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第二章 花の想い話

七 初任務

 広く荒れ果てた大地に二人の青年が立っていた。彼らは外套を脱ぎ、腕を|捲《まく》って農具を振るっている。一人は橙色を身にまとっていて、もう一人は白と縁取られている薄緑を身にまとっている。白と薄緑の青年は|鋤《すき》を引き上げた後に頭を上げ、額にじんわりと吹き出た汗を手の甲で拭う。腕を下ろした、日にあてられた玉のように白い肌は既に土と汗まみれだった。  (どうして……こんなことに……)  土から抜いた鋤を見下ろしているのは宁麗文で、先程までは元気に桂城へ入った。はずだった。はずだったのだ。  これに至るまでの昨日へ時を戻そう。宁麗文、唐秀英、そして阿瑾の三人は江陵からおおよそ四日ほどの時間を掛けて桂城へ到着した。そのまま唐氏の邸宅へ通されて客間で座って待たされ、一炷香ほどしてから唐氏の現宗主である|唐暁明《トウギョウメイ》が客間へ入って約十尺【約三メートル】も離れている二人と対面するように彼専用の王座に座る。  「いやあ遅れてすまん。宁二の若様、久しぶりだな」  宁麗文は立ち上がって頭を下げながら拱手を上げる。唐暁明も続けて同じ行動をした。  「ご無沙汰しております、唐宗主。|此度《こたび》はお呼びいただきありがとうございます」  「そこまで堅くならなくていい。気楽に行こうや」  宁麗文は顔を上げて愛想笑いを浮かべながら手を下ろしてまた座る。唐暁明は王座から身を乗り出すように腕を膝の上に乗せていて、その顔は気怠げながらもその目の奥は生き生きと輝いている。  「それで|阿英《アーエイ》。そいつが伝達術で言ってた子供だな?」  「はい。阿瑾と申します」  「よし、従女を呼ぶから預けてこい。今回の任務はお前たち二人にやる」  すぐに客間にいた従女が呼ばれ、唐秀英の側にいた阿瑾は彼女に手を引かれながらこの場を去った。阿瑾を見送った唐秀英は目を丸くしながら父を見上げる。  「僕たちに、ですか?」  声の調子からするに、彼は『宁麗文のみ』の任務だと思っていたようだった。若干の困惑と戸惑いで宁麗文へと油の差していない金属のようにゆっくりと首を回して彼を見る。その表情には頬をぴくつかせていて薄らと冷や汗を流している。宁麗文も彼の死にかけている目を見て全てを察した。  ──嫌な予感がする。  宁麗文は世長会での、宗主たち大人が自分の子供に無茶な任務を任せていたことを思い出す。その中には唐秀英も入っていて、彼はその度に死んだ目をしていたのだ。  「そっ……それは、……なんですか?」  正面に向き直った唐秀英は父におそるおそる問う。唐暁明は二人の青年に向けて瞼と口をにっこりと弧に描く。  「なあに、簡単なものだよ。復興だ」  復興。  その淡々と述べられた二文字に二人の顔からサッと血の気が去る。簡単に言葉にされただけではあったが、それでも唐暁明と二人の考えている範囲は天と地の差であろう。  二人の青年は脳内で戸惑いと困惑に満たされていて、そのうちでも宁麗文は心の中で頭を抱えながら呼ばれた理由について知りたくなっていた。  たとえ自分じゃなくても、兄上とか他の世家の人とかもいるだろ!  相当渋い表情を浮かべていたからか、笑みを絶やさない宗主が宁麗文に顔を向ける。宁麗文は彼がこちらを向いたことで顔が余計に引き攣った。  「なんで自分が来たか、理由が知りたいか?」  「えっ……いや……」  知りたいが知りたくもない。それは隣にいる唐秀英も気付いていた。しかしなぜ宁麗文が今回の任務を任されているのかを知らなければ、後々何かしらの|齟齬《そご》が生じる可能性がある。仕方なく頬をぴくぴくと動かして乾いた笑みを浮かべながらまた口を開く。  「……はい、知りたいです」  「至って単純だ。暇そうだったから」  宁麗文はその場で気を失いたい気分だった。こんな言葉はどんな|英俊豪傑《えいしゅんごうけつ》でも|泰然自若《たいぜんじじゃく》でも驚くに違いない。  今この場にいるのは宁麗文と唐家の親子の三人だけでよかったものの、もし侍女やら門弟やら仕えやらと一人でも誰かがいたら面食らった顔で唐暁明と宁麗文を交互に見ていただろう。