第二章 花の想い話
九 柔らかい橙
翌日の朝。結局昨夜は二人が使うための風呂桶が見つからず、また濡らした布で身体と髪を拭いて水で顔を洗った。これだけでも割とすっきりとするが、なんとなく心の中は晴れない。
(いつになったらちゃんと沐浴ができるんだろ……)
宁麗文は濡らした顔のままがっくりと肩を落とす。いつか沐浴ができることを願いながら日々を過ごしていた。
滞在できる残りわずかの日数の中でも時間通りに漢方茶を飲む。茶壺の中身は朝に紅花が追加してくれるようで、毎朝訪れに来ては渡してもらう。宁麗文は一切の負担なくそれを飲むという生活をしていて、むしろ申し訳なさすらも感じた。いくら病人だとはいえ、彼女は餓蝗の被害者なのだ。本来ならば全て自分で用意するものなのだが、紅花は断固として宁麗文の手を借りなかった。しかし彼女の献身なる完璧な配合だからか、最初は死ぬほど痛かった腰痛も段々と痛みが和らいでいった。宁麗文はその実感が湧くにつれて心の中で喜びの波に乗っていた。
午後に茶を飲み終えて仕事に向かうために空き家から出ると唐秀英が空になっている籠を数個持って移動している途中だった。その彼が家から出た宁麗文を見つけるやいなやすぐに駆け寄る。
「腰の状態はどうですか?」
宁麗文は腰を軽く擦ってから微笑む。
「もう大体良くなってきてます。この前のはごめんなさい……その……気付かなくて……」
「いいんですよ。僕も声を掛ける頃合いを間違えてました。それにもう終わったことです。今日も一日仕事ができるように切り替えていきましょう!」
「……唐公子ってたまに眩しいって言われたことありませんか?」
「どういうことですか?」
「いえ、なんでも」
浅く乾いた笑いを浮かべる宁麗文に唐秀英は首を傾げるばかりだった。
「ところで、今からどこに向かわれるんですか?」
「これから畑の方へ。野菜たちが実ってきているので、収穫をしに行きます」
「そうなんですか! なら、私は修繕に行ってきます」
「分かりました。お互い頑張りましょう!」
籠をまた持ち直す唐秀英に頷いて彼が奥へ消えるまで見送る。
(そりゃあ半年も経てば野菜も実るか)
宁麗文は口元を上げて目を弧に描き、背伸びをしてから大通りへ向かった。
大通りも最初は荒廃としていたが、復興の任務として遣わされた二人がガラクタをある程度回収し、住民たちに力がつけば共に店の改修を始めていた。まだ手をつけていない場所もあるが、二人が尽力してくれていたお陰で今日に至るまでに全体のほぼ八割ほどが修繕済みとなっていた。
宁麗文が向かう先はこの町で一番大きい店だ。この店は数十年ほど昔からあったようで、住民たちに長く愛されてきていたと聞く。店主はとうの昔に亡くなっていて、今は何代目かの息子が経営していると聞いていたが、その息子も件の事件で誘拐されてしまっている。つまるところ、その店に長く携わっていた誰もの経営をする者がいないのだ。そのせいでろくに掃除もできず、販売をしていた商品も夏の日照りや冬になるまでの長期間の湿度や温度の関係で腐りきってしまった。住民たち
は思い入れも深く、愛のあるこの店をもう一度支えたいとの思いで特に修繕を完璧に仕上げたいと満場一致していたのだ。
「|麗《レイ》兄ちゃん!」
その店まで向かう途中に小さい子供の声が後ろからして足に少しばかりの衝撃が走る。振り返れば七歳ほどの少年が宁麗文の足にしがみついていた。
「|阿晴《アーセイ》」
宁麗文は阿晴と呼ばれた少年の脇の下に手を入れて抱き上げる。幼い彼はそれを気に入っているのか、無邪気に笑いながら宁麗文の首に小さな腕を回した。
「兄ちゃん、今日は遊んでくれないの?」
