第一章 始まりの君
六 出発
宁麗文、青鈴、そして唐秀英と後ろ襟を掴まれた少年は近くの茶屋へ寄って卓を囲んでいた。少年は隣にいる唐秀英を睨みながらも長椅子の上で正座をさせられていた。
「えっと……その子は君の知り合いですか?」
「はい」
橙色の軽やかに見える服装を身にまとう彼は爽やかに笑みを浮かべながら茶を少し啜る。宁麗文と青鈴は顔を合わせ、そして彼を見た。
「ほら、宁二の若様に財囊を返しなさい」
「けっ、誰が返すかよ。これはおれのだって言ってるだろ」
「|阿瑾《アージン》」
「……」
阿瑾と呼ばれた少年は渋々と持ち主に財囊を返す。
「ありがとう」
それでも阿瑾は唇を尖らせながら黙り込む。彼の態度に唐秀英は息を吐いた。
「阿瑾、言うことはあるよな?」
「言わない」
「言いなさい。はい、ごめんなさい」
唐秀英は阿瑾の頭を下に押し、自らも頭を下げる。「……ごめんなさい」と憎たらしく零すその口からは嫌々と言わされていた。
「いえ、お気になさらず。私も不注意があってのことですし」
宁麗文は両手を横に振って二人の顔を上がらせる。唐秀英は困りながら笑うしかなかった。
「彼とはどういった関係で?」
「この子とは数日前に会いました。あまりにもお腹が空きすぎて苦しんでいたので食べものをあげたんです。それからしばらく行動を共にして、江陵へ着いたら『お返ししてやる』だなんて走って……」
「いいじゃんか、公子様からお金奪って返したって!」
「ダメだろ」
「ま、まあ。もう終わったことですから。もう大丈夫ですよ」
宁麗文は唐秀英の呆れ顔と阿瑾の怒り顔に慌て、乾いた喉に一口、二口と茶を押し込んでから苦笑を浮かべる。青鈴は二人のその表情に義兄と同じく苦笑するが、世長会に参加をしていないので彼の正体が分からない。宁麗文と唐秀英を交互に見ながらどちらに声を掛けようか迷っていると、唐秀英が先に気付いてにこやかに笑う。
「申し訳ございません、自己紹介が遅れました。僕は桂城唐氏の次期宗主になる、唐秀英と申します」
座ったままではあるが丁寧に彼女に向かって拱手をする。青鈴も慌てて彼と同じく拱手を浮かべて二人で下ろした。
「あたしは江陵宁氏の養子の、青鈴です。えっと、麗文の義理の妹になります」
「養子?」
それに唐秀英と阿瑾が首を傾げる。宁麗文はずっと苦笑を浮かべたままだが青鈴は唐秀英に釣られて頬を上げていた。
「色々あったんです」
「そうなんですか」
「はい。それで……唐公子はなぜこちらへ?」
唐秀英は茶を飲んで茶器を卓に置く。
「父から暇を出されまして。最近は修練に根を詰めすぎて心配されたんです」
「兄さんみたい。あれ、そういえば兄さんは?」
青鈴は宁麗文に小声で問う。
(そういえば……)
今日中のことを思い出せば、青鈴と町へ行くまでの間に宁雲嵐を見かけていない。となれば、別の怨詛浄化へ向かったか、それとも宁浩然と話をしに行ったか、はたまた滅法で寝ているのかもしれない。どちらにせよ、青鈴と出かけるまでに姿を見ていないのだから、今は何をしているのか不明だ。
「分かんない。でも兄上のことだし、きっとなんかやってるんだろ。さっき行ったら怨詛浄化の報告書とか書いてたし」
「え? また怨詛浄化に行ってたの?」
瞬く青鈴に頷いて、茶を一口飲んでから唐秀英に向き直る。その頃には逃げようとしていた阿瑾の首根っこを掴んで座らせている彼がこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
「いえ。暇を出されたのなら、なぜここへ来たのかなって。観光でも江陵より賑やかな町はあるのでは?」
唐秀英は苦笑う。
「観光で来たわけじゃないんです。あなたに会うために来ました」
「私に?」
あまりにも単純な理由に宁麗文も青鈴も同時に瞬いて互いに顔を見合わせる。阿瑾も唐秀英の顔を覗き込みながら首を傾げていた。
「なんで|秀英《シュウエイ》兄ちゃんは公子様に会いに来たんだ? 別に違うとこでも会えるだろ?」
「子供にはまだ早いよ。ここからは大人の話だから」
「ちぇ、つまんねーの」
唇を尖らせて顔を前に戻す阿瑾をよそに唐秀英は二人に向き直り、特に宁麗文に顔を向ける。宁麗文も彼に顔を向けて口角を上げて首を傾げた。
「あなたはここから出たことはありますか?」
「ここって? 江陵ですか?」
「はい」
「一度もありません」
