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第一章 始まりの君

五 思い出話

 宁麗文が帰宅した頃には寝静まっていたが、宁雲嵐と共に中に入れば書室に灯りが点いていて、中に宁浩然が座っていることに気が付いた。  「ただいま戻りました」  「おかえり」  宁浩然は息子二人に顔を上げることもせずに巻物に目を通しながら返す。宁麗文はそれに瞼と唇を閉じて呆れ、宁雲嵐もまた目をぐるりと回していた。  (遅くなったことに怒ってるんだろうな……)  しかしこのまま「じゃあ部屋に戻って寝ますね」と言えるかと問われれば首を横に振るしかない。現に今、宁麗文は先程見てしまった現状を伝えて対策を考えてもらわなければならないからだ。一度だけ唾を飲み込んでから宁雲嵐よりも一歩前に踏み込んだ。  「父上。埜湖森の奥に洞窟があるのはご存知ですか?」  「ああ。あそこは陰の気が強いから、誰も入りたがらないがな」  「そこに凶鶏がいました」  それに目を見開いて顔を上げる。そこには黒い血で染まった宁麗文と一歩奥にいる、気難しそうな顔をして自分の外套を腕に抱えている宁雲嵐が立っていた。宁浩然は次男のその姿に一瞬だけ卒倒しそうになったが、眉間を揉んでなんとか耐えた。  「凶鶏は全て退治したはずだが」  「はい。私も聞きました。しかし、いたのは事実です」  「それで……お前はそれを見てどうした?」  「肖子涵殿が倒してくださいました」  この答えに宁浩然と宁雲嵐も面食らう。「まさかのお前じゃないのかよ!」と二人して同じことを思っていたが、これまでの怨詛浄化の経験に踏み込んだことのない宁麗文のことだ、まともに戦えることもないのは当たり前だと考えを改める。宁麗文はそれに気付かず唇をまた開いた。  「父上。そこで分かったのですが、凶鶏には脳がありません。彼らは完全な動物ではなく、あくまで模したものです。それに……」  「それに?」  「彼らは、普通の動物と同じ繁殖方法ではありませんでした。屍の山から生まれたのです」  「な、なんだそれ!?[#「!?」は縦中横]」  『屍の山』という言葉に宁雲嵐の腕が強ばって外套が落ちる。口をあんぐりと開けて裏返る声と共に弟の肩を掴んで顔を向けさせた。  「凶鶏は親から生まれるんじゃないのか? なんで屍の山から生まれるんだよ、っというか山ぁ!?[#「!?」は縦中横] お前よくそれで普通に立ってられるな!?[#「!?」は縦中横]  「阿雲」  宁浩然が長男の名前を呼んで黙らせる。苦い顔をして弟から手を離して渋々と外套を拾った。宁麗文はそれに頬をぴくぴくと動かすしかない。  宁浩然は宁麗文本人のみの報告が欲しいだけで、別に関わってもない人間の報告などは必要ないのだろう。当然のことではあるが、それを長男にも制してしまうのは如何なものか。  (またやってる……)  宁麗文はこれまでこういう制限を幾度も目撃していた。これはもちろん怨詛浄化の報告にも留まらず、弟子同士の喧嘩の仲裁や家僕の失敗の埋め合わせをした出来事でも当てはまっていた。当の本人は別に褒めてほしいからやっているわけではなく、弟子や家僕たちを庇って言っているわけなのだが、宁浩然という父は「自分のことは自分で言わせろ」から始まり「勝手に出しゃばってややこしくさせるな」の終わりまでの繰り返しを何度も返して宁雲嵐からの反発の種を撒き散らかしてしまうのだ。その度に宁麗文と青鈴、そして深緑たちが宁雲嵐への心配を重ねていて、本人は明るく振舞っていてもやはりどこか不安になってしまう。  (兄上、いつか父上のこと刺しそうなんだよな。ああもう、後ろから分かる。ムカついてるのすっっっごく分かる……!![#「!!」は縦中横])  自分には後ろの目というものがないのには自覚しているが、それでも背中に感じる兄の恨めしい気配がする。父と兄の間に挟まれるといたたまれなさが更に倍増してしまうのだから、一刻も早く無名へと帰りたくなってきていた。  宁浩然は一つ咳払いをして巻物を片付ける。  「もういい。下がれ」  また二人を見ずに手でひらひらと退出を促される。帰りたがっていた宁麗文は安堵の溜息を吐き、宁雲嵐は顔を背けられたことに睨むように目元を歪めてその場で踵を返す。足音に宁麗文も慌てて父に拱手をして書室から去った。  兄弟並んで歩く廊下で、宁麗文は懐から扇子を取り出して顎に先端をつけて小さく唸る。  (これは世長会で議題に出すだろうな。出すんだったらせめて、私の名前を出さないでほしいんだけど。でも、肖寧も関わってるしな。実際倒したのは肖寧だし、私は何もしてない。山から出てきたやつだって、色々あるけど……)  「麗文、お前は沐浴に行け。いつまでもそんな格好じゃ気持ち悪いだろ」  宁雲嵐はいつもの声音で弟の二の腕を肘で突く。宁麗文はその態度に面食らって立ち止まる。続けて宁雲嵐も立ち止まって振り返れば、またいつもの変わらない表情でいた。  「どうした?」  「あ、いや……さっきの、嫌な気持ちにならなかったの?」  「さっき?」  宁雲嵐はそれに首を傾げる。宁麗文はまたもや目を白黒させて扇子で書室を指した。  「父上のことだよ! また酷いこと言われてたじゃないか。今まで何回も見てきたけど、そろそろ怒っていいよ! 私たちだけ気まずいんだ!![#「!!」は縦中横]」  「そんなこと。いちいち気にしてたらそのうち病むだろ。どうせあい……父上は何も思わずに言ってるだけだ。気まずくなってる方が病む」  「いやだからって……」  「いいから沐浴しろって。風邪ひいてもいいのか?」  「……分かったよ……」  渋々と扇子を下ろして懐に仕舞って再び足を動かす。