ろした。
骨や皮膚を食い破るような音だけが|耳朶《じだ》へ伝導し、なんとも形容しがたい気持ち悪い音が次第に大きくなる。肖子涵は宁麗文を後ろに置き、その行動はまるで彼を守っているかのようだった。
中央の穴からは微かに、はっきりと鶏の音がした。二人は顔を見合せて目を丸くする。
「ちょっと待ってくれ。もう凶鶏はいないんじゃなかったのか!?[#「!?」は縦中横] どうして鶏の音が聞こえるんだ?」
「分からない。もしかするとここの怨念が生み出したのかもしれない」
凶鶏の雛鳥は様々な産声を上げながら屍たちをぐんぐんと吸い込んでいく。バキバキ、ボリッと硬い何かを噛み砕きながら吸い込んでいく。肖子涵と宁麗文は固唾を飲み込みながら、特に逃げ出すこともできずに呆然と立っていた。
(凶鶏は親がいるって聞いたのに、どうしてあの屍たちから生まれるんだ? 何もかも違うじゃないか!)
「肖寧、逃げよう。ここにいたら死んじゃうよ」
「ダメだ。下手に動くと標的にされる」
「だからってこのままじゃ危ないだろ!?[#「!?」は縦中横]」
白を過ぎて黒く顔色を変える宁麗文を|一瞥《いちべつ》した肖子涵は眉を顰め、懐から別の札を出して霊力を込めて勢いよく地面に叩きつける。簡単な紙で書かれているその札は瞬く間に鈍い煙幕を放った。
肖子涵は彼の腕を取って即座に脚を大きく広げながら走り出す。宁麗文は訳も分からずに引っ張られながら洞窟を抜け、ただひたすらに走る。森の入口付近まで走り抜いて息を切らしながら肖子涵を見た。
「今のはなんだ? 見たことない術だけど」
「目くらましだ。少しの時間は稼げたが、あれはいずれ人里に降りる。早いうちに始末しておかないとまた被害が出る」
「へえ、目くらまし……。じゃなくて、父上に報告しておいた方がいいよな? とにかく、助けてくれてありがとう。私は家に戻って父上に言ってくるよ」
「待て」
自分に背を向けて歩く彼の腕を掴んで止めさせる。宁麗文は振り返って首を傾げた。
「今の服の状態が分かっているのか?」
「服? あっ……」
急に思い出して服を軽く引っ張って状態をよく見る。暗がりではあるが、元々は白と薄緑で彩られたその服には黒い血がべっとりとついていていて目立ちすぎていた。もしこのまま帰宅してしまえば、家僕や門弟はもちろん、両親も宁雲嵐も青鈴も卒倒してしまうだろう。宁麗文は眉を顰め下唇を軽く噛みながら身なりを整えた。
「じゃあ、帰れないじゃないか……どうしよう……」
宁麗文はへなへなとその場で屈んで頭を抱えていると、彼の前に立った肖子涵も片膝を立てて彼の肩を叩く。見上げると先程までは曇っていたはずの夜空にまた月が出てきていて、それを影にした彼が宁麗文を見下ろしていた。
「宁雲嵐殿を呼べばいい」
「兄上を? どうやって?」
肖子涵は人差し指で自身のこめかみを軽く叩く。その行動に理解を示すのに一瞬の間が空いて「あ」と声が出た。
──『|伝達術《でんたつじゅつ》』だ。
これは本来札を使用してなる術だ。また、近くにあるものなら石だろうが木の棒だろうが、何にでも媒介として使える。もし自分が持っている札がなくなってしまった際にも非常時として身の回りにあるもので、遠くにいる者と連絡を交わすことができるものだ。
使い方は至って簡単で、その媒介になるものに小さく陣を描いて、そこに霊力を注ぎ込む。その中に伝達するものを入れてしまえば一瞬にして相手に届くというのだ。普段から身につけているものでも伝達符として活用できるが、ほとんどは札でこなしてしまうので、これは最終手段として使われている。
「そっか、それがあった。肖寧、申し訳ないんだけど一枚だけ札をくれない?」
「もうない」
宁麗文は口をぽかんと開ける。もしかしたらこの肖子涵は最初から印されている術のある札を多く持っていて、描かれていないまっさらな状態の札はあの守霊術を使った一枚しかなかったのだろう。更に懐には入る数は限られていて、|尚且《なおか》つ彼の袖は|箭袖《やそで》で宁麗文のような袖口に物を入れるには不向きだ。つまるところ、収納箇所が少ないので懐に術のあるものとないものを含めた必要最低限の数だけ入れたのだろう。
宁麗文は深く息を吐いて地面の辺りを見回す。手首に視線を動かした時に月光で光った腕輪を見つけた。それは華伝投の直前に宁浩然から|賜《たまわ》った、邪祟除けの腕輪だった。
「……これ、使えるかな」
腕輪を指で慈しむように撫でながら呟く。肖子涵はそれを見て浅く息を吐いたような声を出した。