「うん、今日はお店を直さなくちゃいけないから。終わったら一緒に遊ぼう」
阿晴は不満げに唇を尖らせる。それを見た宁麗文は苦笑するしかなかった。
阿晴はこの町に来た初日に宁麗文が最初に見つけた子供だ。見つけた当初は五歳ほどだと思っていたが、あまりにもやせ細っていて実年齢よりも若く見えてしまっていたようだった。その時に一緒にいた老人は餓蝗からの襲撃を受けていた時に男たちが誘拐され続けていた直前に亡くなってしまっていて、温もりを探していた彼はその亡骸に身を寄せていたのだ。他に家族がいるのかを聞くとどうやら父しかおらず、母と姉はいたが襲撃時の阿晴に食糧をあげ続けた結果、飢餓で亡くなってしまったようだ。そして父は件の事件で誘拐されてしまった。宁麗文たちに見つけてもらっていなければ、彼の命はもうなかっただろう。
もちろん阿晴の他に|阿藍《アーラン》という人見知りで恥ずかしがり屋の少女や、|阿翠《アースイ》という可馨と紅花より下の少女もいるが、彼女たちは生き延びている自分たちの母の手伝いをしている。この町で唯一の男児である阿晴だけが何もしていないので暇なままなのだ。
宁麗文は阿晴を抱えたまま大通りへ向かって店に到着する。既に内装に手を付けている者がいたので、彼を一旦下ろしてから中に入り阿晴も宁麗文に続いて中に入った。
内装に手をつけていたのは四、五人ほどで中に可馨もいる。可馨と紅花はそれぞれ別に行動しているらしく、畑仕事と改修仕事へと交互に交代している。なのでここに可馨がいるということは畑には紅花がいるということになる。
可馨が振り返って宁麗文に気付く。そして視線を斜め下に落とすと阿晴がいることにも気付いた。
「阿晴。また宁公子に遊んでもらおうって思ってたの?」
「うん、だって暇そうだから」
「ひ、暇そうだから……」
彼の言葉に宁麗文は唐暁明から言われた「暇そうだったから」を思い出して自分の胸を強く握った。
(そんなに暇そうに見えるのか!?[#「!?」は縦中横] そんなに怠けているのか私は!?[#「!?」は縦中横] こんなに汚ったないのに!?[#「!?」は縦中横])
以前とは全く逆の、土埃と汗にまみれて汚くなっているというのに、それでもそう思われてしまうのは宁麗文という男が元々『そう見えやすい』からなのかもしれない。子供からもそう思われてしまう印象に泣きながら「なぜ」と問い質したいところだが、相手は子供なので仕方なく我慢した。
「もう、そんなこと言っちゃダメよ。宁公子が傷付くでしょ。ほら、苑おばちゃんのところに行ってきなさい」
「分かった!」
阿晴は元気に答えて宁麗文に顔を向ける。宁麗文はやや半泣きの顔を向けると、阿晴はまた笑顔になった。
「麗兄ちゃんも、お仕事が終わったら僕と遊んでね!」
「うん、分かったよ。ほら行ってきな」
しゃがみこんで阿晴の頭を軽く撫でて背中を少し叩く。彼はそのまま広場にいる苑へ向かって去る。立ち上がると可馨が少し笑った。
「宁公子、実はちょっと傷付いてました?」
「う……」
どうやら彼女に心情を気付かれてしまっていたようだった。宁麗文は少し恥ずかしくなって顔を逸らして顔を赤くする。
可馨に手の届かない場所の商品を取ってほしいと頼まれた宁麗文は袖をまくって商品を一個ずつ取っていく。それを廃棄するための籠に入れて他の住民が広場まで持っていく。それを繰り返して過ぎ行く時間など気にせずにあくせくと働く。店自体が大きいので天井に届くまでの棚がびっしりと壁に建てつけられているのだ。|梯子《はしご》は既に壊れていて使えないし、宁麗文と似た身長の住民もいない。そうなれば彼がこの中での救世主となるだろう。……それでも取れない商品は仕方なく諦めたのだが。