途中の道で宁雲嵐と別れ、無名に着いてから先に寝間着に着替えて廊下に出て通りすがった家僕に沐浴の準備を頼んだ。そして半時辰よりも前の時間帯で沐浴を済ませてしっとりと濡れた髪を櫛で梳かしながら乾くのを待つ。手を動かしていながらもぼんやりと彼の顔が浮かんでいた。  (肖寧、今頃宿に着いてるかな……)  思えば自分を連れて帰る直前の宁雲嵐の態度がどうにも不自然だった。宁雲嵐という人間は所謂『竹を割ったような』性格をしていて、誰にでも平等に接している。それは宁麗文、青鈴を始め、師弟や家僕に対してもそうだった。自分の両親に関しては上を見ているつもりなので、どうにもそこまでならない。  しかしあの時は普段とは全く違った。遅くなっても帰ってこない宁麗文を心配して焦って迎えに来た理由が大半であろうが、それでも肖子涵に対してぶっきらぼうな態度を取るのはなんとも失礼ではないだろうか。  髪を乾かし終えた宁麗文は寝転がって腕を組んで瞼を閉じる。頭の中でいくら考えても当然本人ではないので何も分からない。溜息を吐いて起きて、湯で温まった身体にぼんやりと包まれながら就寝の支度を始めた。    翌日。宁麗文は驚くべき事実に衝撃を受ける。  「肖子涵さんは洛陽に帰ったわよ」  朝餉の支度をする青鈴からその話を聞いて立ちくらみを起こす。  まさか、最後の別れがあの埜湖森の入口付近だとは。しかも宁雲嵐に連れ帰らされて、きちんとした挨拶もできなかった。宁麗文はよろよろと厨を出て近くの廊下にある、屋根を支える柱に額を一度打ちつける。  (クソ、兄上め……どうせあんな別れになるならちゃんと挨拶すればよかった……!)  頭の中で宁雲嵐に対する悪態を辺り一面に撒き散らしながら何度も額を柱にぶつけていく。六、七回ほどぶつけてから眉を顰めながら赤くなった額を右腕で擦る。  (ていうか、誰から聞いたんだ? 兄上しかいなさそうだけど。……だ、だとしても! 私に連絡すればいいだけの話だろ!?[#「!?」は縦中横] なんでしてくれなかったんだよお!![#「!!」は縦中横])  しかし、今頃悔やんでも仕方がない。|千載一遇《せんさいいちぐう》、その言葉があるのだから無理に制限するようなことをしてはいけない。無闇にこちらから連絡をして「また会いたい」などと告げてしまえば「しつこい」と返されてしまうこともあるだろう。遅くなって帰宅をしてしまった宁麗文を案じて、彼の代わりに宁雲嵐へ連絡をした可能性もあるのだから、仕方のなかったのだろうと無理やり自分で納得した。  宁麗文は眉根を揉みながら宁雲嵐の部屋──『|滅法《めっぽう》』へ訪れる。声を掛けても戸に音を立てても一向に反応がないので少しだけ開けて様子を窺う。しかし彼はそこにはおらず、だとしたら鍛錬だと思い直して邸宅の西側にある開けた草原へ向かう。案の定、宁雲嵐はそこにいて上半身を裸にした状態で汗をかきながら素振りをしていた。素振りを終えて顎に滴った汗を拭っていた宁雲嵐がふと、弟が来ていることに気付いて守霊術を破る。  「どうした? そんな不機嫌そうな面して」  「兄上に文句のひとつでも言ってやろうと思って」  宁麗文は腕を組んで片頬を膨らませる。すぐ傍に大木があったので片足をもう片足に掛けて寄りかかった。  「昨日の夜、なんで肖寧に挨拶のひとつもさせてくれないまま私を連れて帰ったんだ。それに青鈴から聞いたけど、もう洛陽に帰ったって。なんですぐに伝えてくれなかったんだよ」  「仕方なかったんだよ。あの時は切羽詰まってたし、青鈴も母上もお前がどこに行ったのか不安になって青天郷に行ってまで探してたんだ。俺も一緒になって探してたし、お前から連絡されるまで埜湖森にいるって知らなかったんだよ。んで、連絡もらって埜湖森に行って。肖子涵殿と一緒に血まみれになってたってな」  「それは、そう……んん、確かに行き先を伝えなかった私が悪い。あんな夜更けまで外にいたのも悪い。それは謝るよ。ごめん。でもそれとは違うんだよ。肖寧のことだ。なんであんなにぶっきらぼうな態度取ったんだ? あまりにも失礼すぎないか?」  宁雲嵐は刃を鞘に納めながら息を吐く。鞘と|剣格《けんかく》【日本刀で言う鍔】が噛み合う音が鳴ってから口を開いた。  「早朝に肖子涵殿から伝達術で呼ばれたんだ。青天郷の門の下で会って、すぐに謝った」  「え、呼ばれた? 私じゃなくて? 兄上が?」  大木から身を離して腕をぶらんと下げてしまい、動揺で声が裏返って震える弟に宁雲嵐が頷く。  「それですぐに帰るってのも知って。理由も聞いたんだ」  「理由」  「家出してたんだって」  「家出」  予想外の言葉に頭がついていけなかった宁麗文の口がぽかんと開く。何度も瞬きをしても更に頭の中が混乱する。  家出したからなんだと言うのだ。人間、嫌なことがあれば誰だって消えたがるだろうし、現に宁麗文も行き先を伝えずに勝手に出ていった。だから肖子涵の行動にはなんとなく理解はしているが、どういう意味での家出なのかは分からなかった。  「でももう洛陽には戻ってるよな?」  「当たり前だ。彼も分かってるよ。ただ、あんまり聞きたがらなさそうだった」  「なんで?」  宁雲嵐は宁麗文の言葉に一度首を傾げ、そして頭を振った。  「それは分からん。帰ってきて父上に洛陽肖氏の情報とか聞き出そうとしたけどさっぱりだった。なんなら二度と彼と会うなってさ」  兄の言葉に宁麗文は口をへの字に、眉を顰めて目を吊り上げる。それは自分に連絡をしてくれなかった肖子涵に、そして理由もないのに急に「二度と会うな」と言い放った父に対してだった。  (なんで関わっちゃいけないとか言われなきゃいけないんだよ! 