それほどまでの簡単な、まさかの理由が──「暇そう」だったからとは!  (確かに兄上とは違ってほとんど江陵から出たことはないし、あっても肖寧と埜湖森に行ったぐらいだ。だ、だとしても、それはないんじゃないか!?[#「!?」は縦中横] あんまりだろ!)  当然目上の、それも他世家の宗主に自分の心に吐いた言葉をそのまま投げつけられるわけがない。満面の笑みを浮かべて「そうなんですか」とも言えないし、そもそも他世家の宗主に文句の一つすら言えるわけがない。宁麗文は泣きそうになりながらも愛想笑いを浮かべるだけで、はは、の乾いた笑いしか返せなかった。  「父上、あなたって方は……」  呆れで額を手の甲で押さえる唐秀英に、父は豪快に笑って席を立つ。  「任務は明日からな! 今日は観光でもしてゆっくり休め」  特に任務の詳細を述べることなく、目を弧にしながら広間をあとにする。客間に残されたのは明日の任務に携わる青年二人だけとなった。  宁麗文と唐秀英は互いに顔を見合わせ、共に青くなった顔を見ては重い溜息をつくしかなかった。    邸宅を出て街へ行く宁麗文と唐秀英は心底疲れ果てた表情を浮かべていた。あの四日間、歩きながら話していた時間はとても貴重だった。そう思うほどに任務の内容がまだうら若き青年たちにとって酷でありえないものだったのだ。  「唐公子。君は……その、復興の任務を任されたことは?」  「一度もありません……」  唐秀英はまた長く息を吐き、片手で顔を覆う。  (でも、唐公子と一緒でよかった……私一人だけだと無理だよ)  宁麗文は彼の覆われた顔を見ながら少しばかりの安堵を浮かべる。同時に唐暁明に言われた理由を思い出してしまった。  「それにしてもなんで私が暇そうだって思われたんだろ……」  「父は思ったことを口に出す人ですから。あまり気にしないでください」  唐秀英は顔から手を離していきなり両頬を両手で軽く叩く。先程まで白かった顔は元の色に戻っていた。宁麗文は彼の急な行動に面食らって口をぽかんと開けてしまった。  「こうしちゃいられません。まずは食事をしましょう! 備えあれば憂いなしです!」  意気込んだ茶の双眸を宁麗文に向けて両手で拳を作る。呆気に取られた宁麗文だが、それもやめて彼と共に頷いた。  「そうですね。早速食べに行きましょう!」  桂城に着くまでの休憩中は麺包を一粒ほどしか食べていないし、明日も食べる余裕があるかと考えても分からない。そうなれば今のうちに十分すぎるほどの飯を食う他ないだろう。二人は明日の任務に備えて、今のうちに腹十分目に近い量の飯を食らうと決めた。  ここ桂城は農業が盛んだ。そしてこの世家の町で一番栄えている場所がここ、『|橙花坊《とうかぼう》』であり、それを象徴つけるかのようにそれぞれの屋台に新鮮で瑞々しい野菜が並んでいた。宁麗文はそのどれもが眩しく見えてついつい見てまわる。  「珍しいですか?」  唐秀英の声で我に返って少し頬を赤らめながら頷いた。  「流石、桂城ですね。どの野菜も眩しいくらいに新鮮です。珍しい肥料を使っているんですか?」  「いえ、ここにあるのは全て恵まれた土地と気候、そしてここの民のお陰です。彼らの先祖は僕の先祖……一代目の宗主と共に同じ村に住んでいたそうです。そこで|切磋琢磨《せっさたくま》をして、たまにやってくるイノシシや鹿などの害獣は力を合わせて駆逐をして。もちろん肉も|食糧《しょくりょう》として扱っていましたが、周辺に落ちていた糞を集めて発酵して、それを肥料にする。それを繰り返し繰り返して生きて、唐氏の宗主が変わっていてもその方法は昔から何一つ変わっていません。まあ、今はイノシシや鹿に頼らずとも、牛や豚もいますし。たまに|膳無秦《ぜんむシン》氏から糞をもらってそれを肥料にしたりしてます」  唐秀英は会話の途中で饅頭を二個購入する。受け取った片方を隣の彼に渡した。宁麗文は感謝を短く述べてそれを受け取って一口食べながら歩く。  「でも、昨日話した害虫なんですが。あれらは約三十年ほど前に急に現れたんです。どこから来たのかも分からないし、どこに巣があるのかも分からない。それでいて農作物を食い荒らして益虫までも全て食い殺した。当時の民たちは本当に飢餓状態に陥っていて、一部では人を喰った事例もあったそうです」  「人を、喰う」  「はい。人を喰う。