「ここってもしかして、漢方薬局ですか?」
古びた瓶を棚から回収して籠に入れていく宁麗文の言葉に可馨が瞬きをする。
「はい、そうです。よく分かりましたね?」
「ちょっと前に江陵で見かけたんです。確かこのお店と似た内装でした」
「そうなんですか。江陵にもあるんですね……でもそっか、世家の中心と呼ばれるほどですから。なんでも揃っているんでしたね」
宁麗文は口元を上げて頷く。
彼が住んでいる江陵は可馨の言う通り『世家の中心』と呼ばれている。これは各世家からこぞって江陵へ店を出すこと、そしてそこで商売をして各世家への観光を促していることからそう名付けられていた。宁麗文は青天郷に足を踏み入れるまで知らなかったのだが、道行く人々が桂城の野菜がどうだの、膳無の肉がどうだの、北武の薬がどうだの……と様々な話を耳にしていたのだ。
「お恥ずかしながら、うちの初代宗主はただの放浪人だったんです。元から場所を選ばずにずっと歩いてばかりだったんですが、いろんな人と触れ合っていくうちに様々な情報を手に入れていって。それから放浪の旅を終えて江陵に身を置いて、各地からいろんなお店を引っ張って今の形になったんです」
宁麗文は頬を指で軽く掻きながら笑う。
「そうなんですね。初代宗主がいなかったら、今の江陵はなかったと思いますし、もちろんここもなかったのかもしれないですね」
微笑む可馨に宁麗文は首を傾げる。
「そうですかね? 別にうちの世家がなくても桂城はずっとあると思いますけど……」
「もちろんあると思いますよ。けど、今みたいに栄えてはないかなって。私たちの住むところは江陵のお陰でここまで成り立っていますから。まあ、ここは今はそうじゃないんですけど」
可馨は苦笑いながら腐った丹薬の入った小瓶を棚から取り出す。宁麗文は今のこの現状に下唇を小さく噛む。
確かに、ここもかつては栄えた町だったのだろう。畑には広大な土地が広がっていたし、大広場を囲むようにして様々な店が立ち並んでいるように見えた。しかし現在は打って変わって|見窄《みすぼ》らしい。可馨の発言に理解はできるが、本当はしてはいけないものだ。
最後の商品を取ってそれを他の商品もある籠に乗せる。最後の籠は可馨が持って行って、宁麗文はそれに着いていく。釣られて出て振り返れば、入る前よりもすっきりとした印象を受けた。
ほとんど空の内装を何も考えないまま見つめていると、小さい何かが脚に抱き着くような衝撃を受ける。下を見れば無邪気に笑う阿晴が彼の足にしがみついていた。どうやら彼の仕事が終わるまで待っていたらしく、宁麗文も微笑んで屈んだ。
「仕事終わったよ。何して遊ぶ?」
「追いかけっこ!」
まだ声変わりを知らない高い声に口元を綻ばせながら立ち上がる。
「麗兄ちゃんが鬼ね!」
最初に阿晴が足を踏み入れて、宁麗文も小走りで彼の後を追っていく。
この大変な中でも子供だけは無邪気なままだ。半年前までは食糧もなく餓蝗に怯え続けて生きる気持ちなど持ち合わせてはいなかっただろう。しかし宁麗文と唐秀英が来て、まだ生きたいという気持ちが現れ、そして半年経った今では当時の見る影もない。
それを見る青年たちは「まだできる」と己を|鼓舞《こぶ》して今日も動く。そうして日々を過ごしていた。
午後になった。宁麗文は仕事の疲れを取ろうと広場でしばしの休憩を取っていた。たまに雨は降るが、それも直に終わるだろう。
宁麗文は江陵での日々を思い出した。
(昔はこんな風に外で動くなんて考えられなかったな。家に籠りっぱなしで、ろくに動けなくて……ずっと淋しかった。でも、今はもう弱くなんかない)
宁麗文は空を見上げながら、半年前よりも増えた鳥が飛び上がるのを見る。綺麗に翼を広げる鳥の様子を見て目を細めていた。