私にとっての初めての友人だぞ!?[#「!?」は縦中横] いつもいつも思ってたけど私のこと縛りすぎじゃないか! なんでそこまでされなきゃいけないんだよ!![#「!!」は縦中横] 大体、肖寧も肖寧だ、やっぱりって思ったけど、それでもなんで私じゃなくて兄上に連絡したんだ! おかしいだろ!![#「!!」は縦中横])  「麗文? どうした?」  唸りながら下唇を噛む弟に宁雲嵐は彼の前で手を振る。宁麗文の眦は下がることもなく頬を膨らませる。  「父上になんて言われても私は絶っっっ対関わってやるもん! 兄上、絶っっっ対止めるなよ!![#「!!」は縦中横]」  急な言葉にぽかんと口を開けて瞬く宁雲嵐は次第に口元をぴくつかせながら眉を顰める。  「お前、話聞いてた?」  「聞いたから言ったんだよ。そもそも肖寧は私の一番最初の友人なんだ。それなのに関わるなって言われるのが嫌だ」  腕を組んでまた口をへの字にする弟に宁雲嵐は息を吐いて片手で額を押さえながら頭を振る。手を離してからは豪静の柄の先に掌を乗せて呆れながら弟を見た。  「大体肖寧だって、なんで私じゃなくて兄上に連絡してきたんだ。普通だったら私に連絡するだろ? なのに兄上に伝達術を使ってた。私とは友人じゃないのかよ」  「あのなあ……落ち着けって……」  「なんだよ。私は私の思ったことを言ってるだけだ。兄上、もし私が肖寧と一緒にいても、絶対父上に言うなよ。絶っっっ対に言うなよ!」  「分かったから……言わない。言わないから落ち着けよ」  宁麗文は頬を膨らませてもまだ、宁浩然に対する不満でいっぱいだった。    あれから数日経ったが、肖子涵は今だに江陵へ顔を出していない。宁麗文はそのことをずっと憂うように溜息をついて、相変わらず|瞑想《めいそう》にふけっていた。  かなり込み入った事情ならば仕方がない。あちらから話をされるまではこちらからは聞くことはできない。それも仕方がない。だが、初めてできた友人だからこそ心配になってしまうのだ。  瞑想を終えて無名から出る。その日は先日の雨のせいで鬱陶しい湿気が身を包んでいて、それに寒さも相まって尚更だった。扇子を取り出して扇いでも湿気は消えず、寒さばかりが泳いでいく。何もかも考えすぎると頭が気持ち悪くなって仕方がなくなり、小腹が空いたのもあって青鈴がいるであろう厨へ向かった。  立ち寄った厨では当然のように青鈴がいた。彼女はこちらに背を向けて真剣そうに独り言を呟きながら紙に筆で書いていた。  (邪魔になりそうだな)  無闇に声を掛けるべきではないと考えた宁麗文は厨から離れて踵を返す。すると数歩の足音で気付いたのか、青鈴が厨から顔を出して彼を呼び止めた。  「何か用事があるなら呼んでくれないと。食べたいものとかあったの?」  「いや、ずっと考え込んでたから。声を掛けるのもどうかなって思ってた」  「そんなのいいのに。ほら入って入って」  青鈴に手招きをされて宁麗文も釣られて厨に入る。台の上には筆と紙が置かれていて、紙には彼女の書いた『|小吃《シャオチー》【中国語でおやつの意】』とその下につらつらと続いている文字が見えた。その紙に夢中になっている宁麗文に青鈴が彼の背中を叩く。  「こら、勝手に見ないで」  「そんなこと言われても。ここに置いてあったら誰でも見ちゃうだろ。ていうかこれは何? おやつ?」  「今度作ろうかなって思ってるの。ほら最近は寒くなりがちじゃない。ゴマ団子でもいいけど、|湯圓《たんえん》とか|馬拉糕《マーラーカオ》とか。それ以外にも美味しいものも作りたくて。だから今考えてたの」  「別に作らなくても。青鈴の作るものならなんでも美味しいんだけどな」  「……はあ!?[#「!?」は縦中横] そんなこと言うのあんただけよ!」  途端に顔を真っ赤に染め上げて舌を出す彼女に心の中でさめざめと膝を抱えて泣く。  (思ったこと言っただけなのに……なんでそんなに怒られなくちゃいけないんだ……)  この宁麗文という男は無意識にこういった発言をすることがある。それは単純な褒め言葉であったり、人を煽るような言葉でもある。彼は気付いてはいないが、かれこれ十数年も過ごしていた中でどれほどの失態を犯したことがあっただろうか。  九の頃に兄弟子と実戦をしてボロボロになった宁雲嵐に対して「なんでそんなにボロボロなんだ? 兄上って強いんだろ?」と、見ていたのにも関わらず煽る言葉を口から放ったことがあった。それに疲れも相まって相当頭にきた宁雲嵐は目を吊り上げて弟を追いかけ回していた。捕まってしまった宁麗文は首根っこを掴まえられ正座をさせられ、数刻ほど説教をされたせいでしばらく痺れた足に泣いていた。  また十四の頃には|静《ジン》と|佩芳《ベイファン》という師兄と西の草原で|鞦韆《しゅうせん》【ブランコ】をして遊んでいた時、病から治りたてだった宁麗文を喜ばせようと二人が彼の背中を優しく押して天高く飛ばしていた。これに過去になかった楽しさと嬉しさに目を輝かせながら「静兄、|佩《ベイ》兄、もっと押して!」とねだったこともあったのだ。  宁麗文はこうして家族、門弟、家僕を煽ったり褒めたりと、家以外の人間を知らないならではの会話を|無《﹅》|意《﹅》|識《﹅》に続けているのだ。  「と、とにかく。何が食べたい?」  「じゃあ……ゴマ団子が食べたいな」  「任せて」  青鈴は彼を隣に立たせて材料と道具を並べる。大きな椀に粉類、水を入れて手早く生地を作って均等に分別する。前日に作ってあって置いていた、練りゴマと餡を混ぜたゴマ餡を一口ほど掬ってこれまた手早く包んで並べた。