厳密に言えば埜湖森に行ったのだから、出た事実になる。しかし江陵から埜湖森までの道は短く、また他の道に向かったことはない。となればまだ出たことがないのだろう、と自分で考えての発言をした。
唐秀英はそれに眉を上げる。
「それでしたら、共に旅をしませんか?」
「旅?」
唐秀英と阿瑾の目の前の二人はぽかんと口を開け、瞬きをしながら固まる。唐突な発言に面食らっていて、一瞬の間を開けて青鈴が先に我に返った。
「な、なぜ麗文と? 兄さんとじゃないんですか?」
「はい。そちらの宁公子です」
「急にそんなことを言われても……それに、麗文にはすごく仲良くしてる人がいて、彼と旅をしたがっているんですよ」
宁麗文は次に彼女に目を丸くする。しかしそれを知らない青鈴は続ける。
「江陵から出たら危険なものが沢山あります。それはあなたも分かっておいででしょう。あたしもこれまでそういうものに沢山遭いました。もし麗文が外に出たら、この子はまだ実戦経験がないので、あなたのお荷物になるかもしれません」
「青鈴!?[#「!?」は縦中横]」
サッと顔を青ざめて彼女に向ける。青鈴は彼の慌てっぷりを感じていたが、それを敢えて無視して目の前の橙の義兄に向いていた。
青鈴はこれまでの経験において、外はどれほど危険なのかをよく分かっていた。野犬を始めとした様々な動物に追われたり、別の世家に近付こうとも考えたが人々の|奇異《きい》の目に晒されてしまってはと怯えて中々辿りつくことも叶わなかった。しかしあまりにも辛い道を歩きすぎて命からがら通った先で拾われた。それがここ、江陵だったのだ。
唐秀英は彼女の言葉に目を丸くする。
「行きたがってる人? 誰なんですか?」
「肖子涵さんです」
「肖子涵さん? あの洛陽肖氏の息子ですか? 長男ではなく?」
青鈴は茶を飲みきり、そこでやっと宁麗文に顔を向ける。宁麗文は先程からグサグサと刺されていた彼女の言葉の棘を心の中で取りながら、泣きかけそうな顔で頷いた。
「そうだったんですね。今は彼はどちらに?」
唐秀英からの質問に次は数刻前のじめったらしい空気をまとわせる。口の中をもごもごと動かして肩を竦めながらしょぼくれた面持ちで口を開いた。
「……あの……閉関中でして。しばらくは会えません」
「閉関中」
唐秀英はその三文字を反芻して長い息を吐く。自分で言っておきながら自分で傷口を抉ってしまった宁麗文は心の中で肖子涵に悪態をついて泣き叫んでいていた。唐秀英はその憂鬱そうな顔に慌てて手を振って眉を顰めながら無理やり笑った。
「すみません、別に悲しませるために聞いたわけじゃないんです。あの……えっと、口下手なもので申し訳ございませんでした。実は、父から……宁公子を連れてこいと言われまして……」
「連れてこい?」
自分の言葉に段々と申し訳なさそうに顔を赤らめる唐秀英に、顔色を戻した宁麗文と青鈴がまた声を合わせる。
「はい。理由を聞いても分かりませんでしたし、とりあえず連れてこいと。あの、本当に誤解を招くような言い方しちゃってすみませんでした!![#「!!」は縦中横]」
「え、ちょ……」
目をぐるぐると回し汗を流しながら茶を飲みきる唐秀英に、宁麗文は慌てすぎている彼に戸惑う。なんとか落ち着かせた唐秀英にただ苦笑を浮かべるしかなく、隣の青鈴もまた同じ表情を浮かべていた。
「別に気にしてないですよ。でも、普通は宗主同士で話をしてから本人に伝えるものでは? 父上からはそのような話は聞かされていませんが……」
「父は宁宗主に伝えるのを面倒だと仰っていて。そこで僕を使って宁公子本人に伝えてこいと。なので宁宗主も知らないのは当然です」
唐暁明はよく言えば奔放、悪く言えば面倒臭がりの人間だ。世長会でも卓に肘をつきながら欠伸をしたり眠そうにしたりと、とにかく自分を軸にして生きている人なのだ。この人間がよくもまあ宗主を務められているもんだと疑問に感じる者もいるだろうが、彼の政治能力は宗主になる前から今までも高く評されている。
──聞いた話では、桂城唐氏の|管轄《かんかつ》区域の貧しい町への視察の際に、骨と皮のみで今にも死にそうな住民に炊き出しのもち米の粥を振舞った日があった。その町にいた住民は老若男女全てで五十人ほどだったが、その全員に一粒も|吝嗇《りんしょく》することなくなみなみと椀いっぱいに注がれたもち米粥を提供したのだ!