「宁公子」
声を掛けられて顔を横に向ける。そこに立っていたのは何かを包んだ布を持つ可馨だった。
「可馨さん」
「何か面白いものでもありましたか?」
可馨も彼の隣に座って空を見る。宁麗文も続けて見上げた。
「飛ぶ鳥が増えたなって。可馨さんは今から休憩ですか?」
「はい」
可馨は布の端を摘まんで外側へ開く中にあったのは二個の杏で、そのひとつを彼に差し出す。
「この杏、宁公子にあげます。皆さんには内緒ですよ」
「いいんですか? なら遠慮なく」
淡い橙色に染まった杏を一つもらってかじる。途端に溢れた甘い果汁が腕に伝って慌てて舐めた。
「それにしても、この地でも杏の木は大丈夫だったんですね」
「はい。ダメだったのは畑だけでしたので、木々はなんとも。でも、この杏は本来なら夏の真ん中の時期に実るんですよ」
面食らう宁麗文は口をぽかんと開ける。
今は夏に近くなっている春であるのに、なぜ夏の真ん中の時期に実るはずの杏が実っているのだろうか。可馨は彼の表情に目を優しく細める。
「桂城唐氏の術です。木々にだけ、いつ収穫できてもいいように特別に掛けられているんです」
「そうなんですか? 可馨さんはそんなことまで詳しいんですね」
可馨ははにかみながら杏を一口かじる。掌に溜まった果汁を飲み干してからまた実をかじった。
「皆さんに教えてもらったんです。皆さんはとても優しくて、いろんなことを知っている。私が分からないことがあればすぐに教えてくれるし、一緒に考えてくれる」
可馨はまた杏をかじる。宁麗文はその手を見ていた。
「私は、そんな皆さんが大好きなんです。だから、一寸でも速く……この町を元に戻したい。また前と同じ生活を歩んでほしいんです」
宁麗文は小さく開いた口を閉じて瞼を伏せる。
これほどまでにこの町に思い入れのある住民は見たことがなかった。いや、ないと言ってしまえば嘘にはなるが、彼女の言葉に苑の話を思い出した。
(この子の過去はなんだろう。聞いてみたい気もするけど……)
しかし仮に聞いたとして、彼女に返す言葉や感情はあるだろうか。あったとしても返せる勇気や度胸などないし、|却《かえ》って失礼な態度だと見受けられてしまうだろう。
(変に聞いちゃダメだろうな)
何も声に出せなかった宁麗文はまた杏をかじる。空を飛ぶ渡り鳥は二人を見下ろしてそのままどこかへ去った。
休憩が終わったあとはそのまま店の散乱した棚や折れた卓の解体をする。女の住民にはできないものは全て宁麗文が請け負って長い時間を掛けて、ようやく何もない開店前のすっきりとした場所へと変わった。
住民たちは男たちが帰ってきた時のために新しい漢方の調合や卓を作っていく。息子だけで切り盛りしていると言っても常連だった彼女たちも一通りの調合方法は知っていた。あまりにも難しいものは作れなかったが、素人でも作りやすいものは全て作った。宁麗文は調合の仕方がまるっきり分からず、それでいて不器用な質でもあったので参加はしなかった。広場で女性たちがあれこれ言いながら調合をしているのを見ていると横から袖を引っ張られた。引っ張った方を見ると阿晴が座っている彼の隣で立っていた。
「阿晴。どうしたんだ?」
「もう遊ばないの?」
宁麗文は苦笑する。
「疲れちゃったんだ。明日遊ぼうか」
阿晴はまた不満げに頬を膨らませる。子供はいつも体力が尽きるまで遊びたがることを、幼い頃から病弱だった宁麗文はよく知らない。だから彼の有り余る元気さに困っていた。
(子供ってこんなに元気なのか? このまま阿晴と遊んでたらそのうちお腹を減らして倒れてしまうだろうし。それに腰だってようやく治りかけてるのに……阿晴、申し訳ない、今日は勘弁してくれ!)