そして鍋になみなみと油を注いでかまどに宁麗文に点火術で火をつけさせて、泡が縁に沸くまで団子に炒りゴマをつけて、準備を終えてから一個ずつ油の海に落とす。団子から多くの泡が弾けながら揚がっていくのを見て用意した網でそれを掬って油を切り、空の容器に何個も入れていく。宁麗文はその様子を目を輝かせながら見つめていた。  昔から彼女の作る食べものは不思議なことに全てが美味しく感じていた。一時期は彼女の手伝いも兼ねて厨に居続けたこともあって、それが朝昼晩と長くいたこともあった。それほど宁麗文の舌はよく作ってくれる彼女の料理に慣れきってしまっているのだ。それほど青鈴の手は神のように手際がよく、そして繊細な味を生み出している。これはどの料理人ともいい対決になるだろう。  「はい、完成。ちょっと待たせちゃったけど。冷めちゃうから早く食べてね」  「うん、ありがとう」  「お礼はいいわ」  宁麗文は厨に置いてある卓に腰を掛け、できたてのゴマ団子を一口かじる。熱々でゴマの弾ける音を楽しみながら、中の餅と餡が彼の口の中を温めていく。宁麗文は頬を緩めながらその美味しさに蕩けていた。  「こら。行儀悪いわよ」  「椅子がないんだから仕方ないだろ」  微苦笑を浮かべる彼女も肩をおどけるように上げてから下げて宁麗文の隣に座る。そして容器から一個のゴマ団子を摘んで小さくかじった。  「麗文って、本当に甘いもの好きよね」  「悪いか? 別に、子供でも大人でも、男でも女でも甘いものが好きな人はいるよ」  「分かってるわよ。けど、不思議よね。いろんな人がいて、全員が全員同じものが好きじゃないって。あたしとあんたは甘いものが好きだけど、兄さんは辛いものが好きじゃない。他にも、|阿琥《アーコ》とか|阿裴《アーペイ》も皆、味の好みがバラバラ。皆同じ人間なのに、なんでこんなに違うんだろうね」  「確かに。そう言われてみればそうかも。人によるって言葉があるぐらいだから、ほんの些細な違いもあるんだろうな」  そこで彼の口が一度止まる。少しの沈黙が訪れてからまた開いた。  「肖寧は何が好きなんだろう」  ゴマ団子を見つめるように俯く宁麗文に青鈴も眉を下げる。彼がここまで落ち込んでいるのはたまに見るが、今回はいつもよりか深く塞ぎ込んでいた。それもそのはず、宁麗文にとって初めてできた友人が肖子涵であり、ここ数日は彼と行動を共にしていた。そして別れが夜の森の入口付近であって、ろくに挨拶もできずに帰ってしまったのだ。宁麗文は兄が来る前に挨拶を交わしておけばよかったと後悔をしていて、それを毎日のように悔やんでいる。しかも加えてここ最近は雨続きが多く、寒さも相まって彼をより一層憂鬱にさせてしまっていた。  「……いつかまた肖子涵さんと会えるわよ。今は洛陽に戻ってるけど、何日かしたらうちに遊びに来るかも。それか、麗文が洛陽に遊びに行っちゃうとか。ってこの時期は流石に無理か」  笑い飛ばしながらゴマ団子を食べきる青鈴の隣で宁麗文は冷めかけのゴマ団子を見つめる。宁麗文は彼女の言葉を反芻して、頭の中で考えを巡らせていく。  (洛陽に遊びに行く……そうだ、こっちで待たなくても私から行けばいいのか!)  「よし。洛陽に行ってくる!」  「は?」  宁麗文は残りのゴマ団子を勢いよく食べきって卓に置いて厨を走り去る。取り残された青鈴は卓から降りることもせず呆然としていた。    宁麗文は早く食べすぎて火傷をしてしまった口に顔を顰めながら無名へ向かうが、その途中で洛陽への行き方を教わっていなかったと思い出した。家族の中でよく江陵の外に出ているのは父の宁浩然か兄の宁雲嵐だが、いきなり洛陽へ行くと申し出たら二人は驚くだろうし、特に宁浩然はそれを許さないだろう。ましてや肖子涵と関わるなと言われているのだから尚更だ。  (無理を言っているのは承知の上だけど。兄上に聞いてから行こう)  無名を通り過ぎて滅法へ向かって戸を叩く。今度は中にいるようで「誰だ?」と宁雲嵐の声が飛び込んだ。  「兄上。私だよ」  「麗文? 何かあったのか?」  戸を開けて中に入って後ろ手で閉める。宁雲嵐は怪訝な顔をしながらも宁麗文が目の前に座るのを待つ。宁雲嵐は先程終わらせていた怨詛浄化の報告書をまとめていたようで、まだ書いている途中だった。  「ちょっと手止めてくれない? 聞きたいことがあるんだ」  宁雲嵐は嫌そうな顔をしつつも仕方なく筆を置く。  「何が聞きたい? 肖子涵殿のことか?」  「うん、洛陽に行きたい」  「……」  宁雲嵐は息を吐きながら頭を振る。  どうせ分かっていたことだ。宁麗文は今まで家族と家僕の身内とは違う、赤の他人との接触をほぼしたことがない。故に、一人でも仲が良くなりそうな人と接していればやや執着に近い行動をしがちなのだ。  これまでに宁麗文は書院から教えに来る教師や宁浩然の来客にも少なからず執着心を持っていた。最初は人見知りに近くあまり会話をすることがなかったが、段々と打ち解けてきては笑顔を絶やすことはないし、むしろ相手の話をもっと聞きたがっていた。そして彼らが帰る頃にはわあわあと服を引っ張りながら呼び止めていた。それが常に起こりうるので家族を始め誰もが頭を悩ませていたのだ。  だからこそ肖子涵への対応を見た宁雲嵐は苦い顔をしていた。最初は初めての友人ができたことに喜んだものの、後々になって少し後悔していた。これ以上執着心を見せれば元々希薄な洛陽肖氏との関係が、それこそ世長会にも影響も及んでしまったらどうなるか分からない。宁麗文本人はいいかもしれないが、肖子涵はどうだろうか。知り合って二日ほどだがまだそこまで親しいわけではない。