これに唐暁明は「これぐらいしないでどう宗主が務まるんだ?」と怪訝そうな顔を浮かべていたが、その後もその貧しい町の復興を奮い、今では他の町とは劣らない賑やかな場所へと変貌した。
それほど唐暁明という男は桂城唐氏の宗主に相応しい人物なのだ。
「唐宗主は私に来てほしいほどの事情を抱えているんですか?」
「そうらしいです。ただ、今すぐというわけではありません。宁公子のご予定がなく、すぐに出発できるというなら話は別ですが……」
「今? 行けますよ」
口角を上げて茶を飲みきった宁麗文に青鈴と唐秀英が面食らう。阿瑾ただ一人は首を傾げながら三人をそれぞれ交互に見ていた。青鈴は口元をひくつかせながら隣の男の腕を取る。
「ちょっと待って麗文。今からって無理でしょ。おじ様にどう説明するの? まさか『唐宗主に来いって言われたので行きます』だなんて言うつもりじゃないでしょうね?」
「そのまさかだよ」
「嘘ぉ!?[#「!?」は縦中横]」
またもや動揺の、それも青ざめる顔のまま腕を離す。唐秀英は彼女の狼狽えっぷりに戸惑いながら、しかし宁麗文に向き直って苦笑する。宁麗文ただ一人、二人の動揺に首を傾げていて、阿瑾と顔を合わせても二人して傾げたままだった。
唐秀英は口元に拳を寄せて空咳を小さくして、その手を下ろした。
「それなら、行きましょうか」
「あ、ちょっと待ってください。人を探してたんだった」
茶屋から出て数歩したところで宁麗文が三人を止める。それに青鈴も思い出して辺りを見渡した。
「人を?」
「はい」
宁麗文は頷く。
「初めて青天郷を訪れたときに山査子飴を食べた屋台の女性の店主を探しているんです。また買いに来るって約束をしたので。ただ、どこにいるか分からなくて……」
「どんな方ですか?」
「えっと、目元にシワがあって少しふくよかな方です。柔らかく笑う人でした」
宁麗文の無意識に人を褒める言葉に青鈴は苦笑い、唐秀英と阿瑾は瞬いて固まり、宁麗文はまた首を傾げる。彼の言った特徴に覚えがあったのか、阿瑾が我に返って挙手をした。
「おれ知ってるよ! |春《チュン》おばちゃんだろ?」
宁麗文が手を挙げて高らかに声を上げる少年の前で屈む。
「春さんって言うんだ。どこにいるかは知ってる?」
「うん。こっちをまっすぐ行ったらいるよ」
彼の細くて短い指がまだ続く道へと指す。宁麗文も眉を上げて背筋を伸ばして阿瑾の頭を軽く叩いた。
「ありがとう」
まさか優しく叩かれるとは思っていなかった阿瑾は目を丸くしていて、しかしすぐに戻って破顔しながら頷く。そして自分よりもひと回りほど大きい、宁麗文の手を引っ張って走り出す。急に引っ張られた宁麗文も着いていき、続けて青鈴も唐秀英も二人に着いていくように駆けていく。
雑踏の中を転がるように歩いたり走ったりを繰り返して、一盞茶ほど近くなった頃に阿瑾の手に力が抜ける。そのまま手を離して、彼は赤と黄金に輝いた飴が多く刺さっている藁の近くの台に両腕を乗せる。後ろから来た宁麗文も彼の元に寄れば、阿瑾がにっこりと店主を見上げた。
「春おばちゃん! この人に見覚えはない?」
宁麗文も続けて顔を上げれば、あの前夜祭に彼に飴を売ってくれた女店主がいた。彼女は先に阿瑾の顔を見て視線を上げる。そこには|正《まさ》しく彼が立っていて、宁麗文は阿瑾の頭をまた撫でていた。
「宁二の若様!」
「お久しぶりです」
「ええ、本当に久しぶりね。ああ、やだ、私ってば。あなたのことをよく知らないまま子供扱いしちゃってたわ」
春は頬に手を当てて顔を少し赤らめながら過去の自分の言動に恥じらう。宁麗文は微笑んで阿瑾から手を離して下ろした。
「気にしないでください。私も自分のことを言わなかったから。今日はまた飴を買いに来たんです」
「そうなの? あの男の人は? 一緒じゃないの?」
「うっ……今は、色々と忙しいらしくて……」
春の言う『あの人』とは肖子涵のことだろう。宁麗文はそれも分かっていたし、同時に彼から伝達術で「閉関中」だと告げられたことを思い出して心の中で膝を抱えて泣く。しかしそれを表に出しても仕方がないし、彼女は修士のなんやらを知っているわけがない。
「あら……彼もかっこいいお人だったわ。それなのに忙しいなんて。もし今度ここにいらっしゃったら連れてきてくれないかしら? 実は華伝投の後、あなたがうちの飴を食べたからって他の人たちも買いに来たのよ。それほどあなたも彼も気品があるの。今度また来たら飴をもう一個おまけするわ」
「おれにもおまけしてくれないの?」
阿瑾の言葉に春は微苦笑する。
「唐秀英さんに奢ってもらっていたでしょう。自分で稼いだらいらっしゃい」
「ちぇー」
気軽に話し合う二人に宁麗文は瞬く。どうやら春は唐秀英とも既に知り合っていたようだ。きっと宁麗文と青鈴と会う前に、それこそ「あまりにもお腹が空きすぎていた」からという理由で訪れたのだろう。
あとから唐秀英と青鈴も屋台に着いて、宁麗文がそれぞれ飴を買う。唐秀英は甘いものが好みではなかったので、自分、青鈴、阿瑾と三人の飴を頼んでそれぞれ受け取る。
「これからどこかに行くの?」
「家に帰ります。唐公子が用事があると言っていたので」