それが男でも、女でも、老人でも、子供でも見境なく加害も被害もあったそうです。今まで生き残っている方曰く、辺りには肉片と血と骨が散らばっていて、それは見るに堪えない光景だと仰っていたと聞きました。でも当時の宗主はそれに何も手をつけなかった。昨日はそう言いましたよね?」  「はい。栄えている町の援助とかをした……ですよね」  唐秀英は微苦笑を浮かべる。一口、二口とかじった饅頭を一目見て静かに立ち止まった。宁麗文も彼に続いて立ち止まって二度瞬かせた。  「昨日は阿瑾がいたからそう話していました。でも……それもそうなんですけど、あの子の前ではそうとしか言えなくて……」  手に持つ饅頭に力を込めて強い痕をつける。先程までは太陽のように輝いていた茶の双眸が酷く揺らいだ。  「本当の、理由は違うんです」  宁麗文は陰りを見せる彼の顔を窺う。唐秀英は瞼を伏せてから彼を見て、やや引き攣った表情を浮かべた。  「あの宗主は……僕の祖父は、人でなしなんです」    饅頭を全て食べ終えた頃に食事処に着いた。唐秀英が先に入ってその後に宁麗文が入る。  そこは江陵とは違った賑やかさに満ちていた。基本的には江陵と変わらない食事ではあったが、所々に目につくのは野菜の多さだった。  「唐の若様。今日はいかがいたしますか?」  「二階のいつもの部屋に」  「分かりました。いつものお部屋ですね。どうぞ」  店員が手を階段に向け、唐秀英は宁麗文に顔を一度向いてから先に上がる。宁麗文も続けて店員に会釈をしてから上がった。  幾つかの部屋を過ぎて着いた先に唐秀英が戸に手を掛けて開ける。  「ここは僕ら唐氏の部屋です。たまに橙花坊へ訪れる時は必ずここで食事をしています。まあ、お得意様の食事処みたいなものですかね」  その中は唐氏専用の部屋だと主張しているようで、所々に橙色の装飾が施されていた。決して豪華とは言えないが、階下よりも幾分か華やかに見える。  他世家の街や食事処へ来たことがない宁麗文は落ち着きのない様子で辺りを見回していて、唐秀英は彼の行動に噴き出して笑う。彼の笑い声を聞いた宁麗文は途端にまた恥ずかしくなって俯きながら顔を赤らめた。  戸が叩かれて店員が扉越しに注文を呼びかける。唐秀英はいくつか品物を頼んで店員を下がらせた。戸を閉める音を立ててまた空間に静寂が訪れる。その間の宁麗文は脳内で彼が苦痛に満ちた表情を浮かべながら放った言葉を思い出す。  『人でなし』というのはどういう意味なのだろうか。自分の祖父だというのに、唐秀英は彼のことを悪評していた。そしてなぜ、その『人でなし』の父に代わった唐暁明が代わりに貧困の町の復興を遂げたのか。積極的に駆除を行った、もち粥を様々な民に配った、それだけでも政治の方面としては功績を挙げられてはいるが、それ以前に前宗主との何かしらの諍いはあったのだろう。  色々と聞きたくなった宁麗文は彼に何から聞こうかと口を開いては閉じるのを繰り返す。唐秀英はその気まずそうな表情に微笑んだ。  「さっきの話の続きをしましょうか」  宁麗文は我に返ってから小さく頷く。  「はい。人でなし……というのは?」  「言葉の通りです。僕もですが彼は裕福な身であり、敢えて栄えている町でしか目を向けませんでした。同じ桂城の中でも貧富の差は天と地の差と同然で。自分の中で気に入っている町や栄えている町だけに率先して投資を続けて優遇する。逆に気に入らない町や貧しい町にはわざと金銭のひとつも与えずに放っておく。それが時々、町民から投資の申請の届け出を受け取っても受理をせずに一切与えず……これまで、幾つかの町が滅んだかは分かりません。そりゃあ自分の気に入っている町以外には吝嗇して当たり前でしょうね。一部では賄賂を送っていたという話も父から聞かされていましたから……。そのせいで貧富の差は余計に広がって、民の間でも裕福な方と貧しい方の|諍《いさか》いが絶えない過去もあったそうです。中でも貧しく|無辜《むこ》の方に拷問を掛けたり、酷い濡れ衣を着せられてしまったり……それでも彼は全て無視して、裕福な町のみに投資を注いでいました。酷い話ですけれど、前宗主はそういうお方でした」  口から紡ぐ言葉を吐く唐秀英は次第に俯いて身体を震わせる。宁麗文からは見えないが、卓の下に置いた手は拳を作って痛むほどの力を込めているだろう。  