それに勘違いしたままの彼が更に肖子涵へぐいぐいと執着してしまえば、いつか江陵宁氏の|醜聞《しゅうぶん》として世間から辱めを受けてしまうだろう。  宁雲嵐は瞼を閉じて顰めた眉間を直すように二本の指で揉む。  「行くとしても父上や母上、それに青鈴にどう説明するんだ? 青鈴ならまだしも、父上と母上は許さないだろ。しかも父上からは関わるなって言われてる。それにこの前の埜湖森のこともだ。凶鶏がまた現れたってお前が父上に言ったろ。しかもそこに彼もいた。父上は彼がお前を庇って倒したと思ってるし、お前の服を汚したのは……いや、理由は知らんが、とにかく行くのはやめろ。その方が肖子涵殿も困らない」  「なんで肖寧が困るんだ? 別に行ったっていいだろ。肖寧もうちに遊びに来てたじゃないか。これまでに何度も来てたのに、今更そんなこと言われても私が困るよ」  宁雲嵐はまた長い溜息をつきながら片手で自身の顔を覆う。いくらダメだと言いつけても宁麗文は頑なに譲らない。たった二日ほどで彼はここまで執着するとは思えなかった。今まで散々なわがままを近くで見てきていたが、|今日《こんにち》に至ってはそれが更に加速している。ここまで来てしまえば止める術を探すのにも苦労する。宁雲嵐の頭の中はこの弟をどう止めようか必死になっていた。  「行くとしても御剣は? できるのか? やったことないのに行けるわけないだろ。もしかして馬車にでも乗せてもらうつもりか? こんな雨続きで?」  「御剣ならできる。教わったんだ」  「教わったって」  「肖寧からだよ」  (おい冗談だろ! いつ教わったんだ!?[#「!?」は縦中横])  宁雲嵐は心の中で自身の頭を掻きむしりながら叫び散らかす。当然、宁麗文はそのことを知らない。  「だから道を教えてくれよ。なんなら洛陽の建物の特徴とかどこに近いかも教えてよ」  宁雲嵐は聞かないように両耳を塞ぐ。宁麗文は耳を塞ぐ兄の腕を引っ張った。  「お願いだよ兄上。一生のお願い!」  「お前これまで何回一生のお願いって言ったのか覚えてるのかよ!?[#「!?」は縦中横] 無理なもんは無理だ! 鍛錬しろ鍛錬を!![#「!!」は縦中横]」  「誰が鍛錬なんかするかぁ! こんな雨続きでまともにできるわけないだろ! それなら瞑想の方がマシだよ!![#「!!」は縦中横] ……瞑想?」  宁麗文は自分で口にした言葉を|反芻《はんすう》する。腕を掴んだ手の力を抜いて兄から離れた。宁雲嵐は弟の考え始めた顔に瞬きをする。  「麗文?」  「ごめん、やっぱやめる」  「は?」  宁雲嵐は急に飛び出した弟を、口を開けて唖然としたまま見送った。    無名に戻って卓の上に雑に置いた数枚の札から一枚を抜き出す。筆と墨と硯を準備して墨汁を作り、その白紙状態の札に術を描き印して二本の指を添えて霊力を注ぎ込んだ。  「肖寧、私だよ。洛陽に遊びに行きたいんだけど、場所が分からないんだ。そこでお願いがあるんだけど、迎えに来てくれないか? 返事を待ってる」  脳内で連絡を通してから瞼を開けると札はすぐに塵と化して消えた。宁麗文は彼から連絡を来るのを待ちながら座れる場所に移動してあぐらをかいて瞼を閉じる。  (どうせ父上も母上も兄上も反対するんだったら、逆に肖寧に迎えに来てくれればいいんだ。そうしたら嫌でも洛陽に行けるし、誰も文句なんて言わない。うん、我ながらいい案だな)  宁麗文は心の中で目を弧に描き、腕を組んで自画自賛の頷きをする。  そして二時辰【約二時間】ほどに脳に肖子涵の声が届く。返事が来たのだ。  ──すまないが今は閉関中だ。しばらくは会えない。  「えっ」  宁麗文はこの返事に強い雷に撃たれたかのような衝撃を味わった。一瞬にして瞼を開けてしまって瞑想に集中していた意識がはっきりと醒めてしまう。次第に冷たい雨に酷く濡れて寒くなった犬のように泣きかけ、膝を立てて膝に自分の顔を埋める。そこからじめじめとした、誰から見ても分かるさめざめとした空気を生み出した。  「そんな……」  宁麗文には肖子涵以外の友人が全くいない。であれば、これから誰と話をすればいいのだろう? それに、友人の作り方もまだよく分かっていない。この状態でまた一から作り直すとなれば彼の脳内は限界を超えてしまうだろう。  宁麗文はよろよろと立ち上がる。しかし一歩踏み出したところで片足をもう片足に引っ掛けてしまってその場で崩れるように情けなく倒れてしまう。そのままの状態で手をつけて立ち上がることもなくしくしくと泣いていると、戸に手の甲で叩く音と青鈴の声が飛び込んだ。  「どうしたの?」  「……青鈴……」  中から聞こえる呻き声にも似た義兄に戸に聞き耳をそばだてる。首を傾げてまた声を掛ける。  「私は……どうすれば……」  また返事が返ってきた宁麗文に何やら只事ではないと察した青鈴が戸を開けて彼の姿を探す。卓のある場所──ではなく、瞑想をするためだけの空間に彼が倒れていた。青鈴は慌てて中に入って戸を閉めてから宁麗文の傍へと駆け寄って起き上がらせる。  「何かあったの? そんなに落ち込んじゃって」  「肖寧が閉関してたんだ……」  「は?」  青鈴は卓に目を向けて、微かに山になっている塵を見て宁麗文が肖子涵に伝達術を使ったと気付く。  「なんて返ってきたのよ」  「……『すまないが今は閉関中だ。しばらくは会えない』って……」  青鈴はその言葉に彼と同じように眉を下げて息を吐く。  「あの人に何かあったんでしょ。だから閉関した。単純なことじゃないの?」  「そうだけど。……でもなぁ……」  まだ雨続きの鬱陶しい空気を身にまとわせる宁麗文に、青鈴は次第に頭に苛立ちを詰めていく。  誰もが悲しむことは当然あるわけだが、それをいつまでも引きずってしまっては自分にとっても他人にとっても鬱陶しさが募っていくばかりだ。