「そうなのね。とにかく今日は会えてよかったわ。またおいでね」
「はい!」
飴を食べきった宁麗文は朗らかに返し、同じく食べ終わった青鈴から何も刺していない棒を受け取って懐紙に包む。四人は軽く手を振りながら春と別れて宁氏の邸宅へと向かった。
邸宅に向かう途中に飴を食べ終えて何もない棒を手にしている阿瑾から棒を取って、宁麗文と同じように懐紙に包んだ唐秀英はそのまま彼の手を繋ぐ。繋がれている彼は振り払うこともせずに、むしろ満面の笑みを浮かべていて、宁麗文と青鈴は彼らを見ては互いに顔を見合わせて笑った。
宁麗文は到着した先の、閉まっている門の輪を叩く。すると中から佩芳が顔を出した。黒い髪を揺らしながら門をまた少し開き、柔げな頬を上げている。
「麗文、阿鈴。おかえり。そちらは?」
「桂城唐氏の唐公子だよ。父上に用があるんだって」
「へえ。分かったよ、宁宗主はいつものところにいる。……て、子供?」
茶色の双眸を丸くしながら阿瑾を見る佩芳に、青鈴がすかさず間を割る。
「唐秀英さんが連れてきたの。もしかして、ダメだった?」
「ううん、そうじゃないよ。珍しいから見ちゃっただけ。ほら入りな。君たちも」
佩芳が門の外に出て宁麗文たちが入りやすいように門を大きく広げる。唐秀英は彼に拱手をして入り、阿瑾は唐秀英にひっついたまま中に入った。そして佩芳も門の中に入って戸を閉めて修練場へと向かった。
廊下を進んでいく内に阿瑾が止まって不安げに辺りを見回す。それに青鈴が先に気付いて立ち止まった。
「どうしたの?」
「……ここ、おれも本当に入ってよかったの? 本当はダメなんじゃないの?」
それに彼女は瞬いて、しかしすぐに噴き出す。
「いいのよ。もしダメだったら今頃あたしはここにいないわ。それに、阿瑾が思うような怖い人なんていないわよ。だから安心して」
阿瑾の前で片膝を立てて彼の頬を軽く抓る。ぽかんと口を開けてはいたが、その後すぐに目を弧にして歯を見せて笑い、青鈴に抱きついた。彼女も目を丸くはしたが、それもやめて彼を抱き締め返す。二人の様子に宁麗文も唐秀英も顔を見合せて綻ばせるように微笑んでいた。
それほど時間が経たない頃に書室に着く。戸は閉まっていて中にいる宁浩然は何をしているのか分からない。宁麗文は「早く外に出たい」との一心で、深呼吸をしてから手の甲で戸を叩く。
「父上。私です」
「入れ」
宁麗文は戸を開けて唐秀英と青鈴に引っついている阿瑾を招き入れる。宁浩然は巻物を片付けている最中だったようで顔を上げては目を丸くした。
「君は唐宗主の息子ではないか」
「はい。宁宗主、ご無沙汰しております」
唐秀英は宁浩然の前で拱手をして頭を下げる。宁浩然も立ち上がって拱手をした。双方は手を下げて唐秀英が頭を上げ、宁浩然は宁麗文よりも頭ふたつ分も小さい阿瑾に気付いて青鈴を見る。
「その子は?」
「この子は唐公子のお付き人です。まだ子供でこういった場所に慣れておりませんので、後ほどあたしの部屋へ通すつもりです」
「そうか」
宁浩然は阿瑾の顔を見て少しだけ微笑んで二人を書室から出るように言付ける。青鈴は拱手をし、阿瑾を連れて書室から去った。今この場にいるのは宁浩然と宁麗文、そして唐秀英の三人だ。宁浩然はまた座って卓に腕を置く。
「君一人で来るのは初めてだな。道に迷わなかったのか?」
「ええ、大丈夫です。羅針盤と通りに住んでいる住民の方々を頼りにして来ました」
宁浩然は優しげに口元を上げる。
「流石、唐暁明の息子だけあるな」
「いえ、滅相もない。たまたまこういう行動を取っていただけです」
手を横に振って唐秀英は微苦笑しながら|謙遜《けんそん》する。
(すごいな。羅針盤で行くなんて……私だったら絶対迷子になっちゃうし、それなら御剣で行った方が楽な気がするけど。でも、空から見下ろしても分かることなんてないだろうし、それなら歩いて行った方がいいのか。じゃなきゃ、阿瑾のことも見つけられなかっただろうし)
唐秀英の受け答えに宁麗文は心の中で片腕を支えた先の手で顎を支え、うんうんと頷いている。その様子を知らない宁浩然は息子を一瞥してからまた唐秀英を見る。
「それで……なぜこちらへ来たんだ? 見たところただの観光のようには思えないが」
その問いに宁麗文が口を開いた。
「実は唐宗主から私に桂城へ来てほしいとのことで。今は何も予定がないので、父上に挨拶をしてから行こうとここに来ました」
宁浩然は一瞬だけ面を食らい、すぐに顰めた眉間を揉む。
唐暁明の性格上、世長会での彼の態度からして自分に伝えずにわざわざ息子に伝えるのは当然だろう。彼は決して手を焼かせるような人物ではないのだが、政治以外の方面では割と大雑把な気質を持っているのだ。
「……本当に唐宗主らしいな……。確かに今は何も予定はない。しかし、そう急ぐことはないだろう? もう少しここにいてはどうだ」
「いやだから、もう出発するんですって」
宁麗文は微かに眉間に皺を寄せながら唐秀英より前へ出る。確かに早急となれば準備不足もあるだろうし、何より遥々遠方から来た唐秀英からしては休暇が欲しいという懸念もあるだろう。だが、当の本人である唐秀英は疲労を見せていない。先日どこかで休んだのだろう、特に疲れた顔をしていなかった。