宁麗文はそのまま全てを阿晴に言うことはできなかった。彼を傷付けたくはないし、ここで言ってしまえば他の住民たちにも困らせてしまう。ただでさえ外部から来た人間であれがどうだのこれがどうだのとわがままを言ってしまったらせっかく積み上げたこれまでの信頼度がグンと下がってしまう。そうなれば復興作業の妨げになってしまうし、貴重な餓蝗のわずかな情報も手に入れられなくなるだろう。宁麗文はそれを懸念してただただ愛想笑いをするしかなかった。
阿晴は「遊んでよ!」「ねえー!![#「!!」は縦中横]」と駄々をこねていく。その度に宁麗文の袖から肩を掴んで乱れる衣類をよそにグラグラと揺らす。
「いや本当に……」
「遊んで!」
「阿晴、頼むから聞いてくれ……」
「じゃあ僕のも聞いてよ!![#「!!」は縦中横]」
「えぇ……」
少しの間|膠着《こうちゃく》状態に陥っているといつの間にか畑仕事を終えたのだろう、紅花が阿晴の首根っこを掴んだ。
「こら、阿晴。宁公子が困ってるんだからやめなさい」
紅花は呆れたように宁麗文から彼を剥がしてそのまま抱き上げる。阿晴はまだ持て余している体力を発散したいがために宁麗文を遊びに誘っていたのだ。しかしそれが叶うこともなく、紅花にたしなめられてしまった。それに顔が歪んでつぶらな双眸から大粒の涙を流して大声を上げた。
「もう、そんなに泣いて。また明日があるでしょ? 今は唐公子に遊んでもらいなさい」
「えっ」
彼女の後ろに立っていた唐秀英が声を上げる。彼もまた畑仕事にくたびれたように疲れていた。青年二人は互いに顔を見合わせて、ただただ浅く笑うしかなかった。
夜になった。二人は借家でこれまでの情報の整理をする。唐秀英は頼んで持ってきてもらった数枚の紙と筆記用具でこれまで収集した情報を書き連ねていく。
「最初は餓蝗による虫害が始まって、それが二ヶ月ほど続いていました。連絡網を使って父に伝えるつもりが、なぜか二か月後に僕たちが担当することに決定した。そうですよね?」
「はい。紅花さん曰く最初は自分たちで撃退なり対策なりしていました。だけど、男性たちが誘拐されてからは被害が格段に増えてしまった……」
唐秀英は腕を組みながら唸る。腕を離して持っていた筆先をまた動かす。
今回の任務に不可解な点が幾つもあるのだ。ひとつは『男たちの誘拐事件』で、もうひとつは『二か月遅れの依頼』だ。通常であれば、何か依頼があるとなれば迅速に連絡して宗主、もしくは担当を任された門弟がそこに駆けつける。しかし今回はそれがなぜか遅れていた。
宁麗文は眉を浅く顰める。
「私が思うに、怪しいのは敏さんです。確か彼はここの町長ですよね?」
「はい。町長が宗主に報告と救助を伝えるのは当たり前です。だけど、敏さんは元から身体が弱かった。連絡網を知っている彼でもどこかで限界を感じていたのでしょう」
筆を動かす唐秀英に自身の顎を指で支えて首を横に傾げる。
「その……聞きたかったんですけど、連絡網ってどこにあるんですか?」
「連絡網は大体、町長の自宅に設置されています。霊力がなくてもいいように、それ自体にも術を掛けているので、何かがあった時にそれに用件を伝えるんです。言わば……一般人向けの伝達術ですね」
「なるほど……でも敏さんは身体が弱くなって連絡網を使う体力がほとんどなかったと……」
宁麗文は深く考え込み、ふとあることを思い出していた。
「確か、敏さんは紅花さんの名前を呼んでいましたよね? なぜ彼女の名前が出たんでしょう」
それに唐秀英は紙にすらすらと文字を書き連ねながら口を開く。