青鈴は今までそういった悲しみを持っていたことはあれど、料理や読書などと自分の気分転換によって負の感情を払拭していた。対して宁麗文は全くそうすることもせずにうだうだと、最長でも三週間ほどこの空気をまとわせているもので、これに青鈴を含めた宁氏の人間やその他の門弟や家僕は「またやってるわ」と呆れていたのだ。  青鈴は瞼を閉じて頬をぴくぴくと動かし、まだ続く彼のじめったらしい顔にとうとう堪忍の尾が切れた。  「そんなうじうじしてないでとっとと動きなさい!」  「うう……」  彼女に腕を引っ張られながらも表情は変わることなく、余計に沈んでいく。  「そんな顔してたらあたしが悪者みたいじゃない!」  「じゃあ引っ張らないでくれよ……」  「引っ張らないとあんたが起きないのよ。ここにいるだけでも吸う空気が悪くなるだけなんだから、少しの間だけでも町を散策してきなさい。気分転換ぐらいできるでしょ」  青鈴はまだ起き上がらない宁麗文の顔を覗き込む。彼の頬に指を伸ばして軽く抓った。  「なんならあたしも着いてくから。町に行きましょ」  「……うん」  痛みのない頬をそのままにして彼女を見上げる宁麗文は自力で起き上がる。そして青鈴が彼の手を取って共に無名から出て行った。  途中で会った深緑に青天郷へ行くことを伝えて門を開けて一盞茶も掛からずに青天郷に到着して食べ歩きをしていく。饅頭を食べている時に視界に映った飴のある屋台に数日前のことを思い出した。  「ねえ青鈴、山査子飴を売ってたお姉さんのこと知らない? また買いに行くって言ったんだ」  「お姉さん? どんな人?」  「えーと、目元に皺があって、少しふくよかな人かな。話しやすくて優しかったんだ」  「そうなんだ。じゃあ探しに行きましょ」  二人は饅頭を食べきって次にあの女店主のいる屋台へと目指す。山査子飴が売られている店は指を折る中にいるが、至るところに様々な店が出回っているせいで見つかりにくい。あの時の女店主はどこにいて売っていたのか、周りに何かあったのか、その特徴さえも思い出せない宁麗文の頭の中はぐるぐると回っていた。  (ほとんど肖寧に任せてたんだった。どこにいたか覚えてなかった……!)  片手で頭を押さえて唸っていると青鈴に心配されてしまったが、記憶の中を探っている最中なので特に目もくれることはなかった。  青鈴は周りを見回してみる。宁麗文はこれで三回目の散策だからか周りの住民たちは二人をちらちらと見たり、少女は宁麗文を見て頬を赤らめていたり、子供たちは目を輝かせていた。青鈴がまた見回してみれば、そこには二人の少女が彼女に手を振っていた。  「阿琥! 阿裴!」  宁麗文の手を引っ張りながら阿琥と阿裴と呼ばれる少女の元へ駆ける。急に引っ張られた宁麗文は情けない声を上げて思わず青鈴に顔を向けた。  「え、な、なんだ?」  「友だちがいたの。せっかくだし、紹介するわ」  残り数歩のところで二人は徒歩に変える。少女二人はほぼ同じ身長で、それは青鈴とも似たような背丈だった。  彼女たちは宁麗文を見て急に顔を赤らめる。手を離した青鈴に「阿鈴ったら」などとじゃれあうように軽く彼女を叩いた。  「なんで宁二の若様なんて連れてきちゃったのよ。別にわたしたちのところまで来なくてもいいじゃない」  「だって。今まで麗文にあんたたちの話ばっかりしてたから。どうせなら会わせようって思ってたの。そうしたらちょうどいいところにいちゃって」  「もう……」  黒い髪を一本、上に束ねたその下の黒い双眸はつぶらになっている。肌はやや焼けていて健康的に見える少女に、もう一人は茶髪を二つに分けていて、青鈴よりも下に結んでいる。ややつり目の中の焦げ茶の双眸には優しさが見えていて、隣の少女よりも白い頬から鼻にかけての肌にはそばかすが散らばっていた。前者は阿琥と呼び、彼女の隣は阿裴と呼ぶ。  「今からどこに行くの?」  阿裴が青鈴と宁麗文に聞く。  「別に。ぶらぶらと歩いてるだけよ。そういう二人は?」  「私と阿琥? これから|蝶《ディン》さんのお店に行くの」  「へえ」  三人の少女の会話に着いていけていない宁麗文は、また青鈴に手を握られながら戸惑っていた。  (あ、あれ。どうしよう。私、ここにいていいのか?)  かなり戸惑いを隠せていない彼に阿琥が苦笑う。  「宁二の若様。初めまして。あたしは阿琥です。この子は阿裴です」  「あ、は、初めまして……」  ぎこちなく挨拶を返す宁麗文に今度は青鈴が苦笑いを浮かべる。肘で彼の腕を小突いてこちらに顔を向かせた。  「人見知りしちゃって」  「人見知りってなんだよ。外に出て会話をするなんて、肖寧以外したことないんだから。仕方ないだろ」  「これからどんどんすればいいのよ。あ、もう行かなきゃよね。ごめんね、また今度お出かけしましょ」  「いいのよ。じゃあね。宁二の若様も」  「は、はい。じ、じゃあ、ね……?」  二人の振る手に宁麗文も返せば、彼女たちも頬を少し赤らめながらまた振り返して雑踏の中へと消えていった。宁麗文と青鈴も彼女たちを見送ってから別の道へと足を踏む。  「そうだ。ゴマ団子と饅頭だけじゃ物足りなかったでしょ。どっかで何か食べましょ」  「うん」  宁麗文からの返事に歯を見せて笑ってからまた手を繋ぐ。青鈴の進む先に連れられていくうちに人々の視線が自分たちに降り注いでいるのに気付く。羞恥と困惑の中、会釈をしたりなどと交わして彼女の向かう先へと歩いた。着いた場所は一軒の茶楼で中に入れば人が疎らになっている。店員に案内をされた二人は席に座ってそれぞれの注文を頼んだ。  