それでも宁浩然は片手で顔を覆いながらも首を横に振り、頑なに息子を旅に行かせない。まだ成人にも満たない、反抗心を持っている宁麗文は一刻も早く江陵から出る旅へ行きたかった。
宁麗文は父から振り返って唐秀英へと顔を向ける。
「ね、唐公子もそう思うでしょう? もし君が休みたいと思うのなら休めばいいし、体力があるなら私を連れていってほしい。最終的に決めるのは君です」
早口で進める宁麗文に唐秀英はぽかんと口を少し開けるが、すぐに微笑みに変わった。
「大丈夫。もう充分休ませていただきました。宁公子の準備が終わったら行きましょう」
その答えに宁浩然は酷く長い溜息をつき、顔を覆った手をひらひらと力なく振る。
「なら行きなさい。必ず準備はしっかりして、帰る時は伝達術を使うように」
宁麗文は頷いて拱手をし、唐秀英と共に部屋を出る。彼を客室に通して無名へ戻り、必要最低限の荷物を持って祓邪を片手に持つ。部屋から出ていくつかの部屋を素通りした先の客室に着けば、唐秀英の他に阿瑾もいた。
「阿瑾? なんで君もここにいるんだ?」
阿瑾は唐秀英の袖を引っ張りながら彼に引っつく。
「秀英兄ちゃんがいなかったら、おれはどうやって生きればいいんだよ。だから着いてくのさ」
唐秀英がいなかった場合の阿瑾のこの後のことを想像できず、むしろ彼がいる先のことをそれとなく想像していた。しかし、それでも江陵から桂城へ向かうには、青鈴も言っていた通り危険な生物や山賊などに遭うかもしれない。宁麗文はそれを分かっていたからこそ阿瑾を憂うっていた。
だが、阿瑾は唐秀英と共に行くと言う。たった数日という中でも、彼と共に過ごしていたのだから、多少なりとも絆というものはあるだろう。
「うん、分かった。じゃあ行こうか」
阿瑾は目を弧に、歯を見せて笑ってから我先にと唐秀英の手を繋いで門へと駆けていく。
「阿瑾、急に走るなよ」
腕を引っ張られながらも共に駆ける唐秀英に、阿瑾はきゃらきゃらと笑う。それを見る唐秀英もまた困ったように眉を顰め、しかしながら彼に釣られて笑った。宁麗文もまた、阿瑾の笑顔を見ながら目を細め、駆けながら門を先に開けて二人を通す。
少しだけ後ろを振り返り、そして前を向いて歩いて邸宅の門を閉めた。
江陵を出て埜湖森とは違う道を進む。そこは雑木林と雨でぬかるんでいる獣道が長々と続いていたが、決して通れない道ではなかった。三人は散歩をしているかのように歩いていて、歩調は阿瑾に合わせていた。もし阿瑾が疲れてしまったらそこで休憩を取ってまた歩く……を繰り返していた。宁麗文と唐秀英の二人は金丹があるので、そこまで休みを持つ必要がなかった。
「そういえば、桂城はどういう場所なんですか?」
宁麗文は他の世家の事情に疎い。世長会で軽くは接してはいるものの、具体的な内容までは理解できていないのだ。それもそのはず、彼はまだ埜湖森以外の場所に行ったことがなく、目にしたことがあるのはほぼと言っていいほど江陵の、それも青天郷しかない。だから自分の住んでいる場所しか分からないのだ。
唐秀英は阿瑾を手を繋ぎながら宁麗文に顔を向ける。
「うちは農業が|盛《さか》んなんです。過去に父がやったことは知っていますよね? 実はあの場所は田の水はけがよく、そして気候にも恵まれています。昔は飢饉に遭ったのですが、それは害虫が大量発生していてまともに駆除ができていなかっただけで、決して雨や日照りが続いていなかったわけではなかったんです」
「どうして害虫の駆除ができなかったんですか? 住民たちでも駆除できるんですよね?」
唐秀英はその言葉に歩む足を止める。一歩先を進んでいた阿瑾と宁麗文も足を止めて彼をに首を傾げる。唐秀英の顔には少し陰が掛かっていた。
「父が宗主になる前の……前宗主は細かい所まで見ていなかったんです。唯一見たものと言えば、賑やかな町の道の整備や繁盛していない店の援助ぐらいでして。初めて全区域に目を向けたのは父だけでした。だから害虫の駆除を徹底的にこなしてもち米粥をあげた……父は自由奔放で面倒臭がりですが、ああ見えて自分の見た、|乏《とぼ》しき点をなくす能力があるんです。僕は……」
最後の言葉に唐秀英は顔を赤くしながら俯く。宁麗文はその次に続く言葉をなんとなく想像した。
──僕は父に憧れているんです。
親の功績は子には受け継がれることはなく、それを自分の手柄だと思って周りに自慢する必要もない。それは宗主の子供である宁麗文たちは重々承知している。だからこそ、親を目標に、そして理想として生きている。唐秀英は自分の父親の功績を誇りに思い、そして次期宗主として次に繋げるための指標としているのだ。
「唐宗主は素晴らしい人です。でなきゃ、今頃君はこうして私に会うことなんてなかったでしょう。唐宗主が尽力してくれたお陰で桂城は今も生きていけてるんですから」
宁麗文の言葉に唐秀英が顔を上げ、赤くした顔のままはにかんで頷く。宁麗文は次に頬を指で掻きながら困ったように目を弧にした。
「すみません。行ったこともないのに……」
「いえ。宁公子からそう言われるとは思わなかったので。すごく嬉しいです」