「彼女は……彼女の父親が、敏さんの右腕だったらしいんです。右腕というか、補佐と言えばいいでしょう。彼は敏さんの仕事を手伝っていて連絡網も把握していた。となれば、もし自分の身に何かがあってしまった時のために紅花さんに伝えていたんでしょう。だから紅花さんの名前を出したんだと思います」
唐秀英はそれぞれ文字を並べ、数枚の紙に違う字を記す。『餓蝗』『誘拐』『被害』と、それに繋げる線を何本か描き、空いた箇所には記入するべきものがない。宁麗文はそれを見下ろしながら頭の中で点と点を繋ぎ合わせていく。
(この町の町長は敏さん。そして彼を支えていたのは紅花さんの父親。その父親の身に何かがあれば代わりに紅花さんが連絡網を使う。……それにしても、二ヶ月も経って伝えたのはなんでだろう? もしかして連絡網の場所が分からなかったとか? でも、それだと辻褄が合わないよな)
首を傾げてもよく分からない。唸ってみてもよく分からない。宁麗文の頭の中は完全にこんがらがってしまったようだ。頭に火が宿るような熱さを感じた宁麗文は卓に両肘をおいて掌で頭を抱えて俯いた。唐秀英はそれを見て困りながら笑うしかなかった。
「宁公子の考えていることは分かりますよ。なぜ紅花さんが連絡網を使わなかった、ですよね?」
「はい……父親から聞かされていたらすぐに使いそうなものなんですが。二ヶ月ほど間を置いて伝えたのはなんでかなって」
「そうなんですよね。この件に関しては僕から聞いてみます。とにかく、明日も早いので今日はもう寝ましょう」
宁麗文は片手で額を押さえながら「はい」とだけ答えた。
日が昇って起きた時に戸が叩かれる。宁麗文は眠たい目を擦って着崩れた服を整えてから戸を開けると、そこには紅花が立っていた。
「紅花さん? おはようございます」
「おはようございます、宁公子。ちょうどよかった、朝餉の準備を手伝ってもらえませんか?」
宁麗文は瞬きをして返事をし、あとから厨へ行くことにした。唐秀英はまだ寝ているようで起こしてしまっては申し訳がない。静かに手早く準備をして戸を静かに閉めた。
厨は埃ひとつもなくて綺麗な状態になっている。紅花は既に採った野菜を切っているところだった。
「紅花さん。お待たせしました」
紅花は包丁を置いて振り返る。
「来てくださってありがとうございます」
宁麗文は手を丁寧に洗ってから紅花からの指示を待つ。彼女は一通り野菜を切り終えてから宁麗文に鍋を出させる。
「今日は何を作るんですか?」
「今日は野菜の汁物を。せっかく採れたので、皆で頂こうかと思いまして」
「なるほど」
宁麗文は鍋をかまどに置いて水を入れる。その場でしゃがんで薪を入れてそこに持ってきた点火符で火をつけた。
「すごいですね」
宁麗文は紅花へと見上げる。
「修士様っていろんなことができるんですね。……そういえば、なんで剣を佩いてないんですか?」
彼女の疑問に宁麗文は立ち上がって火の加減を見ながら水を木の玉杓子で軽く混ぜる。
「あなたたちを怖がらせないためですよ。最初に来た時にいきなり剣を持った男たちが現れたら恐ろしいでしょう。だから持ってこなかったんです」
「そうだったんですね。でも、今は持ってきてもいいのに」
宁麗文は水面を掻き混ぜてぼやける自分を見ながら苦笑する。
「今は桂城唐氏の邸宅に預けてもらっています。唐公子が連絡してくれないと持ってきてくれないし、彼も今はいらないと思っていますよ」
「え、なんでですか?」
「今は使う時ではないので」