「そういえば、麗文とここに行くのって初めてね」  「確かに。前は肖寧とだったから……なんだか新鮮な気分だ」  「ふふ、あたしも。ねえ、聞きたかったんだけど、肖子涵さんって何か頼んだりしてるの?」  その問いに宁麗文は言葉を詰まらせる。  華伝投の前日祭での肖子涵は、宁麗文にそれはそれは自分の金事情など知らないと言わんばかりにあれこれと買い与えていた。初めて家の外に出た彼の甘いもの、馬拉糕やら山査子飴やら、それ以外にもやはり|餅《ぺい》やら饅頭やらちまきやらと食わせていた。|甘《﹅》|い《﹅》|も《﹅》|の《﹅》|が《﹅》|好《﹅》|き《﹅》|と《﹅》|答《﹅》|え《﹅》|て《﹅》|い《﹅》|な《﹅》|い《﹅》宁麗文はそれに困惑しながらも、しかし生まれて初めての外の食事なもので目に入る全てに涎が止まらなくなって全て平らげていたのだ。  あり日のことを思い出して「今思うと買いすぎじゃないか?」などと呆れていながらも、次に彼が一切自分自身に金を使っていないことに気付く。  (そういえば。全部私にお金使ってたな。色々買ってもらってて何も思わなかったけど。……にしても、お金、大丈夫だったのかな……)  俯いて小さく唸ってから顔を上げれば、彼女はずっと自分を見つめて首を傾げていた。宁麗文は眉を下げながら姿勢を正す。  「実は。……肖寧は私の好きなものばっかり買ってくれるんだ。欲しいって言ってないのに、なんでかは分からないけど、私が食べたいって思ってたものばっかり……」  青鈴はそれに口をぽかんと開けて瞬く。宁麗文は「やっぱり」と肖子涵に金を使わせたことに己を恥じる。  友人でも一方的に金を払わせるという行為は、たとえ本人が嫌だと言っていなくても心中はそう思っているだろう。親しき仲にも礼儀あり、それが交流して二日となれば尚更だ。  瞼を閉じて己を恥じる宁麗文に、彼女の口が一度閉じてまた開く。  「すごいね。麗文ってさ、今まで町に行けなかったじゃない。だから買い物の仕方も分からないし、何があるかすらも分からないわけでしょ。そうなったら肖子涵さんが代わりに買ってもらうのは当たり前よね」  「え?」  青鈴の言葉に今度は宁麗文が口をぽかんと開ける。少しの間を置いて我に返って両腕を卓の上に乗せて身を乗り出した。  「でも肖寧は自分の欲しいものなんて買ってないけど」  「バカ。自分の欲しいものなんて一人の時でも買えるわよ。麗文はあの人と一緒にいる時に買い物の仕方を覚えたの?」  彼の鼻を人差し指でぐいぐいと押す青鈴に乗り出した身を戻す。  「まあ。見てるだけで特にやらせてもらうことはなかったけど。でも、ある程度は覚えたよ」  「なら安心ね」  その頃には頼んだ甘味が卓に並べられた。二人はそれぞれの甘味に手を出しては食べ、その度に頬を緩めていた。  「美味しいな。やっぱりいつ食べても最高だ」  「あたしもそう思う。家で食べるのと違うわね。……あっ、別に家のは不味いって言ってるわけじゃないのよ。どっちも好きだから」  「分かってるよ」  その後一口、二口と食べ進めていくうちに視線に気付く。顔を上げて少しだけ目をあちらこちらへと見渡せば、宁麗文と青鈴以外の茶楼にいる客たちが彼ら二人を、特に宁麗文を興味津々に見ていた。それはあからさまにじっと見ているものではなく、まるで有名人を一目見るようにチラチラと見ては気付かれたら慌てて目線を戻す、といった具合だった。宁麗文はこれに恥ずかしさを感じて一口ずつ食べる口を小さくしていく。青鈴がふと顔を上げて頬を赤らめている彼を見れば小さく笑った。  「今更何に恥じらってるの? あたしは何度も向けられ慣れてるのよ。あんたも堂々としなさいよ」  「だって……落ち着かないんだ。華伝投の時も思ってたけど、君は恥ずかしくなかったのか?」  「恥ずかしいって何? あたしは物乞いの頃の方が恥ずかしかったから、こんなの大したことないわよ」  また湯圓を一口食べる青鈴は一つ動きを止める。宁麗文がそれに首を傾げていれば、彼女はにっこりと頬を上げた。  「そうだ。麗文、あたしたちが初めて会った時のこと、覚えてる?」  宁麗文は|豆花《トウファ》を一口食べて頷く。  「もちろん覚えてるよ。あの頃の君はすごく怯えてたよね。二人してびっくりしてた」  「そう、すごく怖かった。だってあの時のあんた、幽霊みたいに白かったもの。……まあ、そんなことはいっか」  わざとらしく肩を上げて落とし、それでも微笑んだまま両肘を卓につける。  「言ってなかったけど、両親は山賊に殺されてあたしは見逃されたのよ。……あとから知ったけど、あたしのお父さんは昔、偉い人だったんだって。江陵宁氏の家僕じゃなくて、琳玩龔氏のお仕えだったって聞いたわ。しかも汚職事件に関わってた。山賊の中には琳玩の人たちがいて、お父さんたちをすごく憎んでた。まあ、今はもういないから関係ないけど」  宁麗文は初めて知った彼女の過去に目を見開く。今までこういった、それも地元から離れる直前の話を自然と避けていた。ある程度の話を聞かされてはいたが、なるべく彼女の心の傷に触れないような過去を聞かなかった。それを今、青鈴本人から聞かされるとは思わなかったのだ。  「そ、そうだったんだ……」  「うん。それで、あたしは一人で色々な道を歩いて。もちろん、野犬に追われたり見つけたねぐらも土砂崩れでぺしゃんこになってたりもしてたけどね。ここはあんたも知ってるでしょ」  それに宁麗文は頷く。  「江陵で君を見かけて保護したんだよね」  宁麗文の母、深緑は根っからの『いい人』であり、彼女よ夫である宁浩然に負けず劣らずの優しい夫人だ。家族を大事にしていて、特に過保護になるほど溺愛しているのは次男の宁麗文そのものだ。  