まだ顔を赤くしながらも、丁寧に腰を軽く折る。宁麗文はそれに慌てて彼の顔を上げさせた。
それから一炷香したところで阿瑾が根を上げた。いくら休憩を挟んでも何刻も歩いていれば足が棒のようになるのはなんら不思議なことではない。しかも阿瑾のような子供であれば尚更だ。
唐秀英は阿瑾を抱き上げておぶろうとするが、彼はそれを拒む。阿瑾は顰めっ面で彼から一歩距離を置いて自身の腕を組んだ。
「いくらおれが子供だからって、おんぶされるほどじゃないよ。自分の足でちゃんと歩く」
「でももう限界なんだろ? だったら少しの間だけでもいいじゃないか」
「おれの面目が丸潰れになるってこと!」
(面目が丸潰れってどこで覚えたんだ……)
宁麗文は内心呆れていながらも、彼の元々の経歴を思い出す。阿瑾は唐秀英と共にいるが、その前は物乞いだった。家も家族も職も何も持たない彼らはどこをどうほっつき歩いていても自分の居心地のいい場所を探し当てることができない。せっかく一息つけてもその場に住んでいる、または休んでいる、身なりのいい人々から忌み嫌われてしまう。彼もその一人であって、道中で言われた言葉の一つ一つをはっきりと覚え、そして意味も分かっていったのだろう。
(そういう言葉を言えてしまうってのは。なんていうか、残酷だな)
宁麗文は次に青鈴を思い出した。彼女は桂城に住んでいた身で、父親が汚職事件に手をつけていて山賊に襲われた。彼女ただ一人が逃げ延びて、そこからは物乞いとしての人生を歩むしか道がなかった。
青鈴が深緑に見つけてもらえなかったら、彼女は今頃どうなっていただろう。また、彼女に支えてもらっていた宁麗文もまた、どうなっていたのかも分からない。
唐秀英は両拳を腰に当てて瞼を閉じて息を吐く。阿瑾は両頬を膨らませていて意地でもそこから動かない。
「仕方ないな。どこか寝泊まりできる場所を探そう」
「そうですね。直に日も暮れます。一刻も早く見つけましょう」
宁麗文と唐秀英は互いに顔を見合わせて頷いて、足早と道を進んで行く。阿瑾は結局、唐秀英におぶられていく羽目になった。
半時辰になりかけるところでかなり寂れた廃屋を見つける。その頃には陽は沈みかけていて雑木林も暗く見えてきていた。
「今日はここにしましょう。中には誰もいないみたいです」
宁麗文は|軋《きし》む戸を開けて中を確認すると、やや埃の匂いがして思わず袖で口元を覆って手を振った。普段は清潔にされて埃ひとつも見当たらないような場所で過ごしてきていた宁麗文にとって、この内観は人生最初の汚れた場所なのだ。埃の匂いを懸命になくそうと手を振るがそれもかえって酷くなる。宁麗文は諦めて手を振るのをやめて気落ちしたまま腕を下ろした。
唐秀英は阿瑾を下ろして宁麗文と共に中に入る。辺りを見回して小さな燭台を見つけた。心もとないがないよりマシだと考え点火符をかざして火をつけ、それを燭台の上にあるろうそくに灯す。少しの範囲だけの明かりになるが、動ける範囲は少ないので特段気にすることもない。
「阿瑾、腹は空いてる?」
「すごく空いてる。もうぺこぺこだ……何も食べないと背中とお腹がくっつきそうだよ」
これまで休憩中に、少なくとも二回か三回ほど阿瑾は一口分の|麺包《メンパオ》【パン】を食べていた。つまり、実のところ、そこまで空いてはいないが、あまり食べなかった二人を案じて嘘をついたのだ。
「じゃあ食べようか」
唐秀英は苦笑しながら腰帯に巻き付けていたひと袋の|囊《のう》を外す。中を開けると今まで阿瑾にあげていた麺包がいくつか入っていた。宁麗文も袖口から上等な衣に包まれた|饅頭《マントウ》を数個取り出して二人に渡す。彼ら二人は饅頭と宁麗文を何度も行き来するように見て、当の本人はそれに眉を顰めて何度も瞬く。
「な、何……か……?」
「いえ、あの……いいんですか? かなりの大きさですし、その、まだ道は続いています。今は僕たちに分けないで、しばらくはあなたの分として持っていてください」
どうやら唐秀英は彼の持参していた饅頭の大きさに驚いていたようだ。阿瑾も「そうだそうだ」と彼に同意するように声を上げる。
「いえ、別にいいんです。私はこれでも少食ですし、阿瑾が少しでも満腹になってくれれば。唐公子も、もしいらなくても急にお腹が空くかもしれませんし、となればあげた方がいいかなって」
「ダメです! ダメですよ。あなたはお人好しがすぎます。いつまでもそんなままじゃいつか『お前が憎いから殺す』って言われても喜んで『はい』って答えて殺されますよ!![#「!!」は縦中横]」
唐秀英は慌てながら饅頭を宁麗文に押し返す。それを見た阿瑾も慌てて饅頭を宁麗文に差し出す。
「お、おれも返す……」
「阿瑾は食べて!![#「!!」は縦中横]」
「あ、はい」
二人同時に顔を阿瑾に向けてこれまた同時に声を上げる。あまりにも強い言葉だったからか、阿瑾は呆気に取られたまま固まった。
また二人は互いに顔を見合わせ、宁麗文も唐秀英に饅頭を押し返す。
「いいえ、その場合は私も真正面から戦います。これとそれとは違う話です。私がしたいからこうしているのです」
「いやいやいや……」