宁麗文は彼から告げられる桂城唐氏の、それも深く折り入った過去を聞かされて目元を歪める。  (そんな、民に酷いことをする宗主なんていたのか……唐公子がここまで嫌うのは当たり前だ。賄賂を送ったってどうにもならないのに。……それに、拷問だなんて。人は……環境でこうも、簡単に変わってしまうんだな)  瞼を伏せてから彼を見上げる。唐秀英はやや引き攣った表情で宁麗文から顔を伏せ、そして上げる。  「祖父……前宗主のやり方に父は真っ向から反抗しました。『宗主のくせに貧富の差をなくさないのは、人としてどうなんだ』と。しかし、前宗主は父に『それならお前が復興させろ。どれだけ難しいかその目で確かめてみろ』と仰ったのです」  「もしかして、それで視察をしに行って害虫駆除をしたのですか?」  唐秀英は頷く。  「はい。父は視察に行った町で人が人を喰らう場面を見たと言いました。それは魔のようだったと……もし今も変わらないままでいたら、この桂城は今頃滅んでいたのかもしれません。父は今にも喰い殺そうとしていた人を引き剥がして、持ってきた饅頭を飢餓状態の彼に押し込んだんです」  若かりし頃の唐暁明を想像し、死ぬほど腹を空かしていた民に饅頭を押し込んだ図も考えた。今の唐暁明とは全く似ても似つかない行動だ。  「でも、昨日言ったのはもち米粥を奮った、ですよね? なぜ饅頭を?」  「……あまりの突然のことで、気が付いたら押し込んでいたようです」  父の行動に共感性羞恥を生んだのだろう、顔を赤くしながら呟いて俯く。すぐに顔を上げて慌てたように手を懸命に横に振る。  「その後はちゃんと炊き出しもしました! 饅頭を与えたのは人を喰いかけていた一人だけで、他はちゃんと粥を与えています。もちろん彼にも与えてますよ!」  必死に弁解する彼に宁麗文は思わず噴き出して笑う。それに唐秀英は顔の赤みを取れないまま口をもごもごと動かす。  「分かってます。でも、唐宗主は本当にすごいですね。実の父親に無茶ぶりを掛けられたのに、それを見事に成し遂げただなんて。そんな宗主なんて中々見られないです」  「はは……ありがとうございます。と言っても、これは僕の功績ではありませんので……。その褒め言葉は父に伝えてやってください」  「そんな面と向かって言えるかは分かりませんけど。でも、唐公子は現に今こうやって私に歴史を話してくれたんですから。私は……世長会で得た情報以外の世情は何も知らないんです。こうやって誰かから話してくれないと、何も知らないままでいました。なので話してくれたことに感謝しています。ありがとうございます」  頭を下げる彼に慌てる唐秀英が咄嗟に肩を掴む。  「そんな、頭を下げるほどでは!」  まだ赤い顔をしている唐秀英を見上げて笑ってから上半身を正す。唐秀英が彼の肩から手を離した辺りで頼んだ料理が次々と運ばれ、二人はそれに舌鼓を打ちながら料理を味わう。様々な料理に手をつけていく宁麗文は彼からの視線に気付いて顔を上げた。  「どうされました?」  「……昨日、自分で少食って言ってませんでした?」  「……」  食事を堪能した後は急いで邸宅へ戻り、宁麗文は客室へ通される。沐浴を済ませて用意された寝台の上で一盞茶ほど瞑想をして瞼を開ける。ろうそくに灯された火を消して布団の中に潜り込んで瞼をきつく閉じた。  (肖寧は今、閉関中はどう過ごしてるのかな。ちゃんと食べてるといいんだけど……)  心が傷付くとは分かっていても、彼は肖子涵を思うことをやめられる度胸がなかった。初めての友人だという理由からだが、それでも心配が勝って片時も忘れることができない。頭を振って下唇を噛んでまた布団の中へ入る。  (もう寝よう。明日からは唐公子と任務に行くんだ)  宁麗文は胎児のように身体を丸めて瞼に込めた力を緩めた。    そして翌朝。宁麗文は桂城唐氏の仕えに戸越しに起こされ、眠たい目を瞬かせながら身支度を済ませてから仕えに案内されて食間に通される。着いた頃には支度を既に済ませていた唐秀英がいてその前には|朝餉《あさげ》が置いてあった。唐秀英は来た彼に気付いて「こちらへ」と手の示す方へ促す。宁麗文も会釈をして彼の隣に座り、二人して朝餉を済ませる。仕えが空になった椀を乗せた盆を回収して二人は客間へ入る。