宁麗文は母に対して、過保護だという面に関して、最近は反抗心もあってかやや鬱陶しく感じている。しかし愛され続けているお陰で今も生きていけているのは事実なので、深緑の厚意は無下にできない。  「そうそう。麗文には言ったっけ? 夫人があたしを拾ってくれた時に言ったこと」  「え、聞いてないかも。それか覚えてないのかな」  青鈴は片眉も小さく上げる。  「あたしも誰に言ったか忘れちゃった。それとも誰にも言ってないのかも。まあいいや。夫人はね、あたしが不安になってた時に『あなたは何もしていないし、悪いこともしていない。もし誰かがあなたを悪く言うのなら私に言って。代わりに怒るわ』って言ってくれたの。落ち着いた頃にあたしの過去を全部話したらずっと抱き締めてくれた」  湯圓を掬ってそれをじっと見つめる。一つの間を空けて、下がりかけていた口角を上げて懐かしむように目を弧にした。  「……初めて、お母さん以外の人の温もりを知ったわ。今でも忘れられない」  宁麗文も彼女の言葉に優しく頬を上げる。俯きかけていた彼女の黒の双眸にあり日の、二人が初めて顔を合わせた日を思い出した。  「そうだ。君が初めて家に来た時。最初は全く話なんてできなかったよな」  宁麗文の言葉に顔を上げた青鈴も噴き出して笑う。  「あったあった、本当にできてなかった! あたしも汚かったし、あんたは病み上がりだったから。そりゃお互いにびっくりしちゃうのも当たり前よ」  「はは、確かに。そのあとはまた病に罹っちゃったし、君も綺麗にされるのに時間が掛かってたから。でも、そのあとはちゃんと話もできてるし今もこうやって食べに行ってる」  青鈴は最後の湯圓を食べて、にっこりと笑いながら卓に両肘をつけてその先の掌で自身の頬を支える。宁麗文も豆花の最後の一口を食べて空になった椀に湯匙を入れた。  「はぁ。美味しかった。久しぶりに昔の話もしたし、案外覚えてるものね」  「うん。こんなに覚えてるってことは、それほどいい思い出だったってことだ」  「ふふ。あたしたちの最初は酷かったのに。今度は兄さんも入れてお話しましょ」  宁麗文も頷いて二人同時に席を立つ。予め青鈴に持たされていた財嚢で宁麗文が支払って茶楼を出た。  茶楼を出たその後は何もする予定がなかった。だから二人は家に帰ろうと話してその道中を歩いていた。そこに宁麗文の脇腹辺りにやや小さい男の子供がぶつかる。子供はぶつかった反動で尻もちをついてぽかんと口を開けていた。  「わ、ごめん。痛かっただろ?」  黒の短い髪を上に結わえ、まん丸とした瞳は宁麗文を見上げる。すぐに立ち上がって尻部分を手で叩いて首を横に振った。  「大丈夫!」  そしてそのまま彼の側を通って走り去る。宁麗文はその元気さに微笑んだが、それもすぐにやめた。片方の袖口の重さが先程よりも軽く感じて慌てて手を突っ込んだり中身を見る。  「どうしたの?」  青鈴も子供を見送ってから彼を見る。首を傾げて宁麗文の焦る様子を見れば、彼が急に真っ青な顔を上げて少年が走り去った方へ踵を返す。  「財囊!![#「!!」は縦中横]」  「えっ!?[#「!?」は縦中横]」  目を丸くする彼女をよそに宁麗文も少年が去った方面へと走る。唖然とした彼女も我に返って慌てて二人が向かった先へと着いていくように走っていった。  宁麗文は人々を避けながら彼を追う。少年は身体が小さいのもあって、いとも容易く雑踏を軽やかな足取りで避けて走り抜く。  「こら! 財囊を返しなさい!」  「ふふん、やだね、これはおれのだ! 公子様がのんびり歩いてるからいけないんだよ! 別に財嚢の一個や二個ぐらい持ってるんだから、失くしたっていいじゃないか!」  「そんなわけあるか!![#「!!」は縦中横] 君のやっていることは窃盗だぞ!」  少年はそれでも止まらずに段々と人通りが多い方へと走っていく。宁麗文は彼の脱兎のような速さに着いていけなくなってきていて、息も次第に上がっていく。それでも必死に走って道行く人にぶつかりそうになれば慌てて避けて行く。ガヤは二人の走る道に「なんだなんだ」「なんで走ってるんだ?」と疑問を持ちながら避けてその先を見ていた。  (クソ、なんて速い子供なんだ! 青鈴からもらった財嚢だから失くしたら怒られるんだよ! ていうか普通にスリなんてあるのか!?[#「!?」は縦中横] 治安悪すぎだろ!![#「!!」は縦中横])  宁麗文は息を荒らげ汗を流しながら少年やこの町への疑問や罵倒を頭の中で繰り返し、次に肖子涵を思い出した。  (肖寧だったら、どうしてたんだろう。きっと私より先にあの子を捕まえてるはずだ)  ふと思い出した彼を消すように頭を振って少年を追う。足が重くなって彼が遠くに行きかけたところで、宁麗文の脇を素早く過ぎて少年の首根っこを容易く引っ張り上げた人物がいた。  「離せぇー!![#「!!」は縦中横]」  暴れる彼の首根っこを捕まえながら追いかけていた宁麗文、その後ろを着いてきていた青鈴に振り返る。宁麗文は肩を上下に揺らしながら目を丸くした。  橙色の胡服を身にまとい、それほど長くもない茶髪を上に結って垂れ下げている。日に少し焼けているその健康な肌と、やや太いが一般的に見れば細く柔らかい弧を描いている茶色の眉の下に、青年らしい茶の眼を優しく見える瞼で覆っている。まだ幼き少年と成熟している青年の間にあるような柔らかい顔立ちをしていた。  「君は、確か……」  宁麗文は彼に見覚えがあった。  「お久しぶりです、宁公子」  彼は世長会に出席している、|桂城唐氏《けいじょうトウし》の一人息子の、|唐秀英《トウシュウエイ》だった。