「唐公子、いいからお食べください。でないと私が君にこの饅頭を突っ込むまでですよ!」
そこまで言われた唐秀英は諦めて素直に饅頭を受け取った。阿瑾が麺包と饅頭を交互に食べているのを薄目で見てから饅頭を見て、最後に宁麗文に顔を向けて息を吐く。
「あなたは本当にお人好しすぎます……」
「それほどでも」
「もしかして江陵宁氏はお人好ししかいないのですか?」
宁麗文は懐から扇子を取り出して顎に先を付ける。
言われてみれば、江陵宁氏の一族には相当の温和な性格の者が多い。現宗主の宁浩然を始め、その妻の深緑、その息子の宁雲嵐と宁麗文、そしてその養子の青鈴。また、宁麗文からする祖父母やその先の先祖も同じような性格が多かったと聞く。
その理由は家訓である『民にも天にも優しくあれ』というものだろう。つまるところ、初代宗主であった元放浪者が、閉関を終えて戻った先にいた子供たちにその教えをずっと説いていた。それが続いて今に至るのだから、宁氏の一族は全員『お人好し』なのだろう。
「そうかもしれないです。元々、うちの家訓は『民にも天にも優しくあれ』っていうものなので。両親からも言われてましたし、実際になっているのかも。うちにいる人も、青天郷もですけど、私たちにもずっと優し……」
(いや、それは違うか。『たち』じゃないな)
宁麗文の頭の中に宁雲嵐がよぎる。
彼と両親の互いの態度はどうだったか。深緑との間はそれほどではないが、宁浩然との距離は必ずと言っていいほどあった。宁雲嵐という男は江陵宁氏の次期宗主として生きてはいるが、宁浩然のやり口には快く思ってはいない。それは普段の生活も含めてだが、『次期宗主だからこその躾』や『他人の報告の埋め合わせをさせない躾』などと多くある。世長会に関してはまだ妥協すべき点はあるだろうが、もしかするとそれも当てはまる可能性もあるだろう。
彼は宁麗文や青鈴、そして深緑の前では『宁雲嵐』そのものとしていられてはいるが、宁浩然の前ではそうではない。これまで二人が言い争っていたいくつかを目撃してきていた宁麗文たちは、より一層彼に心配を掛けているのだ。
視線を横にしながら深く考え込んでいる宁麗文に、唐秀英が彼の顔の前で手を振る。
「宁公子。宁公子? どうされましたか? どこか具合でも?」
「……えっ、あっ、いや! なんでもないです。ちょっと考え事を……はは……」
誤魔化すように指で頬を掻きながら苦笑して手を下ろす宁麗文に、唐秀英と阿瑾は二人して首を傾げていた。
それぞれ麺包と饅頭を食べて夜が更けていく。阿瑾はまだ眠たくなさそうで、宁麗文の扇子をずっと見つめていた。
「阿瑾? そんなに見つめてどうしたんだ?」
「それ、すごく綺麗だなって思って。なんで持ってるんだ?」
「これ? これは母上からもらったんだ」
それはもう昔の話だ。熱病に侵された宁麗文が熱さで死にそうになった日に、深緑が自ら扇子を彼に贈った。他の扇子よりかは少し重かったが、熱さに焦げてしまいそうになった宁麗文がそれを受け取ると瞬く間に熱が引いたのだ。宁麗文は深緑にこれは何かと聞けば、深緑は「これはあなたを護るものよ」と答えた。その頃の宁麗文には意味を理解していなかったが、金丹を得た今では気付いた。この扇子には微弱ではあるが霊力が込められていて、白と薄緑で縁取られている扇骨は淡く温かみがある。扇面には全くの白色で何も描かれてはいないが、それが返って目立つのだ。むしろ何も描かない方が霊力を滞らせることはないだろう。
「そうなんだ。じゃあその綺麗な腕輪は?」
彼の示す目の先には宁麗文の手首に嵌められた腕輪がある。宁麗文は二人に見せやすいように腕を上げた。唐秀英もそれに目を向けて思わず声にならない吐息を漏らす。
「これも父上からもらったんだよ。邪祟除けのすごい物なんだ」
「へえ。麗兄ちゃんは親に愛されてるんだな」
「まあ……愛されてはいるね」
少し歯切れの悪い答えに扇子を広げて口元を隠す。少しばかりの反抗心が芽生えてきているのが分かってしまっているからか、心の中でなんとも言い難い思いを抱えていた。唐秀英が彼を見て苦笑ってから阿瑾に顔を向ける。
「阿瑾。もう寝よう。明日は朝から歩くんだからな。今のうちに休もう」
「はあい」
唐秀英は幼い彼に手招きして身を寄せる。阿瑾は彼の脱いだ外套を布団代わりにして目を閉じた。宁麗文も自分の外套を脱いでその場で寝そべる。自分の家とは違う場所で不安はあったものの、人がいることでそれはすぐになくなった。
(いつか私も怨詛浄化に行くようになったら。こういうのも増えていくんだろうな)
宁麗文はゆっくりと瞼を閉じて長く息を吐く。唐秀英が阿瑾を起こさないように燭台に乗っているろうそくに息を吹いて火を消した。
翌日の明朝に出発して、時間を掛けてゆっくりと歩く。また日が暮れれば近くにねぐらを探して小さな穴ぐらへ入って寝る。また朝を迎えれば歩くを繰り返し、三人は怪我をしないように確実に桂城へと歩いていった。このぐらいの期間になれば少し前までの雨の影響は段々となくなっていて、ぬかるんでいた獣道も多少はマシになっていた。宁麗文は歩き慣れていないので細い木の幹に手を伸ばして身体を支えながら歩いていて、唐秀英はこの道に慣れているからか阿瑾の手を引きながら何も掴まないまま歩く。