自室で朝餉を済ませたのだろう、唐暁明が客間に入って王座に腰を下ろした。  「おはよう。よく眠れたか?」  「おはようございます。お陰様ですっきり眠れました」  「上出来だ」  唐暁明はにこにこと笑みを浮かべながら席を立つ。そして二人の前まで歩いて二人の腕を持ち上げて立たせた。青年二人はその笑顔の意味を瞬時に理解してスッと表情を消す。  「行こうや」  「……はい」  これから投獄されるかのような通夜気分を味わう二人は、言われるがままに彼に引きずられるように客間を後にした。  唐氏の邸宅から馬車で揺られて半時辰ほど経った頃、着いたのは寂れた家屋や荒れ果てた畑が広がる、荒廃とした土地だった。宁麗文と唐秀英は事前に普段着から農作をしやすいように簡素な服に着替えたものの、この光景を見てすぐに引き返したくなった。しかし、二人が降りた後の馬車はその場を後にしてしまったせいで帰れなくなってしまった。  「これは……すごいですね」  宁麗文はひくひくと口元を引き攣らせながら顔を青ざめる。唐秀英は薄目で荒れた土地を見て心の内を切り替えるように両手で自分の頬を叩いた。  「行きましょう。まずは住民の確認から始めましょうか」  「は、はい」  背筋を伸ばして足を進める彼に宁麗文も着いていって町の入口から入って大通りであろう道を歩く。どこもそこも荒れ果てていて何も気配はない。ただただびゅうびゅうと建物の隙間や大通りの広い道から強い風が吹いて彼ら二人を押し戻さんばかりだ。  (もしかしてここに住んでいる人はもういないんじゃないか……? こんなに荒れてる町を見たのは……初めてだ)  宁麗文は顔を右往左往へと動かしながら歩く。若干の不安を抱えながらも、それでも唐秀英に着いていく歩みを止めることはしなかった。  身動ぎによって衣類の擦れる微かな音などにも注意しながら、それぞれの家屋の戸に手の甲で叩いたり格子状の窓から様子を窺ったりと安否を確認していく。一戸一戸と見ていく中で、どれもが明かりとなるろうそくが見当たらない。灯すためのろうそくがなくなってしまったか、それともわざと点けなかったかのどちらかになる。  ある家屋を見れば、土だらけで清潔の欠片もない、五歳ほどの少年が祖父らしき老人に擦り寄っていた。しかし、その老人は項垂れていてまるで生気を感じられない。生きる気力を失ってしまったか、はたまたとうの昔に亡くなられてしまったのか。定かではないが、少年は彼にずっとしがみつくように隣に着いていた。彼が宁麗文に気付けば肩を竦めて更に老人にしがみついていて、顔も避けるようにこちらから逸らしている。  (いる。……けど、酷く怯えてるようだ)  宁麗文は格子状の窓から離れて近くで生存の確認をしている唐秀英の元へ向かう。  「唐公子。ここの人たちは私たちに怯えているようです。やっぱり畑から始めませんか?」  彼も同じ考えだったらしく、二人は住宅地から離れて畑と呼べる、だだっ広い場所へと向かう。  そこはヒビが入っている固い土やぼうぼうに長くなって除草すらもされていない草もある、もはや畑とは言えない広大な土地があった。辺りを見渡してはいるが、どこにも動物、それも害鳥、益鳥、害虫、益虫すらも見当たらない。この光景を見た宁麗文は胸の内で痛みを感じ、唐秀英は瞼を伏せる。先に動いたのは唐秀英で、彼は地を踏んで進んで、畑であろう場所で屈んで土を掌でひと掴む。それは空気に|曝《さら》されて瞬く間に砂と化して指と指の隙間から零れ落ちた。開いた拳から見えたわずかな砂を握り締めて立ち上がって宁麗文の方へ身体を向ける。  「やりましょう」  宁麗文も頷いて様々な母屋を探していく。見つけたその中には既に朽ちた柄の鋤や鍬、ひび割れで使えそうにない桶などが転がっている。それどころか種すらも見当たらない状況で、正に絶望という言葉が妥当だろう。  (こんなに何もない土地は……初めて見る……)  今まで外の世界に触れてこなかった宁麗文は、今ある現状に憤りと|悲愴《ひそう》をも感じた。必ずここを潤った、元の町に戻さなければならない、一人でも多くの住民が安心して暮らせる町にしなければならない。拳を握ってわずかな悲痛に頭を振って投げ飛ばし、一歩踏んでめげずに使える道具や種を探した。  一盞茶も経たない頃にようやく一本の使えそうな鋤とわずかばかりの二種類の種を見つける。何軒かまわった母屋から出れば隣の母屋から出た唐秀英がいて、彼もまた鋤を手に持っていた。  「何か種はありましたか?」  「この二種類しか」  「ありがとうございます。これは粟と芋の種ですね。とりあえずこれだけでも植えましょう」  頷く宁麗文に笑みを向けてから種を植えられる場所を探していく。一盞茶、もしくはそれよりも少し過ぎた頃にようやく見つけた二人はその場で服の袖をまくる。宁麗文は農耕の知識は当然なく、ただただ唐秀英に着いていって彼のやっていることの真似をしなければならない。この農耕に関する書物などは一切手にしたことがなかったため、どうしても彼に頼るしかないのだ。  「宁公子は鋤を使ったことはありますか?」  「……恥ずかしながら、ないです」  己の無知に恥を感じながら鋤の柄を両腕で抱える彼に、唐秀英は笑みを浮かべる。  「教えますね」  唐秀英はそのまま自分の足元の硬い地に鋤の先端を押し込み、ぐっと足で更に押し込んでから身体全体を使って土を掘り起こす。少し滲んだ汗をそのままにしながら夢中で鋤で土を掘り起こし、後ろへ下がってまた掘り起こすを十回ほど繰り返す。顎に伝う汗を腕で拭って振り返った唐秀英は汗にも負けないほどの爽やかな笑みを浮かべた。  「やってみてください」  宁麗文もその場で鋤の先端を硬い土に押し込み、力を込めてから柄に体重を掛けて土を掘り起こした。|所謂《いわゆる》、てこの原理で金属部分から遠い柄に体重を預けた方がより簡単に起こせるのだと気付いた。この宁麗文という男は要領がよく、一度気付いたことがあればそれを使ってどんなものでもこなすのだ。  二人は二時辰ほど土を掘り起こして休憩を取る。持参していた|水嚢《すいのう》【水筒】で水を補給してから再度始めた。途中から宁麗文が下ろした鋤を見下ろしながら溜息をつく。  (どうして……こんなことに……)  昨日の唐暁明から言われた「暇そうだったから」を思い出しては泣きたくなっていた。しかし、「何もしないまま成長するよりかはマシだ、兄上に任せてばかりなのも悪いだろう」と自分の中で無理やり鼓舞しながら作業をしていく。粗方終わったところで唐秀英が自身の腰に片手を当てながらもう片手で額の汗を拭う。既に二人の掌には土と錆びた柄の汚れがついていて、鉄と土の匂いがしていた。  「植えましょう。その後は水をあげなければいけないので、ここで待っていてください」  「分かりました」  やや中腰の姿勢で粟と芋の種を柔らかくなった土の中に入れる。宁麗文は心の中で実ってくれと念じながら丁寧に入れていく。そして植え終わった唐秀英が畑からあぜ道へと足を上げて水を取りに向かう。その間の宁麗文は手についた土を払うように両手を叩き、顎に流れる汗を手の甲で拭ってから背筋と腕を天に上げて伸びをした。空は雨はとうに通り過ぎたように晴れている。眩しくて目を開けられなかった宁麗文は手をかざして影を作った。  遠い空に一羽の|鳶《とんび》が獲物を探すように|旋回《せんかい》している。その黒い姿にふと肖子涵が頭に過ぎった。これにはどうしようもなく困ってしまった。久しぶりに仲良くなれそうな人間に会ってしまったことで、宁麗文はお決まりの執着心を見せしまうのだ。  肖子涵は何故閉関をしたのか? そしてそれは一体いつ終わるのか? 宁麗文はただそれだけが気がかりだった。  連絡手段として伝達術を使えば分かるというものの、彼はそれをしなかった。いや、『できなかった』が適切だろう。閉関中である人間に伝達術を使ってしまえば、修行の妨げになるだろうと恐れてしまった。宁麗文はそれほど肖子涵に嫌われたくなかったのだ。  「まあ、いつか連絡が来ればいいか……」  独り言を呟いて鋤の柄の先端に手を乗せて顎を乗せる。姿勢も屈んで鋤から顎を外して片手で柔らかくなった土を触る。先程まで硬かったその土は蘇った綿のようにふわふわとしていて少しでも息を吹き掛けたら飛んでしまいそうだった。  遠くから汗と土まみれの唐秀英が木桶に入れた水を持ってきているのが見える。戻った彼は木桶をあぜ道に置いて畑に足を踏み入れた。  「お待たせしました」  唐秀英は懐から術が描かれてある札を取り出して木桶に丁寧に貼る。それは淡く橙色に光って|嵩《かさ》が増して、桶の縁から水を落としていく。土の上を滑るように固形状になった水が流れ、そして種を植えた場所にだけ力が抜けたように液状へと変化して土の中へ入った。  「これは……桂城唐氏の術ですか?」  木桶を持って植えた種の上に水を流す唐秀英は畑から目を離さずに頷く。  「他の世家の術は見たことありますか?」  「ないです。今が初めてですね」  唐秀英は目を弧にして笑う。  「多分、これからいろんな術を見られると思います。僕の世家は農業に特化していますが、膳無秦氏や秋都漢氏……もちろん例外もありますが、一つ一つの世家にはそれぞれの仙術があるんです。江陵にはありますか?」  「もちろんあります。と言っても、行事のみですが」  頬を指で搔きながら苦笑する宁麗文に、唐秀英は残り少なくなっていく水を流し込みながら彼を見上げて歯を見せて笑った。  水を含ませた地面を確認してから空になった木桶をあぜ道に置いて二人は畑から出る。土にまみれたままでどこもかしこも薄茶色がまとわりついていて、払いに払ったものの落としきれなかったので諦めた。肩を落としてから唐秀英へと顔を向けると、彼は近くの母屋に農具を片付けに行っているようだった。宁麗文も彼のあとを追って片付けを済ませてからその場から離れる。  「唐公子、これからどうしますか? 戻ろうにも馬車はもう行ってしまいましたし……」  「どこか休める場所を探しましょう。できれば人がいない場所が好ましいかと」  「そうですね」  二人は再び大通りへ向かい様子を窺いながら誰もいない民家を探す。長い間農耕をしていたからか、身体中は土と汗で臭いわ喉は渇くわで余計に怖がらせていそうな気がしていた。  「誰かいますか?」  コンコンと手の甲で戸を叩いてはまわる。これを住民はどう思いながら自分たちの声を聴いているのだろう。宁麗文はふとそう思ってしまって咄嗟に頭を振った。  一盞茶もしない頃にようやく空き家を見つけた二人は戸を開けて中へ入る。  空き家は当然の如くがらんどうとしていて、所々に蜘蛛の巣が張られている。大変綺麗とは思えない内観ではあるが、先程の畑で汚れに汚れきった宁麗文は何も動じなかった。慣れない作業での疲れもあるだろうが、それに順応している自分に驚きが隠せないでいる。唐秀英が先に一歩踏んで辺りに使えそうな家具を引っ張り出し、宁麗文と壊れかけている卓を囲む。  唐秀英が懐から嚢を取り、中にある点火符を出して風にかざす。瞬く間に点いた火を、探したろうそくに灯す。ろうそくは小さな燭台の上に立たれていて卓に置けるような形だった。  「腹は減っていませんか」  唐秀英の言葉に宁麗文の気が少し抜ける。初めての任務、それもこの惨状にしばらく緊張と恐怖を感じていたのが、今になって彼の一言によって和らいだ。頷いてはみるが、しかし眉を顰めて苦笑う。  「空いてます。でも……食べるものは持ってきてなくて」  「そう言うと思って、少しだけですが持ってきました」  唐秀英は続けて嚢から麺包を取り出す。ほんの四、五個だったが何もないよりかはマシだろう。  「本当は一人でも、ここの人たちに分けなければならないんですけど。……でも、僕たちが先にやらなければならないのは……」  唐秀英は苦痛の表情を浮かべながら彼に半分渡す。その表情を見た宁麗文もまた、彼と同様に下唇を噛んでから麺包を受け取った。  唐秀英は一度顔を伏せてから頭を振って上げる。  「まだ、僕たちの歴史について詳しく話してませんでしたね。あと話すことといえば……拷問、のところでしょうか」  宁麗文は躊躇いがちに頷く。  「実は僕もそこまで知っているわけではないです。でも、再発防止のためにと一通り教えてもらいました。まず、貧しい方は裕福な方、もしくは僕たちの関係者によって暴力を振るわれ、町から攫われてしまうんです。自分の町に着いた先で、その攫った人の町へ払えもできない身代金の要求をしたり、一回も帰すことなく過酷な労働をさせたり……中には一食も与えられなかった方もいたそうで、餓死してしまうことも少なくなかったそうです。亡くなってしまった彼らはそのあとも帰されることがなく……山へその遺体を野犬や熊などに喰わせていたと聞きました」  想像もつかない酷い惨状に宁麗文の片目が歪み、歯が下唇を噛む。淡々と話す唐秀英だったが、それでも不甲斐なさと憤りで声は震えていた。最後の一口を喉に押し込んで顔を俯かせてから頭を振って思いきり上げる。  「でも、今はそうではありません。前宗主が他界して、次の宗主になった父のお陰でこの桂城は平等になりました。そしてこれからも、僕が宗主になってもそれは変わりません」  上げた茶の双眸の奥が強く燃えている。宁麗文はそれに口を小さく開けた。  唐秀英は尊敬している、自分の父親を目標に生きている。そしていつか宗主になったその時でも変わらない、穏やかな生活を望んでいる。であれば、今は自分たちで歩むしかない。  ──それが、桂城唐氏の与えられた使命なのだ。  「明日は住民の方々に改めてご挨拶に参りましょう。今の現状はどれほど酷いのかも聞かなければなりません。……あの方たちにとってはお辛いかもしれませんが、任務のためです」  唐秀英は片手で拳を作る。宁麗文も頷いて麺包を食べきった。  麺包を食べたあとに唐秀英が持ってきてくれた、水の入っている桶に布を浸したもので身体をある程度清める。先に清めた彼が寝支度をしているのを見て一つ思い出した。宁麗文は古びて穴の見える箪笥の引き出しを開けて術がある札を取り出す。  「宁公子? どうされましたか?」  彼の様子に気付いた唐秀英が声を掛ける。宁麗文は札を手にしたまま、振り返ってにっこりと彼に笑みを向けた。  「父上に連絡をしなくちゃいけなくて。やってきます」  「そうだったんですね。分かりました」  数日と言えど、宁浩然は息子を気に掛けるだろう。しかも任務の内容は桂城に着いてから聞かされたのだ。その事情を知っているはずはないし、そうなれば宁麗文から伝達術を通すしかない。  宁麗文は伝達符に霊力を注いで薄緑に光るそれを前に瞼を閉じた。  「父上、私です。今は桂城での任務を遂行中です。まだ数日掛かると思われますので、終了次第また連絡します」  連絡を済ませて瞼を開けたと同時に外から戸を叩きつけるような轟音が鳴った。既に塵になった札を手で叩き落としてから唐秀英から戸へと顔を向ける。  (なんだ? 誰か叩いているのか?)  戸へ進もうとする宁麗文の腕を、唐秀英が引き止めるように掴む。振り返れば首を横に振って人差し指で音を立てないよう頷く彼がいた。分からない宁麗文は腕を掴まれたまま、とりあえずと微かに頷いて戸を見つめる。  ブブブとまるで大量の虫が羽をはためかせて鳴くような轟音はしばらく戸を何度か叩き、二人は息を潜めながら時が過ぎるのを待つ。それは長く感じ、また実際に長く掛かった。一盞茶弱ほど経つとようやく轟音はどこかへ行ったが、それでも宁麗文は息を潜めていた。日中よりも白くなっている彼に唐秀英がひとつ小さく噴き出した。  「もう大丈夫です。怖がらせてすみません」  「いえ……あの音はなんだったんですか?」  「|餓蝗《がこう》です。父からこのような場所に必ず現れると聞かされました。……もしかしてと思ったけど、やっぱりいたんだ」  眉根を顰める彼に薄茶の双眸が丸くなる。  「まさか──任務の本当の目的はあれなんですか⁉︎」   唐秀英は目を見開く彼の隣で頷き、そして箪笥の引き出しから邪祟を浄化するための術を込めた札──|邪華符《じゃかふ》を数枚掴んで外へ飛び出した。宁麗文は突然の行動にぽかんと口を開けたがそれもやめ、自分も札を持って外へ出る。   ぼやけた明かりは彼ら二人のいた空き家にしかなく、おそらく住民たちは餓蝗を恐れたが故に明かりを点けずに、怯えながら終わりのない地獄を生きていたのだろう。宁麗文は先に行った彼のあとを追いながら辺りを見回す。最初は暗闇であまり見えなかった光景に目が慣れてきた頃に、一羽の餓蝗が一軒の民家の格子窓から侵入するのを見た。その場所を見てザッと日中の記憶が蘇る。  (あそこには……子供がいる!)  宁麗文は懐から邪華符を取り出して窓へ入ろうとする餓蝗を手掴みで捕らえて両手を合わせた。それは一瞬にして光り、餓蝗を塵に変えた!  手の中で光線を浴びせられたそれは原形を留めないまま宁麗文の手から滑り落ちる。一つ息をつくと少し離れた場所から唐秀英の叫びが聞こえた。  「宁公子! 今すぐそこから離れて!」  宁麗文は声を発する間もなく彼の声がする方へ顔を向ける。その先は目の前には集団を成した餓蝗がいる。そしてそれらは、宁麗文へと襲いかかっていた!