「……使える」
重々しい声で呟き、瞼を伏せてから彼を見上げる。
「ただ、あまり回数は重ねられない。使用しすぎると壊れてしまう」
「分かってるよ。兄上を呼ぶだけ。……でも、これにどうやって陣を描けばいいんだ?」
「地面に陣を描いてその上に置けばいい」
「そっか。それもありか」
宁麗文は近くにある棒を探して地面に掌ほどの陣を描く。この腕輪は外すことはできないので、仕方なく袖を捲って手首ごと地面に置いた。すると陣は薄緑色に変化し、宁麗文はそれを見つめながら霊力を送る。
「──兄上。私だ、麗文だよ。今埜湖森の前にいるんだけど訳あって家に帰れないんだ。迎えに来てくれないか?」
瞼を閉じて宁雲嵐からの返事を待つとすぐに光が消えた。宁麗文は手首についた砂を払いながら立ち上がる。
「待とっか」
「ああ」
宁麗文は暗い空を見上げる。洞窟内にいた時より既に雲はちぎれてなくなっていて、そこに存在しているのは青白く光る月とまばらに散っている星のみだった。家にいる頃よりも遥かに広く見えていて、普通の人間では味わえない感動を目の当たりにする。肖子涵も続けて立ち上がって宁麗文の視線のあとを追うように空を見る。
「──それにしても、すごく綺麗だ」
「何が?」
「夜空だよ」
「いつもと変わらないが」
宁麗文は笑いながら彼に顔を向ける。
「違うよ。こんなに広いだなんて知らなかった。……君は初めてこの星空を見たとき、綺麗だって思わなかった?」
「……さあ。かなり昔の記憶だから、覚えていない」
「そっか」
肖子涵も彼の顔を見る。二人の間には光が差し込んでいて、洞窟の中にいた時よりも互いの顔がよく見えた。
「あの凶鶏の子供の生まれ方なんて本で読んだのと全然違ったな。書いた人は何を見たんだろう」
「あるいは出産の形が変わったか」
「何百年もいて周りに馴染むように進化するのは知ってるけど、出産にも進化とか退化とか存在するものなのかな。なんというか、奥が深いというか。でも、ここまで来たんだったら本をもう一度書き換えなきゃいけなくなるな。誰かに頼んで上書きしてもらわないと」
宁麗文は微苦笑して手首の腕輪をもう片方の指で擦る。肖子涵はそれに微かに眉を顰めたがそれもやめて一つ瞬いた。
「……その腕輪は?」
宁麗文は口を弧に描いて自身の手首を空に掲げて「もらったんだ」と口を開く。
「華伝投の直前にね。兄上は既に違う物でもらってたんだけど、私はまだ家から出てなかったから。いつかの為にって父上が作ったんだ。どう? 綺麗だと思わない?」
宁麗文は腕輪の真ん中に存在している薄緑の宝玉を月光に照らす。それは青白くもあるが、それに負けないように薄緑に光り輝いていた。肖子涵は輝く薄緑に口を薄く開けて、しかし閉じてから何も言わずに頷く。
「そろそろ宁雲嵐殿が来るだろう」
「うん」
森の入口を背にして町への道に立つ。一盞茶もしないうちに宁雲嵐が森の入口付近へと御剣で到着し、一目見た二人を前にして絶句する。
「お、お前ら……なんでそんなに汚れてるんだ? しかも黒い……ん? 黒い?」
それに宁麗文は目を弧にする。
「ああ、これ? この先の洞窟で凶鶏と出くわしちゃったんだ」
「でっ……」
宁雲嵐は再び愕然としてすぐに我に返って弟の腕を引っ張って豪静に片足を乗せる。
「早く帰るぞ!」
「はぁ!?[#「!?」は縦中横] このままで帰れるわけないだろ! なんのために呼んだと思ってるんだ!」
「……あ〜〜っクソ!![#「!!」は縦中横]」
宁雲嵐は豪静から片足を降ろし頭を搔いて、弟から手を離して自分の外套を無理やり被せる。また腕を引っ張って後ろに立たせてから豪静に乗り上げた。後ろを向いた宁雲嵐は次に残された肖子涵にひとつの包みを投げ渡す。手元に渡ったそれの結び目を解くと臙脂色の外套が姿を現した。
「行く途中の宿で主人があんたを探してた。この外套はあんたのだろ? 洛陽肖氏の大事なものなんだから、失くしたら大変なことになるだろ」
「ありがとうございます」
「ほら麗文、行くぞ」
宁麗文は兄と肖子涵の顔を交互に見て戸惑う。どうして肖子涵を置いて自分だけ帰宅するのか。彼と共に帰宅して報告した方が|信憑性《しんぴょうせい》が高いはずなのに、なぜ連れて行かせないのか。しかし、宁麗文がそれを口にする前に豪静で高く空に上がってしまい、肖子涵の姿をまともに見れないまま連れて行かれた。
残された肖子涵の手には、日に当たらなくても分かる臙脂色の外套が、風にたなびかれているだけだった。