宁麗文は木々の幹を伝いに歩きながらふとよぎった疑問を投げる。
「そういえば御剣は使わなかったんですか? こんな道を歩くぐらいなら使えばすぐに着くのに」
それに唐秀英が振り返って眉を上げる。
「ああ、それは阿瑾がいるからですよ。僕たち修士は御剣に慣れていますが、この子は違う。子供で修行もしていない。もし空へ御剣をして下を向いてしまって、怖がってしまったら元も子もありません。だからしないんです」
「そっか……確かに一理ありますね」
手を置ける木々が減って段々とぬかるみが少ない道へと進んで行く。少しした頃には平坦で歩きやすい道になっていた。
「ここまで来ればあと少しです」
唐秀英は息を弾ませながら宁麗文に顔を向けた。宁麗文もまた息を弾ませながら頷く。阿瑾はまだまだ元気そうで、唐秀英の手をブンブンと振っていた。
「はは、元気だな」
「当たり前だよ。早く着かないかな」
やけにご機嫌な阿瑾に宁麗文は微笑む。このぐらいの年の彼は身体の中が柔らかく、そして脆かった。少しでも突いてはすぐに体調を崩してしまうほどだったので、阿瑾のような活発さが羨ましかった。もちろん今は風邪のひとつもひいていないが、できることなら幼少期からこうでありたかった。しかしながらそれはもう到底叶うことはなく、できるとすれば来世に願うことだけだろう。
雑木林を抜けて開けた空と地が続く。木々によって遮られていた陽の当たりが突然にして彼らを照らしていて、少しだけ目を細めた。三人は道を進んで休憩を挟み、また進んでを繰り返す。道中では阿瑾がつまらなくならないように様々な話を挟んでいた。
「そういえば、鈴姉ちゃんのことなんだけど。姉ちゃん、物乞いなのになんで麗兄ちゃんの家に住んでるの?」
「それは話せば長くなるんだけどね。桂城に着くまでに終わるかな……」
「別にそれでもいいよ」
あっけらかんとした態度で答える彼に宁麗文は瞬きをする。目線を斜め上にしてから前に戻し、拳を口元に寄せて一つ空咳をした。
「大人しか分からない話ばかりあるんだけど。青鈴は、両親を山賊に殺されて見逃された子なんだ。そのあとはいろんな場所に行って野犬に襲われたり、せっかく見つけた寝る場所も土砂崩れで失ったり……まあ、とにかく色々あったんだ。それで江陵に来て、私の母上に拾われた。それからあの子は私たちの家族になったんだ」
ある程度端折りながら、阿瑾にも分かりやすいように噛み砕く。阿瑾は軽く相槌を打って歩きながら話を聞いていた。
「でも姉ちゃん、犬を見てもちっとも怖がらなかったよ。野犬に襲われたんだったら、普通、死にたくなるほど怯えるんじゃないか? おれだったら普通の犬でも見たくもないよ」
「ははは……」
(やっぱり普通はそう思うよな……)
宁麗文は口元をぴくぴくと動かしながら呆れ笑う。なぜ青鈴は犬を見ても怖がらないのか。それは彼女の中での『区別』がついているからだ。
「それは私も不思議だったから聞いてみたんだ。そうしたら『確かに野犬は怖かったけど、木に登ることはできないし飛び乗ることもできない。だから木に登って偶然あった木の実を思いきりぶん投げて追っ払ったり、たまに運が悪くて死んだ野犬は火を起こして焼いて食べてたのよ』って……あの子は、その、すごく強いんだ」
青鈴にまつわる話をこと細かく伝えると、唐秀英も阿瑾も面食らう。
──あんなに細いのにどんだけ力を持っているんだ!?
二人がそう言いたげな顔に見える宁麗文はまた薄笑いを浮かべる。
(分かる……分かるよ。私も聞いた時は怒らせないようにしようって決めてたから……今はたまに怒られてるけど……)
唐秀英は表情をスッと元に戻して困りながら微笑む。今までこういった女に出会うのは初めてなのだろうか、反応に困っていた。
「ま、まあ、昔の話ですから。今の青鈴は割と大人しいので大丈夫です!」
また会えるかすらも分からないのに、宁麗文は両手を横に振りながら弁解する。今までにない性格を持つ女の話に、唐秀英も阿瑾も「そうですね」としか言いようがなかった。
「あそこに門が見えますか? あれが桂城です」
唐秀英は話を切り替えるように人差し指で向こうを示す。そこには頑丈な、灰色がかった石製の高い塀が横に広がっていた。宁麗文は肖子涵から聞かされていた秋都漢氏の塀の話を思い出す。建設開始は二年前の世長会からだったはずだが、江陵よりも先に桂城に塀を建てたようだ。
「あれは……秋都漢氏が建てた塀ですか?」
「はい。一番早く建ったのはもちろん秋都ですが、その次に桂城に設置されました。まだ時間は掛かりますが、そのうち江陵にも建設が終わるでしょう」
「世長会で話していたのはたった二年前でしたよね? それがこんなに早く終わるなんて……」
唐秀英は宁麗文に顔を向けて口角を上げる。
「秋都漢氏は建築に強い世家です。彼らにとっては朝飯前なんでしょう」
「そうだった……すごいな……」
歩を進めば徐々に塀が近くなる。門の近くには様々な商人や観光客が出入りしていた。
「入りましょう。ようこそ、我が桂城へ」
唐秀英は彼から顔を戻す。宁麗文もまた頷いて、歩みを止めることなく門の中へと入った。