かまどの火で温まってきているからか、鍋の中の水が端でふつふつと沸いていく。宁麗文は紅花の切った野菜をまな板ごと持って野菜だけを鍋の中に落とした。それから軽く掻き混ぜながら鍋の中の様子を見る。紅花は彼の手際のよさに口をぽかんと開くばかりで、宁麗文は中々動かない彼女へと顔を向ける。
「どうかされました?」
「いや……料理作るの、上手なんですね」
宁麗文は頭にはてなを浮かべる。
彼は以前から青鈴の手伝いをしていて、そのうち自分から料理を振る舞うようになった。しかし、ほとんどは青鈴始め家僕の担当であって宁麗文が厨に入れるのは彼女だけがいる時だけだった。彼の手料理を食べたことがあるのは宁雲嵐と青鈴だけで、宁浩然と深緑、そして他の家僕は食べたことがない。彼曰く「もし下手くそなものを食べさせてしまったらって思って」とのことで、つまるところ仲の良い二人にしか振る舞いたくないと遠回しに言っている。
初めてここに訪れて唐秀英ともち米粥を作ったことはあったが、あれは彼がほとんど作っていて宁麗文はあまり手を出さないようにしていた。厨がやや狭いこともあって、迂闊に手を出すとせっかくのもち米が台無しにしてしまうと恐れていたのだ。
「そうですかね? これでもまだまだですよ。紅花さんの方がお上手です」
「そんなこと言わないでください。上手って言ってくれるのはありがたいですけど、宁公子もとてもお上手ですよ」
慌てる声色に思わず噴き出してしまった男に紅花はぽかんと口を開けていたが、それもすぐに笑いに変わる。おかしくなってしまったのか、二人は互いに小さく笑っていた。
紅花が様々な調味料を持ってきて胃に優しいものを選ぶ。朝餉とはいえ、あまり重いものだと胃もたれをしてしまう者がいるかもしれない。だから敢えて優しい調味料を選んでいるのだ。
宁麗文はそれをもらって目分量で入れていく。箸を突っ込んで鍋の中の野菜が柔らかく茹でられていたのを確認する。箸を適当な場所に置いて、近くにあった小さな器に手に取った玉杓子で掬った汁を入れて味見をする。
「うん、美味しい。完成です」
宁麗文は彼女へ顔を向けて微笑む。紅花も目を弧に描いて配膳の準備を進めた。
少し時間が経って厨に一人、二人と住民が入る。彼女たちが入ったすぐに漂う飯の匂いがして互いに顔を見合わせる。歩を進めれば今まさに、ひと房を高く結い上げた少女と大きく輪にまとめた青年が次々と器に汁物を注いでいるではないか。面食らう二人に、先に気付いた紅花が振り返った。
「あっ、おはよう。来たところ悪いんだけどこれ持ってってくれない? まだ全然終わらなくて」
「いいけど、紅花。あんた、宁公子に作らせたの?」
頬にそばかすを乗せている|美朱《ミンシュウ》は呆れたように腰に拳を当てる。その隣にいる、彼女より背が高く眉の垂れ下がっている|芽衣《ヤーイー》も同意するように首を縦に何度も振る。その二人の態度に宁麗文は頬を掻きながらはにかむしかなかった。
「すみません、私が自分で勝手に作っただけなんです」
「えっ!?[#「!?」は縦中横]」
少女二人は目を白黒と変える。
ま、まさかこの公子様自らが!?[#「!?」は縦中横] この厨で!?[#「!?」は縦中横] 料理を作った!?[#「!?」は縦中横]
美朱と芽衣はその衝撃にしばらくその場から固まったように動けない。紅花は呆れ、宁麗文は頬を掻きながら微苦笑を浮かべるしかなかった。
四人がかりで住民全員の朝餉を食堂へ持っていく。既にちらほらと集まっており、中には欠伸をしている者や机に突っ伏してまた寝ている者もいた。唐秀英は宁麗文を探していたようで、食堂の入口で複数の汁物の入っている器を器用に持っている彼に目を見開いた。宁麗文は汁物を手前から順番に並べていく。唐秀英の近くまで来た時に眉と口角を上げたままで彼を見た。
「な、なんで朝餉の準備をしているんですか?」
「紅花さんに手伝ってほしいと言われたんです。結局私が作ったんですが、お口に合うと嬉しいです」
またもや面食らう彼に先程の美朱と芽衣のようだと宁麗文は苦笑するしかない。唐秀英を始めとした住民全員が宁麗文が朝餉を作ったという事実、そしてその味が今までにないほどの美味にただただ驚愕と戸惑いが隠せなかった。
(私って……そんなに不器用に見られてるのかな……)
宁麗文は湯匙で汁物を啜りながら心の中で泣いていた。
朝餉を摂った宁麗文と唐秀英たちは仕事に精を出す。もう粗方復興が終わっているがこれからの生活はどうなるかは分からない。だからこそ今でもこの生活を絶やさないようにと必死に動いていた。
半年の間、宁麗文は様々な景色を見た。
荒れた地。餓死寸前の住民たち。炊き出しの温かいもち米粥。
乾いた土から生まれた芽吹き。それはやがて|蔓《つた》を出して葉を生み出し、花を咲かす。
その小さな命の流れのように時間は進み、住民たちの絶望の顔が次第に希望へと満ちる。
子供の無邪気な声。空に増えた行く鳥。潤い始めた畑。
宁麗文は外を出て、たくさんの経験を得る。それが良いことでも、悪いことでも、そのどちらも両手に抱えていくのだろう。
ふと江陵宁氏の家訓を思い出した。
(民にも、天にも優しくあれ。これが、そういうことなんだろうな)
宁麗文はまた空を見上げる。もうずっと、雨は降っていない。これからは晴れが続くだろう。暑くもなっていくのだから、暑さに負けないような冷たいものを作って皆で食べよう。
つま先の向く方から声が聞こえた。前を向けば泥だらけになっている阿晴が宁麗文に向かって走っていた。また足元に抱き着いて彼を見上げる。その顔には誰もが見ても愛おしいと感じるような笑顔が浮かんでいた。宁麗文も口角をにっこりと上げて少年を抱え上げる。
「麗兄ちゃん、今日は遊べる?」
阿晴は彼の首に手を回して顔を近付ける。宁麗文は彼の頬についている泥を優しく指で拭った。
「うん、遊べるよ。何して遊ぶ?」
宁麗文は阿晴を抱えながら歩き出す。広場に行けば珍しく可馨と紅花が談話しながら薬草を選別していた。宁麗文と阿晴に気付いた少女たちは宁麗文たちへと顔を上げる。
「阿晴、また宁公子のところに行ってたの?」
可馨が立ち上がって阿晴の頬を優しく突く。彼は大きく頷いて宁麗文の頬に自分の頬をつける。宁麗文は彼から感じる温もりが好きで、押しつけるようにもっとくっつけた。可馨は二人のその笑みに釣られて眦を優しく下げる。
「じゃあ、宁公子と薬草を選ぼうか」
「私も? いいんですか?」
「いいですよ。一人より二人、二人より三人。人が増えれば増えた方が選びやすいんです。教えますので、宁公子も来てください」
宁麗文は瞬きをしてから口元を上げて頷いた。
宁麗文は刻一刻と迫る日の中で畑仕事と再建仕事を交互に進める。時には唐秀英の手伝いもし、彼も自分の仕事を手伝う。住民たちでできないことがあれば彼ら二人が率先して手をつける。少しの雨が降ってもすぐ晴れてまた動いていく。二人は住民たちが寝静まった頃に静かに巡回して餓蝗がいないかを確認し、寝る直前まで情報を整理する。
それを二、三日ほど繰り返した翌朝